プラスチックごみの分別が不要ってマジ?

プラスチックごみの分別が不要ってマジ? 戯言

日本では、ゴミを分別して出す決まりになっていて、ほとんどの人がルールに従って様々なゴミを処理していることでしょう。私も過程で出たごみを可燃ごみやリサイクルプラなどをそれぞれ別のゴミ袋に貯めて決められた日程で出しています。

今回は、そんなゴミ出しのルール自体が正しくないのではないかというお話から始め、日常生活で「普通」と思われていることの中にも多くの問題点があるという点について触れていってみます。

最初の疑問はリサイクルプラと可燃ごみ

私の住んでいる地域では、定期的にゴミの出し方をまとめたポスターのようなものが各家庭に配布されてきます。そのポスターには、それぞれのゴミ出し区分に出すことが出来るゴミの種類やその出し方などが簡単にまとめられています。

その中に、リサイクルプラのゴミについても記載がありますが、リサイクルとして出す場合は綺麗に洗浄したものである必要があり、汚れがひどいものは「可燃ごみ」として出す様に記載があります。

私はここで一つ疑問が浮かびました。

プラスチックのゴミなのに、可燃ごみとして処理してしまっても良いということは、焼却炉などの設備としてはプラスチックを処理する能力はあって、「出来るだけリサイクルしようという努力目標がリサイクルプラ」ということなのだろうか、と思ったのです。

私たちのゴミの分別は、「必ずその区分で出す事」を決めた「絶対的なルール」と思っていたのですが、出来るだけリサイクルで出してくださいという「努力目標」なのであれば、洗うのが「面倒な時は可燃ごみとして処理しても良い」ということになってしまいます。

実際に、汚れの酷いもので洗浄が難しいまたは面倒ななものは可燃ごみとして出していますが、特に注意されたりとかはないので、特に問題はないのだと思います。(まぁポスターに書いてあることに従っているだけなので当然と言えば当然なのですが)

プラスチックごみの分別で起きている問題

実はこのプラスチックごみの分別によって、困っていることが起きているとのことです。

以下は自民党の小野田紀美氏が発言している内容をYoutubeのショートにまとめてくださっている動画です。プラスチックごみと焼却炉の課題について言及されています。

小野田氏の発言では、「プラスチックごみが分別されたことにより、可燃ごみの処理の際の燃焼エネルギーが足りなくなり、不足分のエネルギーとして重油を輸入しなければならない」という本末転倒な事態をさけるべきとあります。

私たち一般市民はあまり知らない事ですが、可燃ごみの焼却炉としてはプラスチックも一緒に焼却処分する能力があり、可燃ごみと一緒に焼却することでよく燃焼してくれていたそうです。これは、プラスチックが元々石油等から作られていることに起因しており、プラスチックを燃やすと高い温度を得られるそうです。

それが、国のゴミ処理のルールによって、可燃ごみとプラスチックごみを分別するようになったため、可燃ごみを燃やす時に十分な高温を得られない状況に陥りつつあるのが現状で、このままプラスチックごみの減少が続くようであれば、不足分のエネルギーを重油等を燃焼させることで補ったり、「国民が分別したプラスチックを可燃ごみ焼却のために投入する」といった本末転倒な施策が必要になる可能性があるとのことです。

ゴミの分別に関するルール作成が行われた際に、どういった経緯で行われたのかは判りませんが、決めたルールに従った結果新たな問題が発生しているのであれば、適宜軌道修正する必要があるでしょう。またルールに従っている私たち国民も、ただ盲目的に従っているのではなく、そのルールが本当に機能しているのかどうか常に注意をしなければならないと、改めて考えさせられました。

そのルール正しいですか

私たちの住んでいる日本という国は、海外から見ると「多くのルールがある国」とされています。それは、憲法や法律などではない、いわゆる「暗黙の了解」や「常識」といったもので、国民の中で共通認識のように扱われている事項が多いということです。

近年ではZ世代と言われるような若い世代の人たちが、こういった日本従来の常識を打ち破るような提案をすることで、賛否両論の声が上がっているというニュースを耳にすることも多い気がします。年長者たちは「昔からそうするのが当たり前」という声をあげ、若者は「そのルールはおかしい」ということで、意見が割れているようです。

こういった議論が行われることは、国全体としてはとても良い傾向だと、個人的には思います。ルールに「盲目的に従う」のではなく、ルール自体も正しいかどうかの是非を問い続けることで、変化する社会に適したルール作りが継続して行えるのではないかと思うのです。

レジ接客を座ったまま行う

本件に関する具体例として、少し前に話題にもなったニュースを一つだけ取り上げてみます。

このニュースでは、レジのアルバイトを経験した大学生が「レジの仕事は長時間立ちっぱなし」というルールがおかしいと声を上げた結果、ドン・キホーテなど一部の店舗などで試験的にレジへ椅子が導入される動きがあるというものです。

レジの仕事は立ってやる必要がなかったり、海外ではレジ担当が座っているという光景はよく見かけるものだという視点から、改善を提案するに至ったそうですが、こういった既存のルールに縛られず、改善を模索するという行動を起こす事はとても難しいと思うので、本当に素晴らしいことだと思います。

賛否両論なのは、日本人的な発想で「お客様は神様」という言葉がありますが、座った状態で接客するのは接客態度として良くないのではないかという意見があるからのようです。

個人的には、「お客さんは立っていて、従業員が座っている」という状況は、その場面だけをみると違和感を感じてしまうのは、私も昔の価値観に縛られているからでしょうか。とはいえ、従業員が座って接客していても「不快に思うほどではない」のも事実で、あぁそういうお店なのかと思うだけです。

従業員が快適に業務にあたることが出来る、いわゆる「労働環境の改善」は、企業としても「労働力の確保」という観点からも無視できない時代にもなってきました。しかし、労働力が必要なのは売り上げが上がっているからで、労働環境を改善した結果客に見放されてしまって売り上げがあがらなくなるのであれば、本末転倒です。

資本主義社会の闇

こういった既存のルールに疑問を持って、その改善を訴えることはとても大事な事ですが、本件に限って言うと、結局資本主義である以上経営者/資本家がルールであり正義なので、いくら労働組合が騒いだところで売り上げ確保が難しいようであれば、変えていくことは難しいでしょう。ドン・キホーテやコンビニのような大衆的なお店であれば大きな問題はないと思いますが、ホテルや旅館のような格式があるような店舗の場合、座っての接客は印象が良くないと思われる場合もあるのではないでしょうか。自分が経営者であった場合に、客足が遠のく可能性がある選択を取ることは、とても難しいと思うのです。

座って接客したいという声に対して、経営層が「だったら辞めてくれてよい」と返答したら、話はそれまでです。立ったままでも働きたいという労働力は他にもあるのです。今回の大学生の行動力は評価に値しますが、資本主義社会で被雇用者である以上、雇用側との契約内容には従わなければなりません。合意形成ができないのであれば、雇用契約は成り立たないため、被雇用者は雇用側の条件を飲むか職を失う以外に道はありません。

どうしてもその条件を承服しかねるのであれば、自分が経営側にまわる、つまり起業する以外にないでしょう。それが資本主義というシステムの不条理さでもあります。

常識や暗黙のルールにも疑問を持とう

日常生活の中では、当たり前と思っている常識や暗黙のルールが沢山潜んでいます。それらに対して従うことが当たり前であり「普通の事」になっていて、気づかないことも多いでしょう。

私は、近年の社会的な意識の変化に影響されてか、こういった「普通の事」ということに疑問を持つべきだと強く感じるようになりました。特にショックだったのが、男尊女卑思想といわれる男性優位の社会構造や無意識化で行っている性差別のようなことが、自分自身にも当てはまる部分があると感じたことです。気づかないうちに相手を傷つけたり、失礼な言動を取ってきた人生なのだと思うと、せめてこれから先は、そういったことがないように振舞いたいと思うようになったのです。

今は、「普通」という言葉が嫌いになっています。同じような意味ですが、常識や一般的にという言葉にも、嫌悪感を感じます。これらの言葉は、社会的・通念的に広く共通して認識されている事項ということですが、こういった事にも多くの問題が潜んでいると感じるからです。

今回冒頭で取り上げたプラスチックゴミの分別の問題や、座ったままのレジの接客など、「普通」に行ってきたこと自体にも多くの問題あることを忘れず、疑問を持って「より良い、より正しい」道を模索することこそが重要だと思うのです。

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