2024年10月に、第50回衆議院議員総選挙が行われました。自民党の「政治とカネ」の問題が大きく取り沙汰される中、石破政権が誕生した後十分な議論をすることなく直ぐに実施されたことで、野党からは批判の声も上がりました。更に選挙期間中には非公認議員へお金を配ったという情報がリークされたことによって、国民の自民党への不信感は更に高まり、結果として自民党は連立している公明党と合わせても議席が過半数に届かないという状態になりました。
そんな中で、大幅に議席を増やした国民民主党は、国民に寄り添う即効性の高い減税策を掲げており、選挙後も更に支持を拡大している勢いで、SNSなどでは国民民主党や党首の玉木雄一郎氏を応援する声が多く聞かれます。国民民主党は自民党とは連立せず、「各党と等距離で政策ごとに」交渉していく方針を明言しています。
過半数割れした自民党、過半数に届かない野党の中で、少数の野党が「決定権を持つ」という状況をみると、どうしても「村山政権」を思い出してしまいます。今回は、現在の国民民主党の状況と共に村山政権時の状況を比較しながら、今後の状況を考えてみます。
国民民主党と石丸伸二戦略
国民民主党は、元々国民に寄り添った政策本位の政党として活動はしていましたが、広く国民に支持はされておらず、今回2024年の衆議院総選挙まで議席は7という典型的な少数政党でした。今回議席を28まで伸ばした国民民主党は、これまでとは違った選挙戦略を行ったことで、報道などにも取り上げられていました。
国民民主党の選挙戦略は色々あったとは思いますが、以下の方針が含まれていたことは間違いないでしょう。
- 103万の壁を強烈に訴える (One issue)
- 政権交代を訴えない (キャスティングボートをとる)
- 単独で政策案を提出可能な21議席を目指す (分かりやい目標を掲げる)
この戦略は、ネットメディアのReHacQに玉木雄一郎氏が出演した際に、対談相手である石丸伸二氏から示された内容でもあります。勘違いしないように正確に書くと、具体的な政策や数字(103万や21議席)は国民民主党で詰められていますが、大きな方針として上記リストの()内を石丸氏が示していました。
石丸氏が2024年の7月に行われた東京都知事選を巧みな戦略で戦ったことは記憶に新しいです。玉木氏との対談ライブ配信では、石丸氏の選挙戦略アドバイスの事を「コンサル」と呼ぶコメントが沢山見受けられました。同放送をみていた視聴者は、この対談後の国民民主党の戦い方が、石丸氏のアドバイスを受け入れたものと感じたのではないでしょうか。
この石丸氏のコンサルの場面を1分程度にまとめられた素晴らしい動画がYoutube上に公開されていましたので、ここで合わせて紹介しておきます。
この元動画はReHacQで全編(2時間弱)公開されていますので、興味のある方はそちらもご覧ください。(ReHacQの動画 : 【石丸伸二vs玉木雄一郎】緊急生対談!国民民主党…これからの存在意義は?【高橋弘樹】)
2024年は特に石丸氏の出馬した東京都知事選以降に、「従来の政治の在り方」を変えようとする動きが非常に強くなっているように感じます。政治に関する報道やSNSの発信に対する国民の生の声をみていると、「政治のエンタメ化」という言葉通り、多くの国民が今の政局を一つのエンターテインメントとして楽しみ始めているようにも見えます。
今回の衆議院選挙を終えて、作戦通り決定権を握った(キャスティングボートをとった)国民民主党や、過半数を取れなかった自民党、立憲民主党などの野党は今後どのように動いていくことになるでしょうか。
少数政党が決定権を持つ特殊な状況へ
「キャスティングボート」という言葉が盛んに聞かれるようになりました。
キャスティングボート(casting vote)とは、元々議決において賛成と反対が同数となった場合に、議長がどちらかに決めるという権限の事ですが、転じて過半数を割り込んだ2大勢力の間で、第三の少数勢力が決定権を握っている状態の事を指します。
今の政局でいうと、勢力(議席数)的には国民民主党や日本維新の会が該当しますが、維新の会は自民・公明共に選挙や過去の政策での禍根があって与党への協力が難しい状況でもあり、特に国民民主党への注目が集まっています。
(2024/11/10 追記)
自民党 石破総理と維新の会の馬場代表が会談し、馬場代表が「自民党の話を聞く気は毛頭ございません」と石破総理に伝えたことが報道されました。これから自民党は、過半数を持っていた岸田政権時の「傲慢さのツケ」を払っていかなければならないでしょう。
与党である自民党・公明党は、国民民主党を抱き込むことで自分たちの政策や予算を有利に進めたいと考えるところですが、国民民主党は選挙後すぐに「連立をしない方針」を公表しています。国民民主党を支持する国民の多くは、自民党政権にもNOであると共に、野党第一党の立憲民主党も同じくNOという立場であると考えられるため、この玉木代表の発言は、支持者の信頼に答えるものだったのではないでしょうか。
玉木雄一郎氏は、かなり強気に交渉を推し進めていく方針のようで、「103万円の壁」の件が進まないのであれば、「予算も法案も賛成できない」と言い切っています。つまり彼は「本気で公約を達成」しようとしているのです。これに対してSNSなどでは、「公約って実現するものなのか」という声も上がっており、選挙後に権力闘争ではなく政策の話ばかり報道される現状に、困惑と期待が感じられます。
この状況を目の当たりにすると、ほんの30年ほど前に同じように自民党が過半数を割れた状況になった際に、内閣総理大臣のポストと引き換えに連立を組んだ政党があったことを思い出さずにはいられません。
村山富市 : 過半数割れした自民党と連立して総理大臣へ
1994年に第81代内閣総理大臣に就任した村山富市氏は、当時日本社会党の党首でした。総理となる前は野党連合に参加する形で与党となっていた社会党でしたが、連立政権内の他政党と不和となり離脱しており、その後の衆議院総選挙では、逆に過半数割れした自民党と連立することで改めて与党となり、総理大臣のポストを得ました。
経緯は異なりますが、2024年と同じように「過半数割れした自民党」と、同じく「過半数割れした野党」の間で、少数の野党が行く末を決めることができるという状況だったと言えるでしょう。
村山富市が始めた社会民主党(社民党)
1994年は30年も前で、昔の事のように感じてしまいますが、今も「社民党」としてその流れは続いています。
村山総理は内閣総理大臣を辞任した後、日本社会党は解党し、名前を変えて「社会民主党(社民党)」を結党して初代党首となっています。その後は土井たか子(2代目)、福島みずほ(3代目他)へと党首が移り変わっています。2020年代になってから立憲民主党に一部合流したことで、社民党はさらに党勢を縮小していますが、今回(2024年)の衆院選後も社民党は1議席を獲得しています。
そんな社民党の生みの親でもある元総理の村山氏は、2024年にニュースにもなりました。
100歳になった村山富市氏
2024年に、村山富市元首相が100歳を迎えるということがニュースで報じられました。村山氏は大正生まれで先の大戦では学徒動員~学徒出兵も経験していて、戦前から現在に至るまでの日本を見てきている政治家の一人で、存命する内閣総理大臣経験者としては最高齢とのことです。
そんな社民党の生みの親であり、内閣総理大臣にもなった村山氏について、少し掘り下げてみましょう。
村山富市と言えば
村山富市は、政治も国民の生活も「過渡期」であり「激動の時代」に総理大臣を務めた人物と言えるのではないでしょうか。
政治の面では「政府与党が入れ替わる」という大きな動きがあった時代です。
1955年に自民党が結党して以来、40年ちかく政府与党は自民党が担っていましたが、1993年に野党が連立することで非自民政権を勝ち取りました。この細川内閣は内閣支持率が驚異の71%と、今では考えられない程に国民に支持された記録が残っています。それほどまでに、国民の政治への関心と期待が高まっていたと考えられます。この連立政権は細川内閣(1993年8月-)から羽田内閣(-1994年6月)と受け継がれますが、1年も経たずに内部崩壊してしまいます。長続きはしませんでしたが、日本の政治を揺り動かした事には間違いないでしょう。村山氏の社会党は当時の連立政権に参加していました。
その直後、鞍替えして自民党と手を組んだ社会党の政権が村山内閣(1994年6月-)です。
政局の話も気になりますが、「村山富市といえば」で最初に思いつくのはやっぱり「村山談話」なのではないでしょうか。
戦後50年(1995年) – 村山談話
村山談話とは、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題されて、村山内閣から出された公式な文書で、先の大戦においてアジア諸国において侵略や植民地支配を行ったことを認め、公式に謝罪しています。この方針は、現在の日本の「公式見解」として歴代内閣に引き継がれています。
外務省が文書全文を公開しています。比較的短い文章なので、興味がある方は是非ご一読ください。
村山談話 – 外務省公式
最も就任していた年を覚えやすい総理大臣 村山富市
村山談話が「戦後50年」の節目で発表されたことで、1945年の終戦から50年の1995年は「村山内閣」だとすぐに思い出せます。歴代総理大臣の中で、こんなに就任していた年を覚えやすい内閣総理大臣が他にいるでしょうか。
成立 | 終了 |
---|---|
1994年6月30日 | 1996年1月11日 |
上記表に村山内閣の成立と終了を記載しましたが、この表を見てわかる通り、1995年は一年を通じて村山富市が内閣総理大臣を務めています。
この1995年という時代は、私のような人間だけでなく、多くの日本国民の今の生活においても大きな転機でもあった年なのではないでしょうか。
1995年と言えばWindows95
私はITの人間なので、ITに関連した出来事も紹介してみます。当時の状況を理解し、想像するためにも、どのような状況だったのかを知るために、歴史を多角的に観察することは大事だと思うのです。
村山富市が村山談話を発表した1995年は、今は多くの人が日常的に使うようになっているWindowsの「OSとしてのデビュー作」Windows95が発売された年(1995年8月25日)でもあります。(日本語版は11月)
勘違いされないように「OSとしてのデビュー作」と表現しましたが、Windowsは95がリリースされる前から存在はしており、当時はWindows3.1と呼ばれる製品が主流でした。それまでのWindowsは、MS-DOS(Microsoft Disk Operating System)というCUI(いわゆる黒い画面に文字だけ)の状態から起動する「一つのアプリケーション」という位置付けでした。
Windows95はOS部分と統合(包括)したことが非常に画期的で、以降は「Windowsさえあればパソコンが動く」という、新しい時代に突入したといえます。
それまでは「専門家かオタク」しか使っていなかったようなパソコンという機械が、多くの人から注目されるようになり、それまでのMS-DOS用のソフトウェアが次々にWindows用へと移植されました。
そんな中で更に注目を集めたのが、今は欠かせないものとなっている「インターネット」です。特に、Windowsが普及したことで、絵や音などを含めた「マルチメディア」な情報を扱いやすくなったこともあり、「ブラウザでウェブサイトを閲覧する」という文化が急速に広まっていきました。
Internet Explorerの登場とOSとの統合
Windows95が登場した当時は、Windows(OS本体)にはウェブブラウザが付属していませんでした。今では想像することも難しいかもしれませんが、パソコンを起動してもネットの情報をみるアプリケーションソフトがインストールされていない時代だったのです。
ネットの情報を閲覧するためには、別途Internet Explorerというアプリケーションをインストールする必要がありました。当時はインターネットプロバイダに接続するための機器(モデム)などの同梱CDなどに、Internet Explorerのインストーラーが入っているような状況でした。ブラウザがない状態では新しくネットからブラウザをダウンロードすることもままならないため、こういったCDは重宝しました。
1997年になってWindowsとInternet Explorerが統合すると、従来のWindowsアプリケーションが不安定になるなど大きな影響がありましたが、それも徐々に安定していき、以降は「パソコンを買うとインターネットが見れる」という時代に突入しました。今となっては「パソコン = ネット」が常識となってしまっていますが、当時は大きな衝撃があり、以降急速に国内でのパソコンとインターネットの普及が進んでいきました。
私は当時高校から大学に上がったばかりの頃でした。入学してしばらくは、提出するレポートの調べ物などで学内のUnix端末を使ってインターネットとは触れ合っていました。当時のUnix上でのブラウザmosaicが懐かしく思い出されます。今でもChromeやEdgeなど様々なブラウザの派閥があったりしますが、当時はWindows上でのブラウザ覇権争いは激しく、特にIE(Internet Explorer)派とネスケ(Netscape Navigator)派は過激で、もはや宗教と呼べるほどの様相でした。
Windowsリリース後は世界が一変し、特にパソコンに詳しい仲間たちの間で、インターネットを通じて入手したフリーソフトや怪しい音楽(mp3)などが急速に出回り始めたことを覚えています。特に音楽は「CDを買って聴く時代」だったことを考えると、mp3が横行したのも理解できます。人間の芸術を求める衝動が無法状態で世界中を駆け巡っていたともいえるでしょう。
Windowsが普及し始めたころには、今のようなSNSやYoutubeのようなサービスはまだありませんでしたが、掲示板やチャットなどを通じて世界中の人と情報交換ができるようになり、最新の情報をテレビ以外から入手することができるようになった瞬間でもありました。
1995年は激動の時代
パソコンやインターネットという言葉が囁きだされた1995年は、日本にとって大変な年でした。政治の面でも55年体制と言われた自民党政治が終焉を迎えて揺れていましたが、それだけではありませんでした。
日本を揺るがすほどの衝撃だった、1995年の代表的な事件を取り上げてみます。
阪神淡路大震災 (1995年 1月)
1995年の1月17日の午前6時少し前というまだ多くの人が寝ている早朝の時間に、兵庫県淡路島近辺を震源とする大きな地震が発生しました。地震の規模を示すマグニチュードは7.3を記録し、6000人を超える犠牲が出る大災害となりました。
日本としては、当時戦後最大の被害をもたらした自然災害であり、まさに未曽有の大惨事という状況でした。
特に「経験したことのない大災害」であったことで浮き彫りになった「杜撰な体制」が印象的で、逆にこの災害の後から本格的に「近代的な災害対策」がとられるようになったともいえるでしょう。災害発生時の総理大臣であった村山富市が、自衛隊派遣が遅れたことに対して「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁したことは強く非難され、内閣支持率を急速に下落させましたが、それほど「想定外」の事態だったという事です。
阪神淡路大震災時に現場の医療従事者が「トリアージ」を行った事も話題になりました。傷病の症状から患者の緊急度や優先度を決めるトリアージは日本ではほとんど行われていませんでいたが、阪神淡路大震災発生後に、可能な限り多くの方を救うために現場の判断で行ったとされています。以降トリアージは、緊急時の対処として国内では周知されるようになり、その後震災の際などには行われるようになっています。
オウム真理教 – 地下鉄サリン事件 (1995年 3月)
海外の人が「日本は安全な国」と好意的な評価をしてくれる昨今ですが、そんな安全を脅かす事件が起きました。かつて日本の首都東京で起こった大規模なテロである「地下鉄サリン事件」も1995年の出来事です。
地下鉄サリン事件は、オウム真理教の信者が東京の地下鉄内で神経ガスであるサリンをバラまいた同時多発テロ事件です。朝8:00頃の通勤時間帯を狙った犯行だったため、地下鉄を利用する多くの人たちが被害にあいました。地下鉄駅周辺の道路に倒れ込んで苦しむ大勢の人や、救護・警察関係の人や車両がごった返している大変な状況が、連日テレビなどで報じられました。
事件後にはオウム真理教の犯行が明らかになっていき、最終的には教祖の麻原彰晃や大勢の幹部が逮捕されました。麻原氏や事件に深く関わった数名は死刑が確定し、既に刑は執行されています。一方でメディアの対応を担当していた上祐史浩氏は、公的文書に関する罪を問われて服役していましたが地下鉄サリン事件等の凶悪犯罪には関与していないとされ、現在は出所してひかりの輪という宗教団体の代表を務めています。
オウム真理教は地下鉄サリン事件が有名ではありますが、その他にも多くの犯罪行為も行っていたり、選挙にも出馬するなど、多くの話題が日々報道され続けていました。特に衝撃だったのが、テレビの生放送での直撃インタビューの最中に、オウム真理教の幹部一名が刺される瞬間が報道されたことです。その後の対応も含めて、今以上にメディアの行動が非常識すぎたのがとても印象に残っています。
1995年の情報収集はテレビが主流
1995年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件のような日本を揺るがす大きな出来事がありましたが、当時スマートフォンはまだなく、ポケベルから携帯電話やPHSといった移動体通信機への移行が急速に進んでいるといった時代です。2024年の現在からするとたった30年前ではありますが、パソコンもインターネットも普及していない時代で、新聞やテレビなどしか情報収集する方法がなかったということに、改めて驚かされます。本当に便利になりました。
当時を生きていた自分としても、新聞やテレビしかないのが普通で特に不便だとは感じていませんでしたが、今は逆に新聞・テレビを全く見ることが無くなり、すべてネットの情報だけで済むようになってしまっています。しかも、当時はテレビの番組中はテレビの前に長い時間拘束されていましたが、今は隙間時間に効率よく情報収集することが出来ており、より人生の貴重な時間を有効活用できていると感じます。これからのメディアの在り方や、私たちの情報リテラシーの行く末はまだ分かりませんが、間違いなく言えるのは「大きな変革の時期」であるという事でしょう。特にこの20年くらいのITに関する変化は大きく、私たちはまだその変革の途上にあるのです。
2024年は、7月の東京都知事選や10月の衆議院総選挙などで、ネットを活用した選挙戦が行われたことがとても印象的です。特に、既得権益や利権などの古い慣習を打ち破り、新しく正しいことを行っていくべきだという「正論パンチ」の波を感じます。ネットの活用も積極的に行った都知事選で話題になった石丸氏や、衆院選で大幅に議席を増やした国民民主党の玉木氏に通じるものを感じます。いつのまにか「当たり前の事」さえもできていない政治にうんざりし、まずは「正常な状態にするべきだ」と求めた国民の声が政治を動かし始めているようにも思います。
最期に改めて現在の国民民主党の状況と、1995年の村山内閣の状況を比較しながら、過半数割れした自民党の動きについて見てみましょう。
過半数割れした自民党 1994/2024
村山内閣が発足したのが1994年6月で、同内閣は1996年の1月に電撃解散したため、実質村山内閣は1995年を中心に1年半程の期間しかありませんでした。この村山内閣は日本の政治の歴史の中でも、かなり特殊です。日本の政治の歴史は自民党の歴史と言われることがありますが、村山富市は日本社会党であって自民党ではないのです。
以下に自民党(自由民主党)の結党(1955年)以降の、総理大臣の所属政党と、続いた世代数を表とグラフにまとめてみます。
内閣成立日 | 総理の政党 | 内閣の世代 |
---|---|---|
1955年(昭和30年)11月22日 | 自民党 | 55代 – 78代 |
1993年(平成5年)8月9日 | 日本新党, 新生党 | 79代 – 80代 |
1994年(平成6年)6月30日 | 日本社会党 | 81代 |
1996年(平成8年)1月11日 | 自民党 | 82代 – 92代 |
2009年(平成21年)9月16日 | 民主党 | 93代 – 95代 |
2012年(平成24年)12月26日 | 自民党 | 96代 – 102代 |
1955年に自民党が結党して以来、2024年までに48人の人が内閣総理大臣を務めていますが、そのうち自民党以外は6名だけとなっています。その中でも、連立で政権を奪った2名と民主党政権時代の3名と違って、「自民党と連立した政権内で、自民党以外で内閣総理大臣を輩出している」のは、日本社会党の村山富市だけとなっています。逆に言うと、それ以外は自民党と連立した政権では自民党が総理大臣を出しているということでもあります。
1994年当時の自民党は野党の連合により政権を奪われた後で、過半数を取れない状況が続いていましたが、新たな連立を組むことで与党に返り咲きます。その際に連立を組んだ政党の一つが村山富市の率いる日本社会党です。この政権は、同じく自民党と連立した「新党さきがけ」の名前とあわせて「自社さ連立政権」と呼ばれます。
過半数を取れない自民党と少数政党の動き
2024年まで、近年の自民党は公明党との連立をすることで過半数を確保して政権運営してきました。
2024年の衆議院総選挙にて、裏金問題などの度重なる不祥事の影響もあってか自民党・公明党は大幅に議席を失い、とうとう過半数を切ってしまうことになりました。対して野党の立憲民主党や国民民主党はその分議席を獲得しましたが、どの党も過半数を超える議席を獲得できていないため、今後の政権運営がどのようになるのか注目が集まっています。
1994年の自社さ政権時の社会党の議席状況と、2024年現在自公政権と国民民主党の議席の状況をグラフで並べると以下のような状況です。
1994年 自社さ政権時の社会党
2024年 自公政権と国民民主党
こうして改めてみると、国民民主党の置かれている状況は、1994年の自社さ政権の時よりも緊迫した(議席的にひっ迫した)状況の中であることが分かります。自民党側の議席数の割合が、同じ46.2%というのは偶然にしてもとても興味深い点でもあります。
躍進したとはいえ28議席しかない国民民主党が決定権を握る(キャスティングボートを得る)という今の状況は、これまでの日本の政治とは違った「新しい流れ」が来るのではないかという期待もあり、連日国民民主党の玉木党首や榛葉幹事長の話題が飛び交い続けています。
村山氏は日本社会党党首として「自民党との連立与党」という道を選びました。国民民主党の玉木氏は今のところ「自民党との連立を否定」しており、政策ごとに議論していく方針を貫いています。
国民の悲痛な叫びが届くか
2024年現在、世界的な政治状況などの関係もあって、日本の国民は物価高に苦しみ続けています。その声の一部がこうした政治状況になることを後押ししたこともあるでしょう。生活に苦しんでいる中で、国会議員が何千万何億円という多額の不正なお金を使っていて、しかもそれらについては納税義務がないとなると、国民の怒りは高まるばかりです。2024年の3月頃には「確定申告のボイコット」が囁かれるほどに、政府への不信感が過去にない程高まっていたと言えるでしょう。
国民民主党は「手取りを増やす」と訴え続けており、現在の苦しんでいる日本国民の生活を立て直すことを最優先課題として取り組んでいることが分かります。その先には、活性化した経済により「強い日本を取り戻す」という意志や展望を感じることもできますが、現状の甘い汁に慣れてしまった自民党や財務省などを始め一部の反対意見も報じられると、SNSなどを中心に凄まじい国民の反発が起こっています。
自民党は、立憲民主党など他の野党が連立しない限り、国民民主党の意見を汲み取らなければ政権運営が難しい状況です。自民党だけでなく、古い政治体制に甘んじてきた政治家にとっては苦しい展開でしょう。これからの交渉や議論が、今後の日本の政治の在り方を決めていくのかもしれません。
本来政治家というのは「日本をよくしたい」と考えて行動すべきものだと思いますが、長い間権力を持ち続けると「日本よりも政党や自分を優先」するという考えになってしまうのでしょう。権力というのは「必ず腐敗」するものであると歴史が証明しています。民主主義の本質通り、政治家が腐敗しないように注意すべきは主権のある国民の権利であり義務でもあります。日本の腐敗を政治家のせいにして批判するばかりではなく、これまでの政治を容認してきた私たち国民にこそ責任があると自身を顧みることも必要でしょう。
少なくとも私自身は、この2024年は特に「政治に対する意識の変化」が大きかったと感じています。元々歴史や物事の由来を知るのが好きな私は、興味を持った政治の歴史を紐解き知ることに「楽しみ」を見出しています。知れば知る程「歴史は繋がっている」と改めて感じ、次から次へと疑問や興味が湧き出てきます。引き続き日本の政治の行く末については、注意深く見ていきたいと思っています。
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