不惑は何歳のこと? – 論語で年齢を表す言葉

不惑は何歳 雑学

日本では年齢の事を漢字で表す言葉があり、人生の事を論じる場合などに使われることがあります。

今回は不惑(ふわく)を含めて、論語で述べられている年齢を表す言葉についてまとめています。江戸時代以降、日本人の教育に用いられた儒教(儒学・朱子学)は、現代の日本人の基本的な倫理観に大きく影響しています。目標に向かって努力することを奨励するような儒教思想は、社会や組織を強力なものとし、また頑張る人を勇気づける不思議な力があります。

論語で述べられた年齢を表す言葉

孔子儒教の祖として知られており、彼の言葉は後に弟子たちが「論語」としてまとめたため、現代にも彼の考え方が伝わっています。日本やお隣の韓国において、この孔子の儒教は人々の道徳や倫理観に大きな影響を与えられています。

特に日本では、江戸期に国内で儒教教育が推進されたこともあり、現代の日本人のほぼ全てが儒教信者になっているといっても過言ではない程です。日本では「儒教こそが常識」という状態で、常識となった儒教は既に「宗教ではない」と感じている人がほとんどでしょう。

そんな日本人の常識を形作っている儒教の祖の考えがまとめられた「論語」において、孔子は自分の人生を振り返って以下のように述べています。

(原文)
子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。

(現代語訳)
孔子が言った。私は十五歳で学問に志し、三十歳で、思想も、見識も確立した。四十歳で心の惑いもなくなり、五十歳で、天から与えられた使命を自覚した。六十歳で、何を聞いても耳にさからうことがなくなり、七十歳になると、自分の欲望のままに振舞っても、その行動が道徳からはずれることはなかった。

表にまとめると以下のようになっています。

年齢言葉
15歳志学(しがく)
30歳而立(じりつ)
40歳不惑(ふわく)
50歳知命(ちめい)
60歳耳順(じじゅん)
70歳従心(じゅうしん)

この言葉は、誰かに道徳を説いているのでもなく、人の道を示しているのでもありません。ただ、孔子は「自分はこうだった」と述べているに過ぎません。しかし、人生半ばに差し掛かった自分が改めてこの言葉を受け止めると、何故か共感し勇気づけられるのです。

いくつか詳しく分解してみていきましょう。

40歳 不惑(ふわく) – 40にして惑わず

孔子は40歳で心の惑いがなくなった(不惑)と述べています。惑いがなくなり、これからの人生のビジョンを明確に持つことができたと捉えていいでしょう。

40歳というのが遅いと感じる人もいるかもしれません。私自身、20代の頃には自分の人生はこうしていくのだという明確なイメージがあり、それに向かって邁進していたものです。恐らく、孔子自身もそうだったでしょうし、世の中で精力的に活動している多くの人が同じような気持ちで日々を生きていることでしょう。

不惑イメージ

しかし、ここでいう不惑というのは、そういった20代・30代といった若い時分の年月で培った経験を糧に、40代にして自分が進むべき道が明確化されたという意味と受け止めるべきでしょう。

漠然とした人生のイメージに基づいて、目の前の仕事に一生懸命がむしゃらに働いている20代や30代の気持ちと、孔子が40歳になった時に感じた「惑いがなくなった」という気持ちの間には、大きな違いがあるように思うのです。逆に言うと、一生懸命生きてきたからこそ、40代になった時に惑いがなくなる程の知見を得ることができたともいえるのかもしれません。

40歳を超えている方は、自分の人生を振り返ってみて如何でしょうか。何か人生の大きな決断をしたり、気持ちに区切りをつけて何かに取り組み始めた様な、そんな経験が40代の頃にあるでしょうか。

その他の年齢

タイトルにもなっている不惑(40歳)以外にも、孔子の言葉にはその他の年齢についても述べられていますので、いくつか確認してみましょう。

30歳 而立(じりつ) – 30にして立つ

孔子は30歳で学識や道徳観を確立して、世に立つ自信を得たとしています。

日本語ではあまりこの漢字(而)を使うことはありませんが、学生が親元を離れ、社会に出て生計を立てるようになることを「自立する」というため、言葉の響きとしては馴染みがあるのではないでしょうか。

ただ、孔子の言う而立には、「20代の間に学び経験したことに基づいて」という意味が含まれているので、社会に出て自立した生活をし始めるのとは少し意味合いが異なっています。新入社員や若き起業家として社会活動を開始したての頃は、ただただ必死で働いていたのが、徐々に周りの景色が見えるようになってくるものです。

自分の経験や実績を基に、社会の中で生きていく自信がつくのが、大体30歳になってからだったというのです。

仕事風景

日本の場合、こういった年齢の人たちの事を「働き盛り」と表現することがあります。ある程度の経験と実績があり、体も元気でエネルギーに満ち溢れているため、最も仕事ができる年齢帯と位置付けられているのでしょう。働いている人自身も、数々の経験を背景に、自信に満ち溢れていることが多いでしょう。

50歳 知命(ちめい) – 50にして天命を知る

40歳の不惑を超えて、孔子は50歳に天命を知ったと述べています。

天命というのは、天から与えられた使命という意味合いですが、要するに「自分のなすべき事」が明確になったというのです。ここでいう為すべき事というのは、天から与えられた使命なので、まさに「人生をかけて」取り組むべき事柄です。

私はまだ若輩のためその域には達していませんが、恐らく40歳で惑いがなくなって取り組みを続けていった結果、その先にある大きな使命のようなものが見えてくるといったことなのだろうと推測しています。

30歳で自信を確立し、40歳で惑いがなくなって何かに継続的に取り組み続けた結果、50歳になった頃には何かしらが理解できるようになるという人生の道標を孔子が示してくれていることは、40代で「継続は力なり」を信じて頑張り続けるモチベーションになるようにも思います。きっとその先に見えるようになる景色があるのでしょう。

継続は力なり

余談ですが、私は学生の頃、父親から参考書か辞書だったか忘れてしまいましたが、何かを書籍を買い与えられた際、添えられた言葉が「継続は力なり」というものであったことをはっきりと覚えています。

当時は何か格好つけたことをしている程度にしか思っていませんでしたし、言葉に込められた意味も分かっていませんでしたが、この歳になっても覚えているということは、幼いなりに感じる事があったのでしょう。今の私自身は、「継続は力なり」だと思っていて、当時の父親の気持ちもある程度理解できるようになったのかもしれません。改めて父親の愛情と教育には感謝です。

継続して努力し続けることでしか、得られない結果というものもあるものです。

60歳 耳順 (じじゅん) – 60にして耳順う(みみしたがう)

孔子は50歳で天命を知った後、60代では人の意見を素直に受け止められるようになったと言っています。

推測ですが、これは恐らく自分の進む道が明確になったことで、他の意見を客観的に捉えることが出来るようになったという事なのかもしれません。

悟っていると表現すると少し宗教的すぎる気もしますが、落ち着いて受け止めることができるということはそういう事のような気がします。若い時分には達観していると表現されることがありますが、そういった感じなのかもしれません。酸いも甘いも社会の理を理解した年齢になると、何事も驚かず冷静に対処できるようになるということなのでしょう。

70歳 従心 (じゅうしん) – 70にして矩(のり)を踰(こ)えず

70歳の矩(のり)を踰(こ)えずは、まず日本語的に読むことも理解することも難しい表現です。

現代語訳にもありますが、思いのままに行動しても道を外れることが無くなったという意味で、倫理観が常識へと完全に昇華し終えたというところではないでしょうか。

日本では、論語の70歳は「従心(じゅうしん)」として知られています。「心のままに行動しても」の部分を抜粋した形のため、本来の趣旨からは少しずれた切り出し方のようにも思いますが、不踰矩(のりをこえず)では日本人には意味が伝わらないとされたのでしょう。

その年齢になってみないと分かりませんが、私も自分の人生を振り返ったときに、孔子のように各年齢帯で人として成長していたことが認識できるような、そんな人生になっていて欲しいと思うものです。

儒教が絶対という「誤解」は避けよう

論語にて、孔子は40歳で惑いがなくなったとされていますが、それは社会の中における自分という存在の意義についてです。孔子の様に向上心や社会貢献に意欲的な人間にとっては社会活動が人生かもしれませんが、人間は社会の歯車になるために生まれてきているわけではありません。

誰もが向上心を持って社会貢献し、経済活動に参加することが、結果として社会全体を良くするという儒教の考え方は理解もできます。日本の急激な近代化や、戦後の高度経済成長を成し遂げた学力や倫理観は、世界の歴史の中でも際立っていることからも、儒教思想が組織や国家にとって有益な面がある事は否定することは難しいでしょう。

しかし儒教思想には、国家に尽くさせる教育勅語が大日本帝国を悲惨な戦争に導き、現代においても失敗した若者が自死を選んだり労働者が過労で命を落とすといった、負の側面があることも認めなければならないでしょう。

道教 – 質素な中に幸福を見出す価値観

やりがいのある事に努力して結果を出すという充実感は、人生の中でも格別に楽しいことです。しかしその一方で、働きたくないのに働いて、無益に人生を浪費することに苦しんでいる人も多いでしょう。儒教思想に捉われることなく視野を広くもって、一度きりの人生なので後悔がないように、自分の幸せを追求する気持ちを大事にしたいものです。

40歳になって惑いがなくなって一層努力する自分を、「儒教」は励まして背中を押してくれる存在でもあります。その一方で、生きていくお金を稼ぎたいけど大富豪になりたいわけではなく、質素な生活をするだけのお金を手に入れられれば良いという「道教」的思想な自分もいて、計画を立てる際にはどうするべきか気持ちが揺らぐものです。

「侘び寂び」と「もののあはれ」

質素な生活と、それを支える最低限の収入を得ながら、その中で幸福を追求することを説いている道教は、儒教と対照的な宗教とされることがあります。日本では14世紀ころに「侘び寂び」として広まり、特に芸術分野などに大きな影響が見られます。

侘び寂びについては、以下の「もののあはれ」の記事でもう少し詳しく解説していますので、興味のある方はこちらもご覧ください。

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