こんなタイトルの記事ではありますが、私自身はサラリーマン時代仕事は大好きで、楽しくてしょうがないと感じているような人間でした。
ですが、病気を患って満足に働けなくなってから、病気の治療を続けながら真剣に「働くとは何なのか」を考えていった結果、その過程で自分でも驚くほどに考え方に変化がありました。この記事を通して、「会社に行きたくない」「仕事辞めたい」とか、もっと思い詰めてしまっているような人に、「頑張ったね」「大丈夫だよ」「心配ないよ」という気持ちを伝えられたらと思っています。
最初にお断りしておきますが、働かずに誰かに養ってもらうような、そういった他人に迷惑をかけてまで生きていく道を示す記事ではありませんので、あらかじめご了承ください。
記事全体としては少し宗教色が強いですが、宗教を勧めているのではなく、宗教を信じているのはあなたなので気づいてください、といった啓蒙的な内容になっています。※多分に主観的な見解が含まれます
「その常識」に潜む宗教の影
人と違うことを発言したり行動したりした際に、他人から「常識的に考えて」とか「普通は」といった表現で指摘されることがあるでしょう。日本では出る杭は打たれるし、人と違う行動を取る人は敬遠されがちなので、不安になったり嫌な気持ちになることもあるかもしれません。
でも、その人たちが言う「普通」や「常識」は、不変の通念でもなければ世界の真理でもないことには留意が必要です。人の考え方なんて数年で変化してしまうものだし、ましてや日本民族の常識など世界から見たらごく狭い地域での常識にすぎません。
そして多くの日本人は知ろうともしないし、考えもしないのです。「自分たちが間違っているかも」ということを。
日本は世界有数の自殺大国
海外から日本を訪れた旅行者は、日本が(良い意味で)他の国と大きく異なる倫理観であることに、衝撃を受けることが多いようです。日本に対する海外からの印象として、治安が良いや、丁寧、サービスが良いなどというポジティブな点について聞く機会は多い事でしょう。私自身も日本人であることが誇らしいと感じることも多いです。
しかし一方で、日本は世界有数の自殺大国でもあります。少し多いとかそういう次元ではなく、世界ランキング5位(WHO)で、G7の中では堂々の1位という状況です。これは個人的にはあまり誇らしくない実績だと思います。
参考 : 厚生労働省 海外の自殺の状況 2023(pdf)
近年では海外でも過労死があるとされてきていますが、日本では働きすぎて死ぬことがあるのかと、過労死を英語でKaroshiと表現されるほどに世界的に話題にもなったものです。死ぬまで国や企業のために働く忠義の国民性と言えば正当化できるものなのでしょうか。私はそうは思えないし、思いたくもないのです。
「働かなければ死ぬ」、「死ぬまで働く」といった考え方は日本独特で、この根底には儒教の思想が強く根付いていることが原因の一つだと考えられます。
儒教とは
儒教というのは宗教の一つで、中国三大宗教の一つとして知られています。
儒教の難しい教義や、細かい内容は省きますが、分かりやすく表現すると概ね以下のような内容です。
- 年長者や祖先を敬おう
- 頑張って出世しよう
- 礼節を重んじよう
儒教は日本人にとっては当たり前・常識と感じる部分が多いはずです。特徴的なのは宗教であるにもかかわらず超常的な存在の定義が欠けていることでしょう。ここが儒教の恐ろしい面でもあります。
儒教の倫理観を持った国家は日本だけではなく、近隣の中国や韓国でもとても盛んです。両国ともに日本以上に過激な受験戦争が繰り広げられているのも、儒教の教えの影響と言えるでしょう。
ちなみにそんな儒教大国である韓国は、WHOの発表している自殺率で堂々の1位を獲得しています。日本以上に韓国の儒教思想は強く、「相手よりも自分が優れている」と誇示する国民性は、日本人からすると謙虚さに欠けた人々と感じることもあるでしょう。
日本人に植え付けられた儒教教育 – 儒学
儒教も仏教も日本には古くから伝えられていた宗教ですが、特に日本にその考え方が広まったのは江戸時代に入ってからです。儒教の教えは、幕府が日本統治をする上で「統治者にとって有益」であると判断されたようです。しかし、儒教や仏教といった海外からの倫理観を積極的に取り入れていく過程で、元来の日本らしさを取り戻そうとする国学といった学問も発展していきました。
ちなみに余談ではありますが、儒教は完全なる「男尊女卑」思想なので、古い日本人に根付いていた「女は男に従うもの」という考え方は、この頃の教育(儒教における三従の教えなど)の賜物と言えます。本件については根が深く本題から逸れてしまうので、ここではこれ以上扱わないことにします。
明治時代になってからも儒教教育には余念がなく、明治天皇が出された教育基本方針「教育勅語」は儒教の結晶のような内容となっています。以下現代語訳で抜粋して少し紹介します。
(教育勅語/現代語訳 一部抜粋)汝ら臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹は仲良く、夫婦は仲むつまじく、友人は互いに信じあい、恭しく己を保ち、博愛をみんなに施し、学問を修め実業を習い、そうして知能を発達させ道徳性を完成させ、更に進んでは公共の利益を広めて世の中の事業を興し
…
今の日本人の「普通」とか「常識」に近い内容になっていると言えるのではないでしょうか。
しかし、これに続く文章が「国家の非常事態の際は国のために尽くす事」という趣旨が含まれていたため、戦後GHQの指導により教育勅語自体を学校教育で教えることは禁止とされています。
「仕事がつらい」から脱却する考え方
人によって様々な悩みや苦しみがあり、解決方法も人によって様々でしょう。身近な人にアドバイスをもらったり、悩みを相談して解決できる場合もあるかもしれません。
これから紹介するのは、誰でもなく「私自身の悩みが解決に至った」一つの考え方です。
読んでくださっている方全てに当てはまるものではないかもしれませんが、一つの事例として参考にしてみてもらえればと思います。
脱却の第一歩は「常識の殆どが宗教」と認識する事
日本に生まれて日本で育ち、普通に日本で働いて過ごしていると、日本の常識がこの世の真理と勘違いしてしまうことは良くあります。世界には似た様な価値観の国が様々あり、そういった世界の情景などをメディアを通じて見聞きするうちに、更にそのような誤解を抱いてしまうのも、ある意味仕方のない事なのかもしれません。
日本では働くことが当たり前、「働かざるもの食うべからず」「勤労の義務」といった、生まれてきたら労働しなければならないと、義務教育や周囲の大人たちから刷り込まれますが、これらは前述のとおり「儒教」の教えに他なりません。
儒教がない国でも同じような倫理観や道徳があるのではと、疑問に思われるかもしれません。先に断っておきますが、「勤労の義務」と類似した法を持つ国家は、現在だと北朝鮮、古くはソビエト連邦のような国家だけです。いわゆる全体主義国家における法にだけ存在し、現在の先進諸国でそのような法を掲げている国はありません。
祖先を大事にするといった思想などは、「宗教の共通点」としてよくあります。世界的に信者が多いキリスト教でも、儒教と同じように祖先や年長者を敬うものという倫理観で、「と、神は言っている」が付くか付かないかの違いがあるだけです。
宗教というのは、人に倫理観や道徳を広めるために、時に「神」という超常的な物を定義することで、強制力を持たせたようなものと考えれば、日本人にも受け入れやすいものではないかと、個人的には思います。要は「神が」の部分は重要ではなく、「何をすべきか」が重要ということです。
貴方を追い詰めている仕事や会社の悩みの元凶が、もし上述のような儒教的な思想にあるのであれば、それは「ただの宗教」で、あなたを縛るものではないと認識してみましょう。「働くのが当たり前」なんて、「高額な壺を買わなきゃ幸せになれない」と同じくらいの事なのです。
「勤労の義務」は憲法だけど司法判断は「努力目標」
儒教に縛られるな、働かなくても良い、と散々書いてきましたが、大前提として他人に迷惑をかけるのは絶対に厳禁です。犯罪行為などはもっての他ですし、人に頼って寄生虫のように生きる事も個人の自由ではありますが、そんなことをオススメしているわけではありません。
充分な貯金や資産があって働く必要がない人や、生活できるだけの給料があればいいだけなのに高額でキツイ仕事を与えられている人など、働きたくない人には様々な人がいるでしょう。私はどちらかと言えば後者のような考えの人間で、実績を認められて給料が上がっていってもそんなに喜べませんでした。必要なことにしかお金を使わないので増えた給料はそのまま貯金になるだけで、特別欲しいものが沢山あるわけでもなかったので、貯金額の数字が増える代わりに自由な時間が減って責任が大きくなっていくだけという状況でした。
「働かなくても良い」という話を日本人とすると、「勤労の義務がぁ」と非難や罵声を浴びせられることもあるでしょう。
確かに「勤労の義務」は日本国憲法第二十七条一項に定義されています。これは、私の意見ではなく、日本国の司法の見解で「この義務は履行しなくても大丈夫」です。同じく日本国憲法 第十八条には「意に反する苦役に服させられない」とあるため、勤労の義務を理由に罰則も与えられないし、強制的に働かせるといったことも、憲法上できないのです。こういった背景もあり、日本国司法は「勤労の義務は努力目標」として扱うようになっています。
平たく言うと「憲法上矛盾している」と言わざるを得ない状態な訳です。
日本国憲法は急いで一週間で作った憲法なので、こういった矛盾があるのも仕方がない部分なのかもしれません。それに、日本国憲法制定時は、戦後復旧で国民の労働力が必要な時期でもあり、そんな情勢も加味して「勤労の義務」の一文を含めた、というのが現在の偉い方々の見解のようです。
その贅沢本当に必要ですか
働かなくてもいいと言われても、じゃぁどうやって生きていくのか、と疑問に思うでしょう。生きていくにはお金が必要です。お金を得るためには働くしかありません。働きましょう。
ただ、闇雲に働くのではなく少し落ち着いて考えてみましょう。
日本では定年まで働くことが大前提という風習がありますが、一旦それも忘れてみましょう。もちろん「勤労の義務」も忘れます。
生きるためには食べていかなければならないので、食費について考えてみることにします。人によって価値観や幸せは異なりますが、あなたならどちらを選びますか。
- 一食1,000円の食事で、40年間みっちり働く
- 一食500円の食事で、働くのは20年間。残り20年間は500円の食事付きで完全自由
かつての私は「どうせこれからもずっと働いてお金はあるし好きなモノ食べよう」と、1.に近い発想で、節約とは縁遠いお金の使い方をしていました。節約しても貯金が増えるだけで嬉しくないからです。
でも20年間も働かなくても良いとなると話は変わってきます。当時の私は「働くのが当たり前」という発想だったので思いつきもしませんでした。究極的な話をすれば、「生きるために必要なだけ働けばいい」という発想です。「節約なんて貧乏くさい」と思ってしまいますが、「贅沢を自重すれば働く期間が短くなる」と考えれば、自然とポジティブに質素な生活になっていくのではないでしょうか。
日本では「給料が倍」の人は耳にするけど、「働く期間が半分」というのはあまり聞くことがないはずです。この異常性に気が付かなかればなりません。
興味深いYoutube動画を一つだけ紹介します。40秒の短い動画ですが、個人的には、今という時間の大切さを考えるキッカケになる良いコンテンツだと思います。(執筆時点 380万再生超)
参考 : Your Life in 40 Seconds 【ONESHOT】 – Youtube
質素にゆったりした生き方でいい – 道教
私の場合は、病気の影響で仕事を辞めてからしばらく人生に悩み・葛藤しながら過ごし、その過程で色々な呪縛から解放されて、考え方が変わっていきました。今の私の中では、最低限質素に生きられて、残りの人生の時間をできるだけ自由に過ごす事が最も重要で、そのために可能な範囲で必要なだけ働こう、という考え方になっています。
自分なりに出した結論が、いつの間にか中国の三大宗教の一つ「道教」にとても近い考え方になっていることに気づいたときは、とても驚きました。道教は儒教の反対のような宗教で、大筋以下のようなイメージの教えになっています。
- 頑張らない
- 質素に生きればよい
初めて道教の事を知った時には「何とも堕落した教えだ」くらいにしか印象に残らなかったのですが、当時は「儒教に縛られていて理解できなかった or しようとしなかった」と今は客観的に過去の自分を分析しています。
「人は生まれながらにして自由」な事を忘れない
世界人権宣言の第1条では「人は生まれながらにして自由」とされています。これは今の人類世界における共通の価値観と言えるでしょう。
どんな事情があったとしても、人間の自由を侵す行為は、重大な人権侵害として世界中から非難されることになります。中国や北朝鮮など、日本に近い国の中でも日本や他の国から人権侵害している国として非難されている話は聞いたことがある人も多いでしょう。
しかし日本という国は、国民の意識下では自由を奪われているにも関わらず、そのことに気づかず、司法の判断によって国際上人権侵害は行っていないとされている、不思議な国だと感じるのです。
当然ですが「日本人 < 人間」であるべきと考える
これは日本で生きてきた私の主観・体感からではありますが、一般的な日本人の場合は、この「人の自由」よりも「勤労の義務」を優先する傾向にあるように思います。つまりこれは、本来「日本人である前に人間だ」となるべきところを、日本人は「人間である前に日本人だ」と考えている、と受け取れます。
よく考えましょう。
私たちは働くために生まれてきたわけではないのです。生まれたその瞬間から「自由」があって、「自由」に生きるために働いているのです。もう一度言いますが、働くために生まれてきているわけではないのです。
こんな話を聞いたとしても多くの日本人は「日本人は勤労の義務があるのだ。働け」と言うでしょう。これは世界的にみると紛れもない全体主義・社会主義の発想で、重大な人権侵害なので気を付けましょう。当然ですが、働かなくても自立した生活が送れる資産がある場合の話で、人に迷惑を掛けたり人の税金で生き延びるというのは、また違うお話です。
明日命を落としても後悔がないように生きる
資産を貯め込んだ状態でもしも死んでしまったら、何十年も仕事に耐えた苦労が完全に水の泡です。
これは私の体験からで申し訳ないのですが、私は病気を患って徐々に悪化して最終的には死にかけて、今はそこから回復してこうして文章を書きながら近い未来の事も考えられるようになっています。その間約5年くらいはかかっているでしょうか。就職もせず自分の資産をすり減らしながら生きているのですが、もし数年前死にかけたあの時本当に死んでしまっていたら、20代~30代の間に朝から晩まで働いたあの日々が生み出した資産は、使われることなく人生終わりになるところだったのです。もしそうなっていたら、私は何のために一生懸命働いていたのでしょうか。
その経験を経て、私の考え方は180度転換することになりました。病気の治療を継続していることもありますが、例え明日死ぬことになったとしても後悔がないように、今は日々を大切に生きていきていくことこそが、人生の中で最も重要な事だと思っています。
過去の私のように、働くことだけが人生になってしまっている人は日本人には大勢いると思いますが、後悔のない人生を歩む権利がある事に気づいてください。仕事がつらくて逃げたいと考えているような人は、どうか胸を張って放り出してみてください。無駄な贅沢をせず、質素にゆったり生きたらいいじゃないですか。
どうにもならなくなったら「終わりでいいじゃない」
「それでも働かないと生きていけない」と、思い詰める人もいるかもしれません。これは私の考え方ですが、毎日自由に、そして後悔のないように生きていれば、「まぁダメだったら終わりかな」と人生の終わりを意外と素直に受け入れられています。
やりたい事、やるべき事、が沢山あってと言う人は、後悔があるのでしょう。働いてお金を稼いでそれを成したらいいと思います。
私は死の淵にある時に、「遣り残したこと」を思い浮かべ、命の重さと比較したところ、どうやら命懸けで成し遂げたいことも、成さねばならないこともなかったようで、完全に空っぽになってしまいました。それはある程度元気になった今も変わりません。食べたいものとか、眠りたいとかそういう生命活動に関する欲求はありますが、それもダメなら終わりでいいか、程度の事になってしまったわけです。
何もかもを手放して得た自由は、どこまでも開放感にあふれていて、人生ってこんなに時間があったのかと驚きました。時間がありすぎて、逆に「なんだってできる」と思えるようになる程です。人生を悲観して絶望を感じながら生きるのではなく、死を受け入れて前向きに生きるのも悪くないと思うのです。
余談 : 死ぬ自由のない日本と根深い自身の儒教思想
できれば資産のあるうちに、飛ぶ鳥後を残さぬよう自分の痕跡を全て処分した上で、安楽死等で合法的に終わりに出来たら思い残すこともないのですが、今の日本ではそれは許されないみたいです。生きる自由はあっても死ぬ自由はない、ということなのでしょう。
人は亡くなると、その人の住んでいた家など多くのものを遺します。高齢化社会がもう少し進むと、生前に処理されない無人となった家は日本中に溢れかえり、不動産ではなく負動産として、現代を生きる人に圧し掛かることになります。
私はただ、死んだ後も人に迷惑を掛けたくないと思うのです。儒教を嫌悪するようになったはずなのに、最後は儒教的な思想に行きつくというのは、なんとも皮肉なことです。一つに傾倒するのではなく、それぞれの良いことを認めて吸収するのが大事という事なのでしょう。