仏教で「手を合わせる」意味 – 「手を合わせてあげる」に感じる不快感

故人に手を合わせてあげる 私見

日本ではお盆が近くなってくると、お墓参りをしたり、家族でお仏壇に手を合わせるなど、様々な宗教行事が行われる風習があります。特にお盆の期間には、自分の肉親や近い親族の人のお墓を訪れる人が多いのではないでしょうか。

仏教行事には、お墓やお仏壇に「手を合わせる」という所作がありますが、意外とその宗教的な意味は知らないものです。また、故人に「手を合わせてあげる」という表現をすることもあるでしょう。今回は、「手を合わせる」行為の仏教的な意味と共に、「手を合わせてあげる」に感じられる不快感についてまとめてみます。

仏教における故人の扱い

刑事ドラマなどで、亡くなられた人のことを「ほとけさん」と呼んだりするシーンがあったりします。これは、仏教の「亡くなられた方は極楽浄土に旅立って仏になる」という世界観によるものです。

仏教では現世は悩みや苦しみに満ちているとしていて、亡くなった後に辿り着く先である極楽浄土は、そういった苦しみから解放された安らかな世界とされています。

「死は救済」という言葉を聞くことがありますが、「痛みや苦しみからの解放」という意味で使われるこの言葉は、仏教の現世と極楽浄土の関係に似ている部分があると言えるでしょう。

人の死は悲しい出来事ですが、悲しみは残された現世の人々に与えられた苦しみであり、亡くなられた人は仏になり全ての苦しみから解放された、というのが仏教の基本的な考え方です。

お墓や仏壇に「手を合わせる」意味

仏教では仏さまに手を合わせるという習慣があります。仏になられた故人に対してや、仏壇やお墓に対してもお参りし、手を合わせるという行動をすることがあります。

仏教で「手を合わせる」のは故人や仏様のためではなく、「自分自身のため」であるということを理解しておかなければなりません。

「手を合わせてあげる」は仏教では傲慢

「手を合わせてあげる」や「お参りしてあげる」という表現は、仏教的にはとても傲慢な言葉と言えます。亡くなって仏様になった故人に対して、更にその上から施しを与えているという意味になっているからです。

仏様は満たされており、現世の人に何かを求めたりはしません。当然、お参りや手を合わせることを望んだりもしません。

浄土風景

亡くなられた人は悩みや苦しみのない極楽浄土に旅立たち、仏様になっています。仏さまは現世の苦しみや悲しみを感じることから解放され、永遠に平穏な浄土の世界で過ごされるのです。

「バチが当たる」は迷信

仏教の世界観では、仏様などが現世に対して干渉してくることはありません。

悪いことをすると、仏罰や天罰、「バチが当たる」といわれることがありますが、こういった歪んだ宗教解釈は、為政者や宗教を戦争などの交渉に利用とした権力者によって広められたものが多く、仏教にはそういった解釈はありません。

戦国時代に、宗教を大義名分にした農民の反乱「一向一揆」などでは、相手の戦意を削ぐ目的で「反抗すると仏罰が下る」といった事を声高に叫び、一定程度の効果があったとされています。宗教弾圧をされていた仏教側が率先して「仏教の教えを違えていた」と考えると、どれほど弾圧が厳しく、そして当時の人たちが苦しんでいたのかが想像できます。

仏教と祖霊信仰 – 故人との接し方の違い

日本の宗教観は非常に複雑です。故人が亡くなる前の関係性から、「~してあげる」という感情が沸き起こります。これは仏教とは異なる宗教観で、一般的には「祖霊信仰」と呼ばれる日本古来の風習によるものです。

「手を合わせてあげる」は祖霊信仰の中では故人を大切にする意味合いになりますが、仏教においては仏に施しを与えるという不遜な意味合いとなります。

お盆の際などにお墓参りをすることがあると思いますが、その際にも故人に挨拶したりすることがあると思いますが、こういった風習も祖霊信仰の一つです。お盆については、以下の記事で詳しく解説していますので、興味のある方はご覧ください。

仏教は、仏様と会話したりするような「オカルト」的な世界観を持ち合わせていないため、注意が必要です。仏教行事の中や、熱心な仏教徒の人と会話などにおいては、仏教の世界観への敬意を大事にしたいところです。

「手を合わせる」意味

仏教の世界観では、救いが必要なのは現世に生きる人々、つまり「あなた」自身です。

現世では病気や老いといった回避することができない苦しみだけでなく、日々の生活の中でも痛みや悲しみなど辛いことが多く存在します。そんな厳しい現世の世界に生きる私たちは、仏さまに「手を合わせる」ことで「どうか救ってください」とお願いするのです。

故人に手を合わせる仏教的な意味

親しい人が亡くなられた際に「手を合わせる」のは、「可哀そうに」ではなく「貴方がいなくなって辛い私をお救いください」というのが本来の仏教の在り方です。

仏様のために手を合わせるのではなく、自分自身を救うために仏様に手を合わせるのです。決して故人に対して「してあげる」というものではありません。

ただ究極的には、ほとんどの宗教は「現世の人」の苦しみが除去されることが最優先であり、最大の目的でもあります。祖霊信仰でも仏教でも、自分の思うように行動し、その結果「自分が救われる」つまり心が楽になるのであれば、作法や心持ちは二の次でも構わないでしょう。

ただし、自分の宗教観を他人に強制したり、間違った宗教解釈を話して恥をかくことが無いように、自分の宗教観をできるだけ正確なものにしておきたいところです。

宗教を信じない人には「心を整理」する時間

手を合わせるという行動は、本質的には神の力が宿ったお札や壺を買うのと同じで、意味のない行動に意味を見出して、それによって悩みや苦しみから解放された気になっているだけです。

宗教を信じていない人にとっては無駄な事だと感じてしまうかもしれませんが、「手を合わせる」間に心を整理し、現世での自分の人生を前に進める踏ん切りをつけることができるでしょう。

時に目を閉じて思いを巡らせ、気持ちを落ち着かせることで、考えが整理されるということもあります。実に合理的な行動ではありますが、仏教的にはそれを「悩みから救われる」と表現されます。

お墓の意味と宗教ビジネスの歴史

近年ではお墓や仏壇を購入しない人も増えてきているようですが、少なくとも昭和時代頃までは日本では家に仏壇を置いて、お盆などの時期にはお墓参りをするというのが一般的でした。

お墓や仏壇を購入している人の中にも、その宗教的な意味や、長く続いているその風習の変遷などを詳しく知らない人もいるのではないでしょうか。

お墓や仏壇の仏教的な意味合い

故人のためにお墓をたてるというのは仏教的な解釈としては間違いです。手を合わせるのと同じで、仏教の基本は「自分のため」であることを忘れてはなりません。仏教は仏様を神格化するような宗教ではなく、現世に生きる人々を救うための宗教です。

仏教の中でお墓を立てなければならないということは決められていませんし、手を合わせたりお参りをしなければならないということも当然ありません。仏壇についても同様です。これらはすべて「あなた自身のため」なのです。

お墓は仏壇は「現世の人の心を救う」ためのものです。

仏壇に手を合わせることで、身近な貴方がいない苦しみから救われたいと願い、お墓にお参りして寂しく辛い日々から救われたいと願います。

お墓は「商売」 – 近代広まった宗教ビジネス

個人が墓を持つのは古い歴史的な伝統があるように言われることがありますが、実際には江戸時代頃から徐々に広がった風習で、それまでは天皇陛下やごく一部の高位な方を埋葬する際に建てるものでした。

それが急速に広まったのは「需要」があったからなのは間違いありませんが、それを「供給」することで寺社がお金を設けたことは忘れてはなりません。仏教の教義の中にお墓が必要などというものがあるはずもなく、人々の心を救うという名目の上に、純粋なお金儲けとして作られた文化です。

日本でのお墓以外の宗教ビジネス

「意味がある」と思い込むことで、「救われる」ことがあるのが人間の心です。

お墓の様に、弱った人を「救う」名目のビジネスは日本でも色々なものがあります。安価なものでは「おみくじ」や「お守り」のようなものが有名ですが、高価なものでは冗談などでも聞くことがある「幸せの壺」のようなものも同じ意味合いのものです。

歴史上の宗教ビジネス – 免罪符(キリスト教)

日本での仏教などで行われている、宗教を名目にした各種商売は世界各国で歴史上行われており、特に有名なのは「免罪符」でしょう。紛れもなく只の紙ですが、宗教上の恩恵があるとされ、購入することで犯した罪を許されるという商品です。幸せの壺と同じですが、非常に安価だったこともあり、広く民衆に人気が出たようです。

教会イメージ

これを行ったのはキリスト教の中でも世界的に信者数の多い宗派「カトリック」です。カトリックは日本人がイメージするキリスト教そのもので、派手な教会に素敵なステンドグラスとイエス様の像があるといった趣です。こういった派手な教会は信者を集めるのに効果的ですが、とてもお金がかかるため、その解決のために「紙を販売した」というのが免罪符の経緯です。

プロテスタントとカトリックの分裂

これに反発したのが「プロテスタント」で、現在も両宗派は相容れない関係です。免罪符の販売というイエスの教えから逸脱した「宗教を利用したビジネス」をはじめたカトリックに反発し、分裂することになりました。

「プロテスタント」の教会は質素で、信者に上下関係もなく、男女平等の宗教です。プロテスタントの牧師(教えを他の信者に伝える役目)は女性もなることができます。「カトリック」は豪華で、信者の上下関係が厳しく、神父は名前の通り男性しか担うことが許されていません。

現代における「お墓」の問題

令和時代の日本は急速な少子高齢化が進んでいます。2024年現在で年間80万人の人口が減少していて、毎年一つの小さな県が消滅しているようなスピードです。当然新しく生を受けた人もいるので、亡くなっている人の数は、減少している80万人に生まれてくる人の数を加えた数になります。

恐ろしいことに、この少子高齢化はまだまだ続き、これから20年で1000万人以上の人口が減少するというのが現状の予測であり、今のところその予想を上回るスピードで進行しています。そんな社会の中で、お墓などの宗教的な風習にも変化がおきていっています。

多様化する埋葬と不要となった大量の墓石

一つYouTubeの動画を紹介します。この動画では日本の埋葬に関する変化や墓じまいに関してとても分かりやすくまとめられています。

動画の中で高齢者の方が将来の子供や若者に対して「負担を遺すまい」と埋葬方法を改めようとしているところは、令和日本の大きな意識変化のように思います。

管理する人がいなくなった墓石について、動画内でも紹介されているようにお寺が管理してくれる場合もあるようですが、年々積み上げられるだけで減ることはなく、中には不法投棄なども行われるといったこともあるようです。

今では負担の大きな一般的なお墓ではなく、樹木葬などの自然葬が主流となっているようで、特にこの10~20年で大きな変化が起きているようです。この背景には、高齢者の増加や若者の経済状況の悪化など、様々な要因があるとされています。

お墓だけでなく「家」も社会問題に

人は亡くなる時に、生前建てた家や墓などを処分していってはくれません。つまり、持ち家で亡くなった人は、相続権のある方がその家を引き継ぐことになります。しかし、現代ではこの家の相続についても大きな課題が浮かび上がっています。

昭和の時代では、自分の持ち家を築いて、先祖の墓をお参りするというのが「当たり前」とされていた時代ですが、歴史的にみると、それは残念ながら「高度成長経済中の日本」にだけ見られた非常に稀有な現象や価値観であると言わざるを得ません。

古くなった家や、継続してお金がかかるお墓を相続することを拒み、0円でもいいから手放したいという人が出る程に、社会の経済状況や考え方は変化しています。

宗教から道徳を学ぶ

私は宗教に限らず、超常的な存在を信じることができない種類の人間ですが、それでも宗教はとても大切なもので学ぶべきだと考えています。

宗教というものは、例外はもちろんありますが、基本的には人の道徳や倫理観を説くためにあり、強制力を持たせるために超常的な力の存在を示す必要があったのだと考えられます。畏怖や恐怖といった恐れる気持ちは、人を振り向かせるのには便利です。そういう意味では、お釈迦様の言う仏の概念と、イエスやムハンマドの言う神は、どちらも超常的な存在ではありますが定義の目的は異なるように感じられます。

家族や親族でも「宗教の強制」はやめよう

宗教を信じることは自由ですが、他人に宗教を強制するべきではないでしょう。ここでいう他人は「家族・親族」を含みます。

今回は仏教の「手を合わせる」という一つの所作についての話でしたが、一部の宗教では2世信者などの問題が取り沙汰され、事件に発展することもあります。親が宗教を信じている状況で、子が宗教に反対の立場を表明することは難しい事ではありますが、日本では信教の自由が認められています。喧嘩にならないように、相手の気持ちを尊重しながら、自分の意思を表明していきたいところです。

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