歴史が好きでも過去には行きたくない理由

歴史が好きでも過去には行きたくない理由 戯言

私は学ぶことが好きな人間で、特に物事の由来や歴史を知る事が大好きです。知らないことに直面すると、何故なんだろうという興味が止まらなくなり、調べずにはいられません。

別の記事にもしていますが、トウモロコシが新大陸(アメリカ)から発見された比較的新しい穀物なのに、今や世界で最も生産されているという事実を知るだけでも、大航海時代の大発見や、自生しない奇妙な植物にワクワクしてしまいます。

そんな歴史が好きな私ですが、たまに見かける「過去と未来、いくならどっち?」という質問を考えると、選ぶのは断然「未来」なのです。今回は私自身が過去には行きたくないと思う理由についてまとめてみます。

不衛生な過去の世界

最初に思いつくのは「汚い過去には行きたくない」という感情です。

人類は歴史の中で多くの発明や発見から、人々の生活をより衛生的で清潔な物へと変化させてきました。その結果、多くの病気などを遠ざけることができるようになっています。過去に戻るということは、そういった人々の知恵というものが活かされていない時代に行くということになるので、不衛生な環境下での生活を余儀なくされます。それは、とても大変な事だと思うのです。

衛生面と一言で言っても色々な事があるので、いくつか例を挙げながら見ていくことにします。

電気がない世界

大前提として、私たちの日常生活において欠かすことのできない重要なエネルギーである「電気」が、歴史的には比較的新しいものだということを、忘れてはいけないでしょう。

人類が電気を発電して活用するようになったのは1800年代後半からで、日本でいうと江戸時代後半から明治時代頃にかけて世界的に活用が進んだ技術です。人類の歴史でいうとたったの200年程度前の出来事です。日本に最初に発電所が出来たのは1887年なので、日本ではもっと短い歴史しかありません。

アメリカのウォール街で電灯が灯ったのが1883年と言われています。街に電気の明かりが灯った日が記録に残る程、人類にとって電気の活用は大きな一歩だったのです。

電気のない時代というのは想像することが難しいですが、人々の生活基盤に大きな違いがあるのは間違いありません。

冷蔵庫なし

日本の昭和期には三種の神器と言われた生活家電があります。それは「冷蔵庫、洗濯機、テレビ」です。それぞれ電気で稼働するいわゆる生活家電です。戦後日本で巻き起こった高度経済成長で豊かになりつつある人々の生活の中で、豊かさの象徴のようなこれらの家電を手に入れることが、一般の人たちの一つのステータスのような位置づけになっていき、急速に普及しました。

これは、令和日本に生きる私たちの両親や祖父母の時代の話です。

急速に発展する家電製品

私たちが日常的に使っている様々なものの多くは、昭和から急速に普及したものがほとんどです。

逆に言うと、それ以前の人々の生活の中にはこういった便利な家電製品はないのが当たり前の時代なのです。食品は冷蔵庫に保管するのではなく、「涼しい場所に置いておく」とか「川の水の中に入れて冷やす」といった時代です。

腐りかけて匂いがきつければ、香りのキツイ香辛料でごまかせばよいという発想が常識でもあり、ヨーロッパではそのためのスパイスが高騰していたほどです。塩漬けにして保存しても冷蔵庫よりも早く腐る肉などは、匂いが出るのも早かったため、大量のコショウで香ばしい匂いを付与して誤魔化す必要があったのでしょう。

私はそんな腐りかけの食品に手を出したくないし、体の強くない私はすぐに何かの病気になってしまいそうで恐ろしいです。

当然レンジもない

レトルト食品や冷凍食品は、とても便利で美味しいものが簡単に食べられます。近年のレトルト食品は、鍋で温めなくても電子レンジでチンするだけで食べられるものもあり、これらは調理器具をまったく使用することなく食事を楽しむことが出来て、とても便利です。

電気がない時代というのは、当然電子レンジもありません。

レトルト食品や冷凍食品というものも当然なく、今日の晩御飯は簡単に済ませようと思っても、食品の保管方法もなければ、簡単な調理も不可能なのです。

水道・ガスもない

電気よりも昔からあって、人々の生活に欠かせないものと言えば「水」でしょう。

水は人間が生きるために絶対に必要になるものなので、水道のない時代でも井戸など様々な方法によって、人々の生活のために確保されてきました。近代的な水道は電気と同じ明治時代に入ってからですが、それよりも前の1500年代くらいからは水を人々の生活圏まで引いてきて、そこからくみ上げるといった水道設備はあったそうです。

当然ですが、近代的な水質の管理などはありませんので、その水が衛生的かどうかは分かりません。

ガスが活用され始めたのも明治時期で、最初はガス灯と言われる照明器具として利用され始めますが、今のように家庭での利用が普及するのは、生活家電と同じように戦後の高度経済成長期になってからです。電灯のない時代に、ガス灯であっても「道に明かりが灯る」ということはとても画期的であったに違いありません。今でも田舎や山奥のあたりでは、夜間になると真っ暗な場所というのはありますが、電灯やガス灯のなかった時代では、夜は本当に真っ暗闇だったことでしょう。もちろん松明のような明かり・照明器具のようなものはあったとは思いますが、その明るさの強さや数は、今の照明とは比較にならないでしょう。

明治時代よりも前の過去に戻ってしまうと、電気・ガス・水道といったライフラインは全て存在していないことになります。今の生活から考えると、どうやって生きていけばよいのか分からないのです。

トイレや風呂の問題

江戸時代頃、外国から日本を訪れた人々は、日本の清潔さに驚いたという話をよく聞きますし、それは現在でも「日本だけ匂いが違う」と表現されることもある程に、世界的に見ても日本の衛生観念は異次元レベルである事は間違いありません。日本に住んでいると当たり前と思ってしまいがちですが、道にゴミも散乱していなければ、汚水が道路脇を流れているということもない日本は、明らかに諸外国と比べて清潔です。

日本が清潔だと言われる理由には、掃除や洗濯などもありますが、「お風呂に入る習慣」も大きいでしょう。最近は風呂キャンセル界隈と呼ばれる「お風呂にあまり入らない人たち」もいるようですが、日本では古くから「一日一回はお風呂に入る」という習慣がありました。電気も水道もない時代に、一日一回お風呂に入るというのはとても大変な事だったでしょう。もしかしたらお水は何日か使いまわしたりしていたのかもしれません。湯船のお湯を汚さないために、事前に体を洗い流すという習慣も、こうした水道設備などの違いも背景にあるのかもしれません。

日本の昔の入浴

現在は科学技術、特にIT関係の技術の進歩は凄まじく、過去の白黒写真や映像をカラー化するといったことも盛んにおこなわれるようになりました。上記画像はそういった技術を用いて昔の画像をカラー化したものの一つです。こういった技術を用いて、当時の様子などがより詳細に解明され、知られていくことは、人類にとってとても重要な事だと思います。

トイレ事情も過去は大きく異なります。ウォシュレットもないどころか、そもそも水洗便所ですらないのが当たり前の世界です。トイレットペーパーという画期的な商品も1800年代に開発されたものなので、あまり想像したくありませんがそれ以前は違う何らかの紙で拭いていたのでしょう。

私は男性ですが、生理用品の商品開発が進んだのは1900年代に入ってからなので、それ以前は今のような使い捨てのものはありませんでした。女性の方々は大変な苦労をしてきていたのは間違いないでしょう。こういった便利な製品が無かったことも影響してか、江戸時代頃までの日本では、生理中の女性を穢れとして隔離することがあったほどに、女性は非常に立場が低い扱いをされてきています。

今は汚れたものは洗えばよいと簡単に思ってしまいますが、水道のない時代には洗う事自体も簡単ではなかったでしょう。洗うためのお水の調達もですが、洗った後の下水についても処理する方法がないのですから。

治安悪し

過去に行きたくない最大の理由は間違いなく衛生面ですが、治安の悪さについても触れておきましょう。

日本での治安維持は警察の仕事です。一般人は武器などを持たず、唯一制圧用の武装を持った警察が治安を維持することができています。一般の人は武器を持つことは禁じられていて、日本ではその法律は銃刀法として広くしられています。

銃刀法というのは正式名称を「銃砲刀剣類所持等取締法」といい、昭和33年に施行されています。

それまでは武器を持つことが許されていたのかというとそうではありません。もう少しさかのぼっていくと、銃刀法よりも前に「廃刀令」という太政官布告が出されています。帯刀禁止令とも呼ばれるこの法令は、憲法ができるよりも前の明治初期(1876年/明治9年)に出されていて、名前の通り人が刀剣を所持することを禁止しています。

今から考えると、武装した人が道を闊歩しているというのは想像しがたいことではありますが、江戸時期までは日常的な風景だったことでしょう。人を殺傷することが可能な刀剣を持った人と、冷静に話をすることができていた当時の人々の胆力はどれほどだったのでしょう。失言してしまったら殺されるかもしれない世界で私は生きていける気がしません。

情報も物流も遅い利便性皆無の世界

電気がないので、当然パソコンもスマートフォンも、インターネットもない時代で、それどころかテレビもない世界です。昭和初期まではラジオと新聞が主要な情報メディアでしたが、それよりも前になってくると、人通りが多い場所に立て看板とかそういった時代です。

過去に戻って生活する場合は、その世界の情報が必要になると思いますが、残念ながらその方法は限られています。人に聞いて不正確な情報をかき集める以外に手段は殆どないでしょう。

食料品を調達しようとしても、お店の場所も値段や相場も分からず、そもそも食べ物を調達する事自体が難しいことになりますし、購入するためのお金を稼ぐにしても、働き口を調べるのも一苦労でしょう。全ての事に時間と労力が必要になることは明白です。

そして、情報だけでなく移動手段も限られていることを忘れてはなりません。電車も車もない時代には、裕福なら馬や籠のような移動手段を用いることはできたかもしれませんが、一般的には徒歩ということになるでしょう。日本に自転車が伝来したのは、これまた明治時代に入ってからのことです。それまで人は「歩くのが常識」の世界です。明治時代には、乗合馬車のような交通機関も発展していたようで、とても興味深いと思いますが、車ではなく馬車が闊歩している道路というのは、動物の糞尿で溢れてさぞ不衛生だったことだろうと想像できます。

乗合馬車

今の時代、通勤・通学などで歩くことはもちろんありますが、電車もバスも利用せず、目的地までひたすら歩いている人は少ないのではないでしょうか。そんなことをしていては、日が暮れてしまいますし、体力の消耗も尋常ではないでしょう。ですが、過去に戻るということは、そういった便利な交通手段もない世界に生きていくということになるのです。私にはとても耐えられそうにないのです。

未来に期待出来る事

歴史が好きな人の中には、過去の偉人に会ってみたいという人もいるかもしれませんが、私は生活の事を考えると過去にはやっぱり戻りたくはありません。

「過去と未来、いくならどっち?」と聞かれれば、迷わず「未来」と答えるでしょう。

未来に期待できることは、過去に積み上げてきた人類の歴史の延長で、過去に戻ることの懸念点とは真逆の事です。つまり、「より衛生的」で「より治安が良く」より「利便性に富んだ」世界です。

便利になりすぎて人々の生活がつまらなくなっているということは、もしかしたらあるのかもしれませんし、今だからできている楽しい事や野蛮な事というのもあるのかもしれません。例えばの話でいうと「動物の肉を食べる」という風習が禁止されてしまうとか、そういったことは未来の世界ではありうるのかもしれません。しかし、人々の歴史を考えると、人は「全ての人が幸せになるように」努力を積み重ねてきています。今とは異なる常識があって驚くことがあるかもしれませんが、きっとその常識には人が考え抜いて出した結論が集約されていることでしょう。その結論には納得できると思うのです。

最終的には食料が完全自動で製造されるようになり、治安維持も自動化されて、人は一生自由に活動することができる、そんな時代になるのでしょうか。そこまでいかなくても、未来は今よりも楽に生活できて、美しい世界である事には期待が持てます。

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