インターネットの情報は便利で、必要な事を調べれば辞書の様に簡単に答えに辿り着くことができます。しかし、私たちの生きる世界はそんなに単純ではありません。インターネットに限らず、特定分野の専門家の発言や辞書などからも得られる知識は多いですが、それは一部の側面でしかありません。
物事を考える際には、一歩引いた複数の視点から分析してみることが役に立つことがあります。今回は、政治とITという異なる分野を中心に、歴史の転換点ともいえる程に激動の一年だった1995年について振り返りながら、多角的な視野の重要性について考えてみます。
村山内閣とは (1994 -1996)
1994年に第81代内閣総理大臣に就任した村山富市氏は、当時日本社会党の党首でした。
総理となる前は野党連合に参加する形で与党となっていた社会党でしたが、連立政権内の他政党と不和となり離脱しており、その後の衆議院総選挙では、逆に過半数割れした自民党と連立することで改めて与党となり、総理大臣のポストを得ました。

経緯は異なりますが、少数の野党が行く末を決めることができる状況だったと言えるでしょう。
村山内閣成立時の状況
村山富市は、政治も国民の生活も「過渡期」であり「激動の時代」に総理大臣を務めた人物と言えるのではないでしょうか。
政治の面では「政府与党が入れ替わる」という大きな動きがあった時代です。
1955年に自民党が結党して以来、40年ちかく政府与党は自民党が担っていましたが、1993年に野党が連立することで非自民政権を勝ち取りました。(細川内閣)
この細川内閣は内閣支持率が驚異の71%と、今では考えられない程に国民に支持された記録が残っています。この連立政権は細川内閣(1993年8月-)から羽田内閣(-1994年6月)と受け継がれますが、1年も経たずに内部崩壊してしまいます。長続きはしませんでしたが、日本の政治を揺り動かした事には間違いないでしょう。村山氏の社会党は当時の連立政権に参加していました。
その直後、鞍替えして自民党と手を組んだ社会党の政権が村山内閣(1994年6月-)です。
村山談話 – 戦後50年(1995年)
政局も大変な時期でしたが、村山富市といえば「村山談話」が有名です。
村山談話とは、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題されて、村山内閣から出された公式な文書で、先の大戦においてアジア諸国において侵略や植民地支配を行ったことを認め、公式に謝罪しています。
この方針は、現在の「日本の公式見解」として歴代内閣に引き継がれています。
外務省が文書全文を公開しています。比較的短い文章なので、興味がある方は是非ご一読ください。
出典 : 村山談話 – 外務省公式
就任していた年を覚えやすい総理大臣 – 村山富市
村山談話が「戦後50年」の節目で発表されたことで、1945年の終戦から50年の1995年は「村山内閣」だとすぐに思い出せます。
下表に村山内閣の成立と終了を記載しましたが、この表を見てわかる通り、1995年は一年を通じて村山富市が内閣総理大臣を務めています。
成立 | 終了 |
---|---|
1994年6月30日 | 1996年1月11日 |
社会民主党(社民党) – 現代に残る村山富市の軌跡
1994年は昔の事のように感じてしまいますが、今も「社民党」として村山富市の流れは続いています。
村山総理は内閣総理大臣を辞任した後、日本社会党を解党し、名前を変えて「社会民主党(社民党)」を結党して初代党首となっています。

その後は土井たか子(2代目)、福島みずほ(3代目他)へと党首が移り変わっています。
党首 | 就任年月 |
---|---|
村山富市 | 1996年 1月 |
土井たか子 | 1996年 9月 |
福島瑞穂 | 2003年 11月 |
吉田忠智 | 2013年 11月 |
又市征治 | 2018年 2月 |
福島瑞穂 | 2020年 2月 |
2020年代になってから立憲民主党に一部合流したことで社民党はさらに党勢を縮小していますが、2024年の衆院選後も社民党は1議席を獲得しています。
100歳になった村山富市氏
そんな社民党の生みの親でもある元総理の村山氏は、2024年にニュースにもなりました。
2024年に、村山富市元首相が100歳を迎えるということがニュースで報じられました。村山氏は大正生まれで先の大戦では学徒動員~学徒出兵も経験していて、戦前から現在に至るまでの日本を見てきている政治家の一人で、存命する内閣総理大臣経験者としては最高齢とのことです。
激動の年 – 1995年に起こった事
当時の状況を理解し、想像するためにも、その頃の世の中がどのような状況だったのかを確認しておきましょう。歴史を多角的に観察することは大事だと思うのです。
1995年の日本は、政治の面でも55年体制と言われた自民党政治が終焉を迎えて揺れていましたが、それだけではありませんでした。
日本を揺るがすほどの衝撃だった、1995年の代表的な出来事を取り上げてみます。
Windows95の登場(1995年8月) – パソコンの普及
村山富市が村山談話を発表した1995年は、現代では多くの人が日常的に使うようになっているWindowsの「OSとしてのデビュー作」Windows95が発売された年(1995年8月25日)でもあります。(日本語版は11月)

勘違いされないように「OSとしてのデビュー作」と表現しましたが、Windowsは95がリリースされる前から存在はしており、当時はWindows3.1と呼ばれる製品が主流でした。
それまでのWindowsは、MS-DOS(Microsoft Disk Operating System)というCUI(いわゆる黒い画面に文字だけ)の状態から起動する「一つのアプリケーション」という位置付けでした。
Windows95はOS部分と統合(包括)したことが非常に画期的で、以降は「Windowsさえあればパソコンが動く」という新しい時代に突入したといえます。
それまでは「専門家かオタク」しか使っていなかったようなパソコンという機械が、多くの人から注目されるようになり、それまでのMS-DOS用のソフトウェアが次々にWindows用へと移植されました。
ブラウザが付属していなかったWindows
そんな中で更に注目を集めたのが、現代では欠かせないものとなっている「インターネット」です。
特に、Windowsが普及したことで、パソコン上で文字だけでなく絵や音などを含めた「マルチメディア」な情報を扱いやすくなったこともあり、「ブラウザでウェブサイトを閲覧する」という文化が急速に広まっていきました。
Windows95を使ってインターネットの情報を閲覧するためには、別途Internet Explorerというアプリケーションをインストールする必要がありました。
Windows95が登場した当時は、Windows(OS本体)にはウェブブラウザが付属していませんでした。今では想像することも難しいかもしれませんが、パソコンを起動してもネットの情報をみるアプリケーションソフトがインストールされていない時代だったのです。
当時はインターネットプロバイダに接続するための機器(モデム)などの同梱CDなどに、Internet Explorerのインストーラーが入っているような状況でした。ブラウザがない状態では新しくネットからブラウザをダウンロードすることもままならないため、こういったCDは重宝しました。
OSと統合されたInternet Explorer (1997年)
1997年になってWindowsとInternet Explorerが統合すると、従来のWindowsアプリケーションが不安定になるなど大きな影響がありましたが、それも徐々に安定していき、以降は「パソコンを買うとインターネットが見れる」という時代に突入しました。
今となっては「パソコン = ネット」が常識となってしまっていますが、当時は大きな衝撃があり、以降急速に国内でのパソコンとインターネットの普及が進んでいきました。

Windowsとインターネットの登場で起きた事
Windowsリリース後は世界が一変し、特にパソコンに詳しい仲間たちの間で、インターネットを通じて入手したフリーソフトや怪しい音楽(mp3)などが急速に出回り始めました。特に音楽は「CDを買って聴く時代」だったため、無料で音楽を聴くことが出来るmp3が横行しました。完全に「技術が法律を追い越していた時代」だったと言えるでしょう。
Windowsが普及し始めたころには、今のようなSNSやYouTubeのようなサービスはまだありませんでしたが、掲示板やチャットなどを通じて世界中の人と情報交換ができるようになり、最新の情報をテレビ以外から入手することができるようになった瞬間でもありました。
激しい「ブラウザ競争」の時代
私は当時高校から大学に上がったばかりの頃でした。入学してしばらくは、提出するレポートの調べ物などで学内のUnix端末を使ってインターネットとは触れ合っていました。当時のUnix上でのブラウザmosaicが懐かしく思い出されます。
今でもChromeやEdgeなど様々なブラウザの派閥があったりしますが、当時はWindows上でのブラウザ覇権争いは激しく、特にIE(Internet Explorer)派とネスケ(Netscape Navigator)派は過激で、もはや宗教と呼べるほどの様相でした。
阪神淡路大震災 (1995年 1月)
1995年の1月17日の午前6時少し前というまだ多くの人が寝ている早朝の時間に、兵庫県淡路島近辺を震源とする大きな地震が発生しました。地震の規模を示すマグニチュードは7.3を記録し、6000人を超える犠牲が出る大災害となりました。
日本としては、当時戦後最大の被害をもたらした自然災害であり、まさに未曽有の大惨事という状況でした。

特に「経験したことのない大災害」であったことで浮き彫りになった「杜撰な体制」が印象的で、逆にこの災害の後から本格的に「近代的な災害対策」がとられるようになったともいえるでしょう。
災害発生時の総理大臣であった村山富市が、自衛隊派遣が遅れたことに対して「なにぶんにも初めてのことですので」と答弁したことは強く非難され、内閣支持率を急速に下落させました。
緊急時の対処「トリアージ」の始まり
阪神淡路大震災時に現場の医療従事者が「トリアージ」を行った事も話題になりました。
傷病の症状から患者の緊急度や優先度を決めるトリアージは日本ではほとんど行われていませんでいたが、阪神淡路大震災発生後に、可能な限り多くの方を救うために現場の判断で行ったとされています。
以降トリアージは、緊急時の対処として国内では周知されるようになり、その後震災の際などには行われるようになっています。
オウム真理教 – 地下鉄サリン事件 (1995年 3月)
海外の人が「日本は安全な国」と好意的な評価をしてくれる昨今ですが、1995年にはそんな安全を脅かす事件が起きました。かつて日本の首都東京で起こった大規模なテロである「地下鉄サリン事件」も1995年の出来事です。
地下鉄サリン事件は、オウム真理教の信者が東京の地下鉄内で神経ガスであるサリンをバラまいた同時多発テロ事件です。
朝8:00頃の通勤時間帯を狙った犯行だったため、地下鉄を利用する多くの人たちが被害にあいました。地下鉄駅周辺の道路に倒れ込んで苦しむ大勢の人や、救護・警察関係の人や車両がごった返している大変な状況が、連日テレビなどで報じられました。

事件後にはオウム真理教の犯行が明らかになっていき、最終的には教祖の麻原彰晃や大勢の幹部が逮捕されました。麻原氏や事件に深く関わった数名は死刑が確定し、既に刑は執行されています。一方でメディアの対応を担当していた上祐史浩氏は、公的文書に関する罪を問われて服役していましたが地下鉄サリン事件等の凶悪犯罪には関与していないとされ、現在は出所して「ひかりの輪」という宗教団体の代表を務めています。
オウム真理教は地下鉄サリン事件が有名ではありますが、その他にも多くの犯罪行為も行っていたり、選挙にも出馬するなど、多くの話題が日々報道され続けていました。特に衝撃だったのが、テレビの生放送での直撃インタビューの最中に、オウム真理教の幹部一名が刺される瞬間が報道されたことです。その後の対応も含めて、今以上にメディアの行動が非常識すぎたのがとても印象に残っています。
1995年の情報収集はテレビが主流
1995年には阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件のような日本を揺るがす大きな出来事がありましたが、当時スマートフォンはまだなく、ポケベルから携帯電話やPHSといった移動体通信機への移行が急速に進んでいるといった時代です。
2020年代からすると、1995年はたった30年ほど前の時代ではありますが、パソコンもインターネットも普及していない時代で、新聞やテレビなどしか情報収集する方法がなかったということに、改めて驚かされます。本当に便利になりました。

ネットが「無い世界」から「有る世界」へ
当時は、新聞やテレビしかないのが普通で特に不便だとは感じていませんでしたが、今は逆に新聞・テレビを全く見ることが無くなり、すべてネットの情報だけで済むようになってしまっています。
当時はテレビの番組中はテレビの前に長い時間拘束されていましたが、今は隙間時間に効率よく情報収集することが出来ており、より人生の貴重な時間を有効活用できていると感じます。これからのメディアの在り方や、私たちの情報リテラシーの行く末はまだ分かりませんが、間違いなく言えるのは「大きな変革の時期」であるという事でしょう。特にこの20年くらいのITに関する変化は大きく、私たちはまだその変革の途上にあるのです。
多角的な視野で見える事
物事を考える際に、多角的な視野が「新しい解決方法」を提供してくれることがあります。行き詰ってしまった場合にも諦めず、一歩引いて考えると、意外な所に解決策が隠れていることもあるものです。
政治の話題をしていると、政局や政党、総理大臣などの話に集中してしまいがちですが、その当時どのような状況であったかを知ると、改めて見えるようになってくる「景色」があるのではないでしょうか。
歴史の出来事として、阪神大震災や地下鉄サリン事件を考える場合に、1995年と言えば「パソコンやネットが無かった時代」であることを思い出すことが出来れば、当時の災害や事件への対処がどれだけ大変で、当時の国民がどれほど不安に思っていたのかが、想像できるのではないでしょうか。
ひとつの分野に集中して学ぶことは専門性を高めますが、多角的な視野を失わないように注意しなければなりません。分野を超えて見渡すことで初めて気付くことというものはあるものです。
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