故人へ「手を合わせてあげる」に感じる不快感

故人に手を合わせてあげる 戯言

お盆が近くなってきた7月にこの記事を書いています。日本ではお盆が近くなってくると、お墓参りをしたり、家族でお仏壇に手を合わせるなど、様々な宗教行事が行われる風習があります。特にお盆の期間には、自分の肉親や近い親族の人のお墓を訪れる人が多いのではないでしょうか。

今回は、そんな日本の風習の中で私が感じる違和感というか、個人的に不快に思うことがあるので、それについてまとめてみます。風習や伝統といった守るべき文化もあり、宗教に対する考え方は人それぞれだとも思うのですが、高校で仏教を学び、その後の人生でも歴史や宗教を学んできた私にとっては受け入れ難い事ではありながら、相手に対して伝えることが難しい事でもあるため、ここに密かに吐露してみます。

私が不快に感じる表現について冷静に考えてみると、どうやらそれは、故人に対して「手を合わせてあげる」とか「お参りしてあげる」といった表現にあるようです。

仏教における故人は「仏様」

刑事ドラマなどで、亡くなられた人のことを「ほとけさん」と呼んだりするシーンがあったりしますが、仏教では亡くなられた方は極楽浄土に旅立って仏になるという世界観なので、このセリフは紛れもなく仏教由来の言葉で綴られています。

極楽浄土は簡単に言うと天国のようなイメージの世界ではありますが、個人的に重要なことは「現世との対比」にあると考えます。

仏教では現世は悩みや苦しみに満ちているとしていて、亡くなった後に辿り着く先である極楽浄土はそういった苦しみから解放されるという考え方です。死は救済という言葉を聞くことがありますが、死を迎えた後は「痛みも苦しみもない」という意味から、当たらずとも遠からずでしょう。人の死は悲しい出来事ですが、悲しみは残された現世の人々に与えられた苦しみであり、亡くなられた人は仏になり全ての苦しみから解放された、というのが仏教の基本的な考え方です。

仏様に対して上から施す傲慢さ

「手を合わせてあげる」や「お参りしてあげる」という表現は、個人的にはとても不快に感じます。亡くなって仏になった個人に対して、更にその上から施しを与えているという傲慢さを感じてしまうのです。

仏さんは、現世の人にお参りや手を合わせることを望んだりはしないのです。

故人が亡くなる前の関係性から、~してあげるという感情や行動が現れる気持ちも分からなくもないのですが、個人的には「それは一体何教なのか」理解に苦しむのです。仏さんの上に立ち、施しを与えて満足感を得ようとするその考えには同調することは難しく、またそれを当たり前のことで「やらないのは常識がない」と蔑むような態度を取られてしまうと、あまりの無知さ加減に怒りを通り越して呆れてしまうのです。

「手を合わせる」のは自分のため

仏教では仏さまに手を合わせるという習慣があります。仏になられた故人に対してや、仏壇やお墓に対してもお参りし、手を合わせるという行動をすることがあります。私の周囲の人に限られるのかもしれませんが、この「手を合わせる」の意味をはき違えている人が多くいるように感じます。

先に結論を書いてしまいますが、手を合わせるのは故人や仏様のためではなく、あなた自身のためであるということを理解しておかなければなりません。

仏様は現世の苦しみから解放された存在

先に少し言及しましたが、亡くなられた人は悩みや苦しみのない極楽浄土に旅立たち、仏様になっています。仏さまは現世の苦しみや悲しみを感じることから解放され、永遠に平穏な浄土の世界で過ごされるのです。

浄土風景

仏様は現世に干渉することもないし、現世に生きる人々に何かを要求することもありません。何かを必要としていることもないのです。あなたのお参りや手を合わせる行為を必要ともしていませんし、悪いことをしても仏罰や天罰、バチが当たるということもありません。こういった歪んだ宗教解釈は、為政者や宗教を戦争などの交渉に利用とした権力者によって広められたものが多く、仏教そのものにはそういった解釈はないのです。

救いが必要なのは「あなた」自身

では仏教で手を合わせるのは何のためなのかというと、救いが必要な「あなた」のためです。

現世では病気や老いといった回避することができない苦しみだけでなく、日々の生活の中でも痛みや悲しみなど辛いことが多く存在します。そんな厳しい現世の世界に生きる私たちは、仏さまに手を合わせることで「どうか救ってください」とお願いするのです。

故人がいなくて「さみしい」「悲しい」から救ってください

親しい人が亡くなられた際に手を合わせるのも、「可哀そうに」ではなく「貴方がいなくなって辛い私をお救いください」というのが本来の仏教の在り方です。仏様のために手を合わせるのではなく、自分自身を救うために仏様に手を合わせるのだということを理解しておかなければなりません。

故人に対しての感謝の気持ちを、仏壇やお墓に手を合わせて伝えることでも、伝えられたと感じることで達成感や満足感を得て「自分が救われる」のです。決して故人に対して「してあげる」というものではありません。その行動によって、現世で苦しむ弱いあなたが救われるからこそ、仏教は宗教として広まっているのです。

それでも私が手を合わせる理由

手を合わせるという行動は、本質的には神の力が宿ったお札や壺を買うのと同じで、意味のない行動に意味を見出して、それによって悩みや苦しみから解放された気になっているだけです。

それを分かっていても尚私が故人に対して手を合わせるのは、その行動の間に心を整理し、現世での自分の人生を前に進める踏ん切りをつけることができるからです。言葉は悪いですが「役に立つ」とも言えるでしょう。時に目を閉じて思いを巡らせ、気持ちを落ち着かせることで、考えが整理されるということもあります。これは人間の脳の働きではありますが、仏教的に言うと「悩みから救われる」と表現できる事象です。

お墓と仏壇の意味

ここからは少し「手を合わせる」の話から逸れて、日本におけるお墓や仏壇といったものについてまとめていってみます。近年ではお墓や仏壇を購入しない人も増えてきているようですが、少なくとも昭和時代頃までは日本では家に仏壇を置いて、お盆などの時期にはお墓参りをするというのが一般的でした。

お墓や仏壇を購入している人の中にも、その宗教的な意味や、長く続いているその風習の変遷などを詳しく知らない人もいると思います。

お墓や仏壇も故人のためではなく自分のため

故人のためにお墓をたてるというのは間違いで、これは手を合わせるのと同じで「自分のため」であることを忘れてはなりません。仏教の中でお墓を立てなければならないということは決められていませんし、手を合わせたりお参りをしなければならないということも当然ありません。仏壇についても同様です。

これらはすべて「あなた自身のため」なのです。

仏壇に手を合わせることで、身近な貴方がいない苦しみから救われたい、お墓にお参りして貴方がいなくって辛い日々から救われたい、貴方の事を忘れてしまうのが辛く怖い気持ちから救われたい、そういった人たちを救うために仏壇やお墓があるのです。仏教は仏様を神格化するような宗教ではなく、現世に生きる人々を救うための宗教です。

個人の墓は近代以降に広まった商売

個人が墓を持つのは古い歴史的な伝統があるように言われることがありますが、実際には江戸時代頃から徐々に広がった風習で、それまでは天皇陛下やごく一部の高位な方を埋葬する際に建てるものでした。

それが急速に広まったのは「需要」があったからなのは間違いありませんが、それを「供給」することで寺社がお金を設けたことは忘れてはなりません。仏教の教義の中にお墓が必要などというものがあるはずもなく、人々の心を救うという名目の上に、純粋なお金儲けとして作られた文化です。

こういった事例は日本でも珍しくなく、安価なものでは「おみくじ」のようなものや、「お守り」のようなものから、高価なものでは冗談などでも聞くことがある「幸せの壺」のようなものもあり、仏壇やお墓にもこれらと同じ意味合いのものです。「意味がある」と思い込むことで、「救われる」ことがあるのが人間の心です。

キリスト教では免罪符が有名

日本での仏教などで行われている、宗教を名目にした各種商売は世界各国で歴史上行われており、特に有名なのは「免罪符」の存在でしょう。紛れもなく只の紙ですが、宗教上の恩恵があるとされ、購入することで犯した罪を許されるという商品です。幸せの壺と同じですが、非常に安価だったこともあり、広く民衆に人気が出たようです。

教会イメージ

これを行ったのはキリスト教の中でも世界的に信者数の多い宗派「カトリック」です。カトリックは日本人がイメージするキリスト教そのもので、派手な教会に素敵なステンドグラスとイエス様の像があるといった趣です。こういった派手な教会は信者を集めるのに効果的ですが、とてもお金がかかるため、その解決のために「紙を販売した」というのが免罪符の経緯です。

これに反発したのが「プロテスタント」で、現在も両宗派は相容れない関係です。「プロテスタント」の教会は質素で、信者に上下関係もなく、女性も牧師という教えを他の信者に伝える役目を担うことができます。「カトリック」は豪華で、信者の上下関係が厳しく、神父は名前の通り男性しか担うことが許されていません。

現代における「お墓」の問題

最後に、この仏教に関連した現代日本における問題点について少し言及しておきましょう。

令和時代の日本は急速な少子高齢化が進んでいます。2024年現在で年間80万人の人口が減少していて、毎年一つの小さな県が消滅しているようなスピードです。当然新しく生を受けた人もいるので、亡くなっている人は80万人に生まれてくる人の数を加えた数くらいはいるということです。

恐ろしいことに、この少子高齢化はまだまだ続き、これから20年で1000万人以上の人口が減少するというのが現状の予測であり、今のところその予想を上回るスピードで進行しています。そんな社会の中で、お墓などの宗教的な風習にも変化がおきていっています。

多様化する埋葬と不要となった大量の墓石

一つYoutubeの動画を紹介します。この動画では日本の埋葬に関する変化や墓じまいに関してとても分かりやすくまとめられています。

動画の中で高齢者の方が将来の子供や若者に対して「負担を遺すまい」と埋葬方法を改めようとしているところは、令和日本の大きな意識変化のように思います。今では負担の大きな一般的なお墓ではなく、樹木葬などの自然葬が主流となっているようで、特にこの10~20年で大きな変化が起きているようです。この背景には、高齢者の増加や若者の経済状況の悪化など、様々な要因があるように感じます。

管理する人がいなくなった墓石について、動画内でも紹介されているようにお寺が管理してくれる場合もあるそうようで、年々積み上げられるだけで減ることはなく、中には不法投棄なども行われるといったこともあるようです。

以下はXで投稿されていた写真ですが、ちょっと信じられないような光景です。

お墓だけでなく「家」も社会問題に

人は亡くなる時に、生前建てた家や墓などを処分していってはくれません。つまり、持ち家で亡くなった人は、相続権のある方がその家を引き継ぐことになります。しかし、現代ではこの家の相続についても大きな課題が浮かび上がっています。

昭和の時代では、自分の持ち家を築いて、先祖の墓をお参りするというのが「当たり前」とされていた時代ですが、歴史的にみると、それは残念ながら「高度成長経済中の日本」にだけ見られた非常に稀有な現象や価値観であると言わざるを得ません。

古くなった家や、継続してお金がかかるお墓を相続することを拒み、0円でもいいから手放したいという人が出る程に、社会の経済状況や考え方は変化しています。昭和から令和にかけて生きてきている私にとっては、価値観や考え方の急速な変化に驚きながら、とても興味深く感じます。

宗教は否定せず宗教から学びたい

私は宗教に限らず、超常的な存在を信じることができない種類の人間です。それでも、宗教はとても大切なもので学ぶべきだと考えています。

宗教というものは、例外はもちろんありますが、基本的には人の道徳や倫理観を説くためにあるというのが私の考えで、時には超常的な力の存在を示すことで、ある程度強制力を持たせたのだろうと感じています。畏怖や恐怖といった恐れる気持ちは、人を振り向かせるのには便利です。そういう意味では、お釈迦様の言う仏の概念と、イエスやムハンマドの言う神は似て非ざるもので、どちらかというと私は後者の方が畏怖を感じます。

宗教を信じることは自由ですが、私は他人に宗教を強制するべきではないと思います。ここでいう他人は「家族・親族」を含みます。今回は仏教の手を合わせるという一つの所作についての話でしたが、一部の宗教では2世信者などの問題が取り沙汰され、事件に発展することもあります。親が宗教を信じている状況で、子が宗教に反対の立場を表明することは難しい事ではありますが、信仰は強制されるべきではないと思うので、喧嘩にならない程度に自分の意思を表明していきたいところです。

それと共に、少し記事内でも触れた家の負動産について、「少子高齢化日本」に増え続ける「空き家」を取り壊して更地に戻すのは「将来の若者」ということについて、しっかりと考えて行かなければならない大きな問題と思うのです。

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