世界の歴史の中では、国のリーダーが国民の支持を失い続けた結果、限界を迎えた国民の手によって無理やり国家の体制そのものを変革させるといった事件が何度も起きています。
私たちが生まれ育った日本という国でも、たった二百年程前に明治維新という大きな変革が起きています。合法的な軌道修正に見切りをつけた人々が、暴力に訴えて力づくで当時の国家を倒してしまい、新しい制度の国家の樹立を宣言しました。またお隣の中国でも、日本を追いかけるように同じような革命の波が起きています。
今回は、自分たちの住んでいる国を「武力で倒そうと立ち上がった人たちの原動力」について理解を深めるために、日本と中国の近代史に起きた革命について掘り下げて考えてみようと思います。
もうこの国は終わり – 国家を作り替える最終手段
実際の日本や中国の歴史を振り返る前に、国家を正当な手段(法に則った選挙など)ではなく暴力で解決してしまう方法について、一般的な定義をおさらいしておきます。
ニュースなどで耳にすることがあるクーデターというのは、まさに国家を作り替えるための手段の一つです。歴史の授業などでは、革命も同じように国家を作り替える言葉として登場します。これらには「既存の国家・政府の打倒」という共通点がありますが、結果については大きな違いがあります。
権力者を入れ替える – クーデター
現代のニュースなどの中でも耳にすることがある「クーデター」はフランス語(coup d’état)で「国家への一撃」という意味です。一般には、武力でもって政権を無理やり奪取することを意味します。要するに反乱軍を組織して国のトップの座を力づく(殺害・追放など)で奪い取る行為です。
最近では2021年にはミャンマーで発生した他、同年の8月にアフガニスタンでタリバンが政権奪取したことは日本でも大々的に報道されました。アフリカでは2020年以降8件もクーデターが発生しており、相次いで軍事政権が誕生していっている状況です。
日本でのクーデターというと、いずれも未遂に終わっていますが昭和の2・26事件や玉音放送をめぐって発生した宮城事件が有名です。
国の制度ごとひっくり返す – 革命
クーデターと革命の大きな違いは、国の制度自体を変革させてしまうかどうかです。同じ制度のままトップの座を奪うのがクーデター、トップを倒して国の制度を変えるのが革命です。厳密にいうと「革命」という言葉は、軍事/政治的なもの以外についても使われる言葉ですが、本記事では冗長になってしまうため、扱いません。(例 : 産業革命など)
中世から近世への間では、世界中で王政や封建体制といった旧制度を打倒し、国民たち自らの力で国家を運営していくための革命が次々と起きていきました。この流れを最初に作ったのは「フランスの市民革命(1789 – 1799年)」と言われていて、処刑された王族のマリーアントワネットは、市民の飢えの苦しみを理解していない象徴的な言葉「パンがなければケーキを食べればいい」という言葉と共に、日本でも広く知られています。(台詞の真偽については諸説あります)
歴史の流れを俯瞰してみると、日本では、ヨーロッパの革命から約半世紀以上遅れて近代化の革命が起きたと言えます。(明治維新 : 1868年 – )
日本・中国で実際に起きた近代史の革命
日本や中国でも近代史の中で革命が起きています。
革命にはいろいろな種類があり、民族の独立を目的として起きたり(独立革命)、経済や政治のイデオロギーの変革(共産主義革命など)のために起きたりします。日本と中国で起きたそれぞれの革命は、一般的には市民の手によって起こされた「市民革命」に分類される他、欧米列強に追いつくために起こされた「近代化革命」と分類されることもあるようです。
ここではそれぞれの革命について少しだけおさらいしておきます。
日本の明治維新 – 江戸幕府を倒して近代化
日本の幕末志士たちが立ち上がり、江戸幕府を倒した上で天皇中心の政治体制の国家を樹立した一連の革命を、日本では明治維新と呼びます。
明治維新の期間については様々な論争がありますが、概ね1868年の「王政復古の大号令」を中心に、前はペリー来航の1853年前後、後ろは西南戦争が起こった1877年あたりとされることが多いようです。
既に欧米列強と軍事衝突をしていた薩摩藩や長州藩が中心となって、イギリスなどから仕入れた近代兵器を用いることで、軍事的な優位を確保した上で南から北へと進軍していき、江戸幕府やその残党を掃討しています。
中国の辛亥革命 – 清王朝を倒して近代化
中国の辛亥革命は、薩摩や長州のような一部の人たちの行動ではなく、国民それぞれが立ち上がった点が日本の明治維新とは大きく異なります。そういう意味では、フランスなどヨーロッパで起きた市民革命に近い動きとも言えるかもしれません。
興味深いのは、日本の明治維新よりも40年近く遅れて起きていることです。
そのため、中国の辛亥革命が起きた時期の日本は、富国強兵政策によって欧米列強に並び立つようになってきており、当時の中国王朝(清)やその国民を苦しめる側の一国だったと言えます。
明治維新と辛亥革命における動機の違い
日本の明治維新と中国の辛亥革命は、同じ市民革命であり近代化革命とされますが、革命の動機についてはどのような違いがあったのでしょうか。
それぞれの革命の前段階からどのような動きがあって、結果としてどうなったのかを、細かくなりすぎない範囲で全体を確認してみます。
明治維新 – 幕府の弱腰外交や身をもって知った近代兵器の恐ろしさ
「ペリー来航」以降の欧米列強による「強大な軍事力を背景とした威圧的な外交政策」に対して、有効な対策を打てず屈していく江戸幕府を倒すことで、「日本を守ろう」という考え方が明治維新の基本的な原動力になっています。
尊王攘夷という思想は有名ですが、これは「天皇を中心の国家を」という思いと「外国勢力を追い払う」という思いが合わさったものです。明治維新の中心となった薩摩と長州は、「攘夷」思想が渦巻く当時の日本の情勢の中でイギリスと衝突し、その際の幕府の酷い対応に完全に失望し、「倒幕」が必要という考えに至るのです。
特に長州藩は悲惨で、攘夷を実行すべきという指示の基、下関近海を通過するイギリス艦隊に向けて砲撃したところ、手痛い反撃を受けて全ての砲を押収・占拠されてしまいます。和平交渉での損害賠償金を幕府へ回し、領地割譲の話題を古事記を暗唱することで有耶無耶にしてしまう高杉晋作のエピソードは、まるで笑い話のように面白く伝えられていますが、当時はギリギリの苦肉の策だったことでしょう。
その後高杉晋作はたった80人で10万人以上の幕府軍に対して挙兵するという逸話が残されていますが、幕府に睨まれていた長州藩は、本当にどん底から這い上がって国家に立ち向かっています。
辛亥革命 – 列強諸国の侵略と王朝の専制政治に対する不満
中国の辛亥革命では、孫文という人がとても有名ですが、孫文は日本の幕末において革命を指導した薩長の志士たちとは異なり、革命が全国で発生し始めた後に、代表者として担ぎ上げられた人物です。
この時代の中国は清が全土を治めていたのですが、欧米列強の侵略や圧力によってとても悲惨なものでした。イギリスとは早くから衝突してアヘン戦争(1839年)に負けており、その後フランス・イギリスの連合国にもアロー戦争(1856年)に敗れて、それぞれ領地の割譲や港の開港を強制されています。その後もフランスに清仏戦争(1883年)に敗れてベトナム主権を、日本に日清戦争(1894年)に負けて朝鮮の主権も失っていきます。
清王朝が行っていた近隣諸国との君臣関係である「冊封体制」が、欧米列強の侵略によってズタズタにされていく形です。
清は対外的に追い詰められた結果、金策の一つとして行った鉄道国有令(国内の鉄道を国有化する布告)が引き金となってしまい、国民が革命軍を組織して武装蜂起し、都市を占拠します。
革命軍は占拠した都市で新政府「中華民国湖北軍政府」を樹立し、その後中国各地で同様の武装蜂起が起きていきます。大きくなった革命軍政府で投票を行って初代中華民国初代臨時大総統に選出されたのが「孫文」で、それからしばらくして正式に清王朝は滅び(1912年)、中華民国による統治が開始されることになります。
民衆の不満が爆発した結果、2000年以上続いた中国での王朝政治に終止符が打たれたこの一連の騒動は、あまりにも大きな変革過ぎて想像するのがとても困難です。2000年間同じ体制で生きてきた人たちにとって、「拠り所であるはずの王朝を倒す」という決断にはどれほどの勇気が必要だったことでしょうか。
日本と中国の近代化革命における共通点
これら近代化革命において日本と中国に共通しているのは、欧米列強の侵略・植民地政策に強い影響を受けていることでしょう。
日本はペリー来航(1853年)から15年(1868年)という短期間で旧制打破を成し遂げていますが、中国はアヘン戦争(1839年)から換算しても73年(1912年)もの歳月がかかっています。これはそれだけ中国が広く、清が強大だったともいえるのかもしれませんが、長く生き延びているがゆえに近代化が遅れて一層苦しんだともいえるでしょう。
特に、先に近代化を果たした日本が、欧米列強と同じように軍事力を背景にした高圧的な外交を仕掛けてきていることについて、当時の清王朝はどのように感じたのでしょうか。怒りなのか、嘆きなのか。長く有効的な外交関係のあった近隣国であっただけに、衝撃は大きかったのではないでしょうか。
強大な暴力を突き付けられたときに、勇気をもって立ち上がり、全力で国を守ろうとした結果が近代史における「近代化革命」と言えるのかもしれません。
明治維新後の日本と中国の革命の関係
日本と中国では、日本が先行して近代化革命を成功させます。
近代化革命を成功させた日本では、欧米列強に並び対抗するために「富国強兵」政策が行われていくことになります。その後日本は朝鮮(韓国)の外交的独立を巡って清王朝と対立することとなり、近代化革命前の清との間で軍事衝突(日清戦争 : 1894年)に発展してしまいます。そんな状況の中、中国で辛亥革命から始まる一連の近代化革命は進んでいくことになります。
ここでは、辛亥革命が進んでいく中での日本と中国の関係性について確認してみます。
辛亥革命(第一革命)から第三革命までの5年間
日本では、中国の近代化革命は辛亥革命として知られていますが、実際には辛亥革命を第一革命として、その後第二・第三革命と激動の時期を経て、共和制の中華民国が形作られて行きます。日本の場合、王政復古の大号令以降にも戊辰戦争が続いていたりしているので、国家を作り替えるというのは並大抵の事ではないということでしょう。
この中国の近代化革命の中で外せない存在なのが「袁世凱(えんせいがい)」という人物です。
袁世凱は清王朝側の軍人で、中華民国政府が樹立した後に次々発生する国内の武装蜂起に対抗するために呼び戻されて、清朝で内閣総理に就任します。最終的には中国を統一するために、袁世凱が中華民国側の代表となり、清朝最期の皇帝を退位させる形がとられます(清朝滅亡 1912年)。
しかしこの袁世凱は清朝の人間であって、中華民国の共和制という国民主権の体制を良く思っていなかったため、徐々に専横的な政治(帝政)を行っていき、国民だけでなく諸外国からも非難され、最終的には第三革命(1915年)で追い落とされてしまいます。
日本から中国への事実上の保護国勧告 (国恥記念日)
中国の第三革命は、袁世凱の帝政に対して国民が反発して起こしたことは間違いありませんが、その背景には日本が大きく関係しています。
第三革命は1915年の12月の事で、同年1月に日本から「対華二十一ヵ条要求」を提示しています。これは事実上日本が中国を支配下に置くという要求です。
第二革命を鎮圧した後の袁世凱はこの要求を受け入れることも突き返すこともできず、諸外国に助けを求めますがそれも叶わず、同年5月に日本から最後通牒を突き付けられてしまい、止む無く受け入れます(1915年5月9日)。この日は中国では国恥記念日として、今も忘れられない屈辱の日とされています。
同年12月には第三革命が起きはじめ、翌年3月に袁世凱は帝政を取り消し、6月に没しています。
歴史を振り返ってみると、袁世凱は国の追い込まれた状況の解決よりも、自身の権力に執着したように見受けられます。辛亥革命から第三革命の5年間は、袁世凱の欲望を国民が許さず反抗し続け、日本が外交的に決定的な一撃を加えた形で締めくくらりを迎えたと言えるでしょう。
孫文 – 何度も日本で準備して中国で勝負した男
中国での近代化革命の話をする中で、中華民国(革命)側の絶対に外せない人物は「孫文」でしょう。
孫文は辛亥革命が起こる前から中国南部で革命思想を流布していた人物で、「中国革命の父」と呼ばれています。しかし、彼が主導して辛亥革命が起きたわけではありません。辛亥革命発生当時は彼はアメリカにいて、辛亥革命が起こった後(彼が中国へ帰国後)担ぎ上げられた形です。
孫文は袁世凱を引き入れる形で清王朝を滅亡させますが、その後袁世凱の帝政復活に対して反乱を起こして鎮圧(第二革命 1913年)され、日本へ亡命して再起を図ります。孫文は何度も日本に亡命しては、体勢を立て直しながら革命を進めています。彼は生涯の3分の1を日本で過ごしたと言われていて、中国に妻がいながらも、日本で日本人とも結婚しています。
孫文は、間違いなく日本の近代化革命を中国で実現しようとしていました。それが50年遅れていることも分かった上で、中国が近代化した後で「日本と協力して東アジアを盤石」とすることを一つの目標に掲げ、眠れる中国国民の意識を革命へと向かわせていきました。
孫文は非常に興味深い人間で、臨機応変で柔軟な思想の持ち主です。
基本的には「自由民主主義」の思想ですが、中国に根強い「儒教」をベースにした考え方に加えて「共産主義思想」にも共感しています。共産主義と共同で革命を推し進めた国共合作は非常に有名です。あまりにも思想が混ざりすぎていて、現代でも歴史上の評価が難しい人のようです。
明治政府 – 孫文への支援を惜しまない協力体制
明治維新を成功させた後の日本は、日本に訪れた孫文の「民族自立」や「明治維新の第二歩」という考え方に賛同し、彼を惜しみなく支援していきます。
日本で内閣総理大臣にも就任した犬養毅が仲介することで、孫文は日本国内でも支持者や資金を調達し、日本陸軍からも軍事顧問がつくほどの協力的な体制がとられています。彼は自伝の中で、犬養毅を始めとした「支援した日本人」の名前を列挙し、感謝を述べています。
彼の偉業を称え、日本、中国、台湾には多くの記念館等が建立されています。
蒋介石と満州国 – 徐々に変化する日本の思惑
最後に少しだけ近代化革命後の話に触れておきたいと思います。
日本では、中華民国というと「孫文」よりも「蒋介石」の名前の方を知っている人が多いかもしれません。若かりし頃の私も、中華民国 = 蒋介石のような認識でいた気がします。
蒋介石という人は、孫文の革命において見出された若き軍人で、孫文亡き後の国民党を支えて戦乱の時代を戦った指導者です。日本から見ると、日中戦争時における中国側の指導者で、欧米からの補給を受けるための蒋介石ルートや、日本敗戦後の中国国内で起きた国共内戦で敗れた後に台湾へ亡命したことなどが知られており、特に知名度が高いように思います。
近代化革命が第三革命によって成し遂げられた後、孫文はガンで亡くなって(1925年)しまい、中華民国内は指導者・権力者による争いが起きていきます。孫文の中国国民党の本拠地は中国の南側だったため、蒋介石は南から北へ勢力範囲を広げていく形となりました。
孫文の革命を支援していた日本ではありますが、当時の日本は中国北東部に満州国を建国していたため、権益を守るためにも近隣を勢力圏においていた「張作霖」という別の指導者を支援しなければならなくなりました。
日本が張作霖を爆殺したことを国民党(蒋介石陣営)の仕業に仕立て上げようとした策略が露呈し、結果として中華民国を「対日という敵意」でまとめてしまうことになり、その後の泥沼の日中戦争へと時代は流れていってしまいます。
近代史における日本と中国の密接な関係性
日本と中国は長い歴史の中で関係が深い国です。特に日本からすると、宗教や文化などを含めて、大陸からの絶大な恩恵を得てきています。
しかし、近代史における日本と中国の関係性は、近いとか深いとかそんな言葉では表現しきれない程に、複雑に絡み合っていると、今回の記事をまとめていく中で改めて感じました。
先に近代化を果たした日本ですが、近代化のお手本が植民地政策を行っているヨーロッパだったため、同じような侵略的な外交を推し進めていってしまいました。日本は侵略国家ではないとする論も耳にしますし、ある程度共感する部分はありますが、やはり歴史を見る限りでは侵略や植民地政策の意図を否定するのは難しいように思います。
現在の日本、中国、台湾はとても難しい関係性の上に微妙なバランスを保っています。八紘一宇ではありませんが、「皆が家族のように仲良く過ごせる世界」を人類は築くことができるのでしょうか。