社会は長い間、女性の身体を「性的なもの」と見なし、今日に至るまでメディアなどでさまざまな規制が行われてきました。
本記事では、現代女性の“尊厳”をめぐる二つの視点を取り上げ、歴史的背景や法令の観点から整理しながら、「女性の身体を性的と扱うべきなのか」という問いを投げかけます。
女性の身体をめぐる「二つの尊厳」
社会は長い間、女性の身体に「性的な価値」を結びつけてきました。
しかし現代の女性たちは、必ずしも同じ方向を向いているわけではありません。
ある人は「性的に見られたくない」と強く感じ、自分の身体を「ただの身体」として扱ってほしいと願います。
一方で、自分の身体が持つ「性的魅力」を誇りや力と考える人もいます。
この二つの尊厳が共存する現代において、私たちは女性の身体について、どう考えていけばよいのでしょうか。
性的に見られたくないという尊厳
女性の身体が、男性の身体と違って「性的対象」として扱われることに、不快感や差別的な扱いを感じる女性も少なくありません。
例えば、モデルの「茜さや」さんが着衣姿でポーズを取った写真を公開した際、胸の大きさだけを理由に「性的だ」と批判が殺到しました。しかし彼女にとっては、それは日常の姿であり、性的要素を強調したわけではないと説明しています。

出典:ぱくたそ – 会員登録不要、無料の写真素材・AI画像素材
批判の中には女性からのものも目立ち、「胸の大きな女性は公共の場にふさわしくない」と受け取れるような書き込みまで見られました。
学校生活などでも、発育の良い女子生徒が男子から好奇の目で見られたり、からかわれたりすることは珍しくありません。こうした経験は「自分の身体はいやらしいものだ」という刷り込みとなり、女性の尊厳を深く傷つけるのです。
性的魅力を誇りとする尊厳
一方で、性的価値を自らの誇りとして表現する女性もいます。
グラビアアイドルやセクシーモデルの活動はしばしば「性を商品化している」と批判されることもありますが、彼女たち自身にとっては、それは仕事であると同時に「自分の魅力を表現する手段」であり、「自分で選んだ生き方」でもあります。
現代日本においても、女性の身体を「自己表現の手段」として提示する文化は健在です。
大手出版社の公式チャンネルでは、グラビア撮影のメイキング動画が公開され、多くの視聴者を集めています。これは「性の商品化」というよりも、「自らの魅力を積極的に表現するスタイル」として受け止めることもできるでしょう。
出典:YouTube – ヤンジャンTV【集英社ヤングジャンプ公式】
性的魅力を発信することを恥ではなく誇りとし、それを力に変える女性たちがいる――これもまた、尊厳の一つの形なのです。
歴史の中で作られた「性的」な身体観
「女性の身体は性的である」という考えは、自然発生的なものではありません。
歴史や宗教、社会規範によって作られた価値観です。
江戸時代の「裸はただの身体」
江戸時代の庶民生活には、混浴や裸祭りがありました。人々にとって裸は必ずしも「わいせつ」ではなく、乳房や裸の身体は「ただの日常」として存在していました。
近代化とキリスト教的価値観の輸入
明治維新以降、西洋化の波とともに「裸=恥ずべきもの」という規範が日本社会に持ち込まれました。キリスト教的価値観に由来する「女性の身体=性的対象」という思想は、近代日本に強い影響を与え、現在の「乳首タブー」へとつながっていきます。
近代化の過程で変化していった「日本の”性的”価値観」については、歴史的な背景も含めて以下の記事で詳しく紹介しています。是非あわせてご覧ください。
現代社会が抱える矛盾と課題
現代の社会には、女性の身体をめぐる扱いにいくつもの矛盾があります。
その一つが、法律による基準と、メディアの自主規制との間にある大きなずれです。
法律とメディア規制のギャップ – わいせつ物陳列罪
そもそも「わいせつ物」とは何でしょうか。
刑法175条(通称:わいせつ物陳列罪)では「わいせつな文書や図画その他の物を頒布・販売、公然陳列した者」を処罰すると規定しています。
(2年以下の懲役または250万円以下の罰金など)
ただし、この「わいせつ」の判断は難しく、裁判所は「徒らに性欲を刺激し、一般人の正常な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」としています。実際の判断では、性器の描写があるかどうかが大きな基準とされ、乳房の露出は必ずしも「わいせつ」とはされません。
しかしメディアはそれより厳しい自主規制を行い、乳首ですら放送禁止とするケースが一般的で、法律と社会規範の間に大きなねじれが存在しています。
以下の表は、法律とメディアにおける扱いの違いを整理したものです。
同じ「身体の部位」であっても、わいせつ物としての扱い方に大きな差があることが分かります。
身体の部位 | 法律(刑法175条) | メディア(放送・出版・SNSなど) |
---|---|---|
乳首 | 原則として対象外 | 多くの場合NG(削除・修正) |
性器 | わいせつ物として禁止 | 放送禁止・修正必須 |
AED論争と人命への影響
救命のためであっても、女性に触れることさえ「性的」と見なされる社会では、人命が軽視される危険があります。実際に日本では、AED使用をためらう理由の一つとして「女性に触れることへの不安」がしばしば挙げられています。
そしてこの延長線上には、より深刻な事態が存在します。
命よりも価値観が優先 – 見殺しにされる女性
アフガニスタンでの災害時、救助隊員の多くが男性であったため、「女性の体に触れてはならない」という価値観が優先され、女性たちが救助されず命を落とす悲劇がありました。
事態を受け、政府は女性隊員や女性医師を派遣しましたが、犠牲を防ぐことはできませんでした。
出典:「異性に触れてはならない」アフガン、大地震の女性被災者を見殺し…「救助隊は男だけだった」 – 読売新聞
同記事によれば、現地の女性からは「男性医師は女性の診察や手当てができないとされ、治療を受けられず重傷のまま死亡した女性もいる」との訴えも寄せられています。
この事例は、価値観が人命より優先される社会の危険性を象徴しています。
AED論争の先にある未来像として、決して他人事ではありません。
女性の身体は「わいせつ物」なのか
社会は長い間、女性の身体を「性的なもの」と決めつけ、その延長でメディアなどでは「わいせつ物」のように扱ってきました。
しかし女性自身の視点には、「性的に見られたくない」という尊厳と、「性的魅力を誇りとする」という尊厳が同時に存在しています。
問題は、そのどちらも正当な尊厳であるにもかかわらず、社会の規範や制度が二つを両立させきれていないことです。
法律とメディアの扱いのズレ、AED論争や海外の女性抑圧などが示すように、「身体=わいせつ」という価値観は時に命や自由を脅かします。
私たちは女性の身体を「わいせつ物」として規制し続けるのがいいのでしょうか。
それとも、ただの身体であって「性的ではない」とするのがいいのでしょうか。
――答えはまだ出ていません。読者一人ひとりに、この問いを考えてほしいのです。
関連記事:江戸時代の”性的”とは?-裸はただの身体という価値観
本記事でも少し触れましたが、江戸時代の日本では、男女を問わず「裸は性的ではなく、ただの身体」という価値観がありました。
では、裸が性的とされなかった時代において、「性的」とは一体何を意味していたのでしょうか。
以下の記事では、江戸時代の”性的”な価値観を詳しく掘り下げています。
現代の「セクシー」とは異なる、奥深い「艶」の世界を知ると、赤いきつねの炎上騒ぎもまた違う角度から見えてきます。