江戸時代の学問には、朱子学・国学・陽明学など、さまざまな思想が存在しています。
それぞれの名前を聞いたことはあっても、「何が違うのか」「どう関係しているのか」が分かりにくいと感じることはないでしょうか。
これらの学問は、バラバラに存在していたわけではなく、時代の流れの中で影響し合いながら展開していきました。
その全体像を捉えることで、それぞれの思想の位置づけも見えてきます。
本記事では、江戸時代の学問を「時系列」と「系統」という二つの視点から整理し、その全体像を読み解いていきます。
- まずは全体の流れをつかむ
- 学問・思想を個別に理解する
- 全体像を整理したい方へ (付録:相関図・人物一覧)
時代で見る江戸の学問と思想
江戸時代の学問や思想は、時代ごとにその役割や広がりが大きく変化していきました。
ここでは、江戸の学問を「時代の流れ」に沿って整理し、それぞれの時代がどのような思想を生み、どのように次の時代へつながっていったのかを見ていきます。
江戸時代の思想史は、100年単位で大きな潮流の変化があると捉えると、その流れが見えやすくなります。

本特集では、江戸時代の学問・思想の流れを次のような時代区分で整理しています。
| 時代 | 本特集での区分 | 時代背景 | 学問・思想の動き |
|---|---|---|---|
| 1600 – 1700 | 江戸前期 | 社会秩序が整えられた時代。 | 朱子学的解釈や探求が主流。 |
| 1700 | (転換点1) | 社会課題が表面化。 | 朱子学を批判する視座が現れ、古典へ立ち返る思想が登場。 |
| 1700 – 1800 | 江戸中期 | 社会課題の解決に取り組む時代。 | 新しい学問や思想の多様化が進む。 |
| 1800 | (転換点2) | ロシア・イギリスによる外圧。 | 外国船の来航など対外危機が意識され始める。 |
| 1800 – 1868 | 江戸後期 | 外圧への対応が進められた時代。 | 政治運動へと結びついていく。 |
江戸前期(1600〜1700) ― 学問の萌芽
江戸前期は、幕府の統治体制と社会秩序を支えるための「学問の土台」が整えられた時代です。
戦乱の世が終わったことで社会は安定し、商業や流通などの経済も発展しました。それに伴い、実務に必要な文字の読み書きや算術を身につけるための教育が、徐々に広がっていきます。
幕府が奨励した朱子学は「学ぶこと」を社会的な徳目として位置づけ、親が子に学ばせるという価値観を後押ししました。こうした積み重ねの中で、日本社会の識字率は、後の時代に向かって高い水準へと育っていくことになります。

思想そのものの広がりよりも、後の江戸社会の基盤が形作られていった時代といえます。
受け入れられる「朱子学」
朱子学は、社会秩序を説明する枠組みとして、江戸社会に広く受け入れられていきます。
既存の日本の価値観は、朱子学によって根拠を得て、理屈によって説明されるようになります。
拡がる朱子学の「探求」
朱子学では、物事の本質を極め、知を完成させるという姿勢(格物致知)が示されました。答えを与えられるだけでなく、学び・探求することが善い事とされます。
この時代、朱子学に本気で取り組んだ人たちの中から、新しい学問や思想が生まれます。
思想史の転換点 ― 問われ始める朱子学の前提
江戸時代前期の末(西暦1700年)頃、思想史の上では一つの転換点が生まれます。
江戸社会では朱子学が広く学ばれ、道徳を正すことが社会秩序の安定につながると考えられていました。しかし経済の発展や社会の変化が進む中で、従来の考え方では説明しにくい問題も現れるようになります。
こうした状況の中で、荻生徂徠(おぎゅう そらい)は朱子学の解釈を批判しました。
人の道徳に頼るのではなく、儒学の古典を読み直し、社会制度そのものを見直すべきだと考えたのです。
朱子学を唯一の正統として絶対視しない視座が示されたことで、学問の前提すら問い直され始め、やがて学問・思想は多様化していくことになります。
江戸中期(1700〜1800) ― 学問の成熟
江戸中期は、多様な学問が成熟し、新しい価値観が次々と生まれた時代です。
基本的な学力や教養が身に付いた人々は、朱子学的な精神を土台としながら、更に学びを深めていきます。

学びを深めた人々の間では、よりよい社会を目指して建設的な議論も行われるようになります。朱子学とは異なる解釈や価値観も含め、活発に意見が交わされました。
朱子学の先へ ― 新しい学問が広がった社会背景
朱子学は日本社会を安定させることに大きな役割を果たしていました。
しかし、個人の問題のような、現実社会に起こるすべてを解決することが出来たわけではありませんでした。
庶民の多くが文字が読めるようになったことで、本が商売として成り立ち始めたこの時代。
問題解決を考える人々の中から、様々な学問が広がり、議論が深められていきます。
朱子学から広がる江戸思想の流れ
江戸時代の思想は、多くの場合「朱子学」を出発点として展開しました。
下図は、朱子学からどのような方向へ思想が広がっていったのかを整理したものです。
青:朱子学の探求 赤:朱子学の批判 緑:学問方法の影響

※徂徠学から国学への矢印は、思想内容の継承というより、古典を原典から読み直す学問方法の影響を示しています。
江戸中期の代表的な学問
国学は本居宣長らによって体系化され、蘭学が西洋科学の窓口として広がり、陽明学も静かに受け入れられ始めます。
この時期の思想の積み重ねが、後の幕末の動きにつながる重要な背景となりました。
補足:江戸中期末の転換期 ― 外圧の高まり
日本は、1800年頃に再度大きな転換点を迎えます。
外圧は現実のものとなり、思想や政治のあり方が大きく揺れ始めます。
日本を守らなければという危機感の高まりは、学問の実用化を急がせ、思想は政治を動かす原動力へ向かい始めます。
| 西暦 | 相手国 | 事件 | 概要 |
|---|---|---|---|
| 1792 | ロシア | アダム・ラクスマン来航 | 漂流民送還を名目として、根室に来航。通商の正式交渉は長崎経由とする。 |
| 1804 | ロシア | ニコライ・レザノフ来航 | ロシア全権使節が正式に長崎に来航。鎖国維持を理由に最終的には拒否。 |
| 1806 – 1807 | ロシア | 文化露寇 | ロシア艦隊による蝦夷地周辺での襲撃。日本は十分な対応できず。 |
| 1808 | イギリス | フェートン号事件 | イギリス艦隊による長崎港占拠事件。人質をとられ、物資を拠出する。 |
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江戸後期〜幕末(1800〜1868) ― 学問から政治思想へ
江戸後期から幕末にかけて、学問は「社会を動かす思想」へと変化していきます。

陽明学は行動の哲学として広まり、水戸学や国学は尊王攘夷思想と結びつき、政治や社会運動に強い影響を与えました。
学問が現実の変革と密接に関わるようになった、激動の時代です。
先鋭化していく学問・思想
古典を探求する方法論だった国学の中から、最終的に「日本は神の国」で「死後の世界は在る」という結論が導き出されます。
また、大塩平八郎の行動原理には、陽明学の知行合一(ちこうごういつ)がありました。
政治思想へ結びつく学問・思想 ― 尊王・攘夷思想の背景整理
江戸時代に深められた学問・思想は、対外危機という社会背景の中で、政治思想へと結びついていきます。
下図は、各学問がどのような価値観・思想を背景として、尊王・攘夷思想へと接続していったのかを整理したものです。

尊王・攘夷思想に接続した学問 (上記図内)
学問から思想への接続
水戸学の歴史研究は、日本という国の本質に皇統を見出し、それを国体の概念として説明する方向へと展開していきます。こうした認識は国防意識とも結びつき、国体論として広がっていきました。
一方で国学は、神道の解釈が儒学によって歪められていると捉えます。儒学の前提を取り除いて再解釈することで純粋な神道を目指す思想は、復古神道として展開していきます。
尊王・攘夷思想への接続
尊王思想は、宗教・歴史・文化という異なる領域で行われていた学問的探究が、結果として同じ地点に辿り着いてしまった現象として理解することができます。
垂加神道・水戸学・国学など、異なる学問・思想が交差します。
尊王思想による正当性と、陽明学による実践倫理が重なったとき、思想は現実の行動として表れます。攘夷思想は、この二つの流れが交わることで成立したものと捉えることができます。
尊王・攘夷思想の具体的展開
尊王・攘夷思想は、理念として共有されるだけでなく、各地で具体的な行動や判断として現れていきました。
その代表的な例の一つが、長州藩における松下村塾です。
幕末の政変の流れとその構造は、以下の記事で整理しています。
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学問・思想の系統で理解する
江戸時代には、朱子学・国学・蘭学・陽明学・水戸学など、多様な学問が並び立っていました。
それぞれが異なる背景や目的を持ちながら、時に対立し、時に影響し合い、江戸社会の思想を形づくっていきます。
ここでは、それぞれの学問や思想がどのような特徴を持っているのかを整理します。
学問・思想ごとの概念や結論、また社会や他の思想に与えた影響などを掘り下げます。
朱子学 ― 江戸幕府に奨励された学問の土台 (儒学)
江戸時代の学問といえば、まずは「朱子学」です。
幕府は統治を安定させるため、朱子学を武士階級の正統な学問と位置づけ、昌平坂学問所などで広めました。朱子学の倫理や価値観は、武士教育や藩校を通じて社会全体に浸透していきます。
朱子学は中国宋代に成立した学問ですが、日本においてはまったく新しい倫理を持ち込んだというよりも、既存の道徳観を体系化する役割を果たしました。
幕府の奨励によって広まったものの、その思想は日本人の感覚とかけ離れたものではなく、むしろ社会秩序を理屈で説明する枠組みとして自然に受け入れられていきました。
朱子学とは ― 秩序を重んじる学問
朱子学の中核には「忠」「孝」「名分」といった、上下関係や役割を重視する概念があります。
立場を超えた行動をせず、控えめに振舞うことが秩序を守ると考えられました。
「礼」はこの延長にあり、他者との距離感を図る礼節が発達することになります。
朱子学を学んだ先の学問・思想
朱子学では、物事を徹底的に調べ、背景の理を理解すること(格物致知)が学問の基本姿勢とされ、学ぶことは善い事と考えられるようになります。
朱子学という学問は、体系として完成された学問でありながら、
学ぶことで広がる可能性を秘めた学問
でもありました。
朱子学を深く学んだ人たちの中から、新しい学問や思想が芽生えます。
幕末の政治思想にも大きな影響を与えた「水戸学(後述)」はその一つです。
垂加神道 ― 朱子学的な神道解釈
垂加神道は、朱子学的な考え方で神道を再解釈した思想です。
朱子学を学んだ京都の山崎闇斎(やまざき あんさい)は、日本の伝統である神道を、朱子学と整合する形で理解しようと試みました。
コラム:朱子学の探求で浮かび上がる「天皇」
朱子学における忠は、「理に適った対象に従う」という思想です。この概念を本気で突き詰めると、幕府が求めるような“将軍への絶対的忠誠”とは異なる結論が導かれていきます。
日本で忠の置き所を探求すると、自然と「天皇」の存在が浮かび上がり始めます。
陽明学 ― 心の正しさを重視する実践思想 (儒学)
陽明学は儒学の一派ですが、朱子学とは解釈が異なっています。
陽明学とは ― 行動の実践を重視する学問
朱子学が広まり、「正しさ」を理論として理解する枠組みが整う一方で、それを知っているはずなのに現実は変わらないという違和感も生まれます。
なぜ人は正しいと分かっていても行動できないのか。
そうした問いの中で、心と実践を重んじる陽明学が注目されていきました。
陽明学の「知行合一(ちこうごういつ)」は、正しいと知ったことは実際に行わなければ本物の知ではないという考えで、知識を得るだけの朱子学的な学びを批判します。
陽明学は、江戸幕府に警戒され「寛政異学の禁」などで制限されますが、私塾や在野では引き続き研究が続けられました。
大塩平八郎と陽明学 ― 命を懸けた行動の原動力へ
陽明学の考え方は、ときに人々を「死をも恐れず正義を貫く行動」へと駆り立て、大きな事件を引き起こす原動力となりました。
乱を起こしたことで知られる大塩平八郎は、陽明学者でもありました。
コラム:陽明学は危険思想なのか
日本では歴史的経緯などから陽明学は遠ざけられ、現代では忘れられつつありますが、中国ではビジネス成功などの文脈で改めて注目を集めています。
古学 ― 古典回帰から生まれた新たな儒学のかたち
朱子学によって体系化された儒学に対し、その解釈そのものを問い直そうとする動きが現れます。
古学は、論語や孟子といった原典に立ち返り、
後世の注釈を離れてその意味を読み直そうとする学問
です。
この流れの中で、伊藤仁斎は言葉の意味や人間関係に注目し、倫理の理解を捉え直しました。
一方、荻生徂徠(おぎゅう そらい)は古典の用法や制度に着目し、社会の仕組みそのものを再構成しようとしました。
同じ古典回帰を掲げながらも、その関心は「人」から「社会」へと展開していきます。
古学は、朱子学批判の一形態であると同時に、江戸時代の学問が多様化していく重要な転換点に位置付けられます。
古典回帰の潮流は、中国古典から日本の古典へと広がっていきます。
国学 ― 日本文化の源を探求した学問
国学とは、日本の言葉・神話・古典を手がかりに、日本人の心や文化の源を探究した学問です。
国学とは ― 古典と向き合う姿勢・方法論
古典の解釈に重ねられてきた儒教や仏教(漢学)的な枠組みを取り払い、日本の古典そのものに立ち返ろうとする姿勢が国学にはありました。
古典に描かれた感動や情景は、道徳的な教訓として読むのではなく、人の心の自然な動きとして受け止めるべきだと再評価されました。
色眼鏡を外して、正面から向き合う――。
その視座はやがて、地方に伝わる祖霊信仰や怪異譚にも目を向け、日本の神々や死後の世界を実在のものとして捉える思想へと展開していきます。
国学者たちの思想 ― 方法論が生み出す多様な結論
賀茂真淵は、漢学的な姿勢を批判し、日本の古典とまっすぐ向き合う姿勢を国学と位置付け、自らも国学者を称します。
真淵は、中国と日本の古典が違うように、日本の古典においても「万葉集」と「古今和歌集」ではその性質が異なるとして、「ますらおぶり」「たをやめぶり」を提唱します。
本居宣長が古事記を解読して注釈をつけた「古事記伝」は、日本国民の天皇・国家に対する認識を強め、水戸学や幕末志士達の精神的な基盤になっていきます。
本居宣長は、仏教や儒教といった外来思想を「からごころ」として批判し、日本の古来から伝わる「やまとごころ」を大切にするべきと説きました。
また、宣長は和歌の研究などを通じて、日本人の情緒「もののあはれ」を提唱します。
平田篤胤は、神道を朱子学的に解釈する(垂加神道のような)考えを批判します。
神道が中国由来の学問で歪められているとし、国学的視座によってその純化を目指します。
補足 :古事記伝の背景
漢語で書かれた日本書紀と違い、古事記は和語で書かれており、江戸時代には読むことが難しい書になっていました。
本居宣長は、多くの文献と比較しながら解読・注釈をつける作業に、その半生を費やします。
水戸学 ― 歴史編纂から国体論へと展開した学問
水戸藩の徳川光圀は、日本の正統を探求する歴史書『大日本史』の編纂事業を始めます。
朱子学的な経世観に基づき、歴史は単なる記録ではなく「道徳と政治の教科書」であると考えられました。
教育にも影響した編纂事業は、やがて水戸学と呼ばれるようになります。
幕府による政治を認めながらも、日本の正統な権威は天皇にあるという歴史感が育まれます。
江戸後期から幕末にかけて、国学や陽明学の影響を受けて思想的に大きく変容していきます。
尊王攘夷思想からは、歴史的正統性という論拠を提供した学問と位置付けられます。
尊王・攘夷思想 ― 外圧の危機の中で収束していく政治思想
尊王思想とは、天皇や皇統を尊び、日本の正統なあり方をそこに求める思想です。
単に天皇を敬うだけでなく、この国の秩序や政治の正しさを何によって支えるのかを考える点に特徴があります。
そのため尊王思想は、一つの学派に限られず、儒学・国学・水戸学など様々な学問と結びつきながら広がっていきました。
攘夷思想とは、外国勢力をしりぞけ、日本の独立や秩序を守ろうとする思想です。
そこには、異国の圧力にどう向き合うのかという強い危機意識があり、単なる排外感情だけでは捉えきれない性格があります。
江戸後期から幕末にかけては、尊王思想などとも結びつきながら、政治を動かす大きな力となっていきました。
蘭学 ― 近代化の先駆けとなった西洋科学
江戸時代の日本はオランダとだけ交易していたことが知られています。
オランダとの交易を通じて日本に伝わった西洋科学である「蘭学」は、しばしば医学や解剖学のイメージで語られがちです。しかし本来の蘭学は、自然科学・天文学・測量・化学・兵学などを含む総合的な西洋科学でした。
付録:学問・思想史の理解のための補助線
学問・思想史を理解することに役立つ図表を、付録として掲載しています。
思想史全体の流れや要点など、構造を俯瞰して掴むことなどにお役立てください。
付録1:学問の広がりと尊王・攘夷思想への収束(相関図・フローチャート)
朱子学から広がった学問は、それぞれ異なる問題意識を背景に発展し、やがて尊王・攘夷思想へと収束していきます。
ノードの色は学問・思想の性質を示しています。
矢印の色は、それぞれの学問がどのような背景や問題意識から生まれたかを表しています。
| ノード色『□』:学問・思想の性質 | 矢印色『↓』:背景・問題意識 |
|---|---|
| 青:朱子学から広がった学問 緑:思想として整理された概念 赤:政治思想 | 青:継承・展開 赤:批判・転換 緑:方法・解釈 灰:思想の統合 茶:政治化・行動化 |

本図は、各学問が直接思想を生み出した因果関係ではなく、それぞれがどのような背景から生まれ、どのようにつながっていったかを整理したものです。
付録2:学問思想史における代表的な人物
江戸時代の学問・思想史の中には数多くの人物が登場します。
以下の表では、その中から本特集で扱われている代表的な人物をまとめています。
気になる人物から、その思想の特徴を理解することにお役立てください。
| 系統 | 時期 | 人物 | 概要 | 関連記事 |
|---|---|---|---|---|
| 朱子学 | 前期 | 林羅山 | 朱子学を幕府に導入 | なぜ江戸幕府は朱子学を採用したのか ― 導入から制度化までの流れ |
| 垂加神道 | 前期 | 山崎闇斎 | 神道を朱子学的に解釈 | 垂加神道とは何か ― 朱子学と神道を結びつけた江戸前期の思想 |
| 水戸学 | 前期 | 徳川光圀 | 歴史を朱子学的に編纂 | 水戸学とは何か?徳川光圀の『大日本史』から幕末の尊王攘夷まで |
| 国学 ※1 | 前期 | 契沖 | 古典注釈の誤りを是正 | 江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか |
| 古義学 | 前期 | 伊藤仁斎 | 道徳重視で古典へ回帰 | 古義学とは何か ― 古典回帰はどこから始まったのか |
| 徂徠学 | 前期 | 荻生徂徠 | 制度重視で古典へ回帰 | 徂徠学(そらいがく)とは何か ― 道徳だけで社会は治まるのか |
| 陽明学 | 前期 | 中江藤樹 | 人の徳と実践を探究 | 江戸中期の陽明学 ― なぜ社会は良くならないのか |
| 陽明学 | 前期 | 熊沢蕃山 | 政治の是正を探究 | 江戸中期の陽明学 ― なぜ社会は良くならないのか |
| 国学 | 中期 | 賀茂真淵 | 国学を提唱 | 江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか |
| 国学 | 中期 | 本居宣長 | 古事記を思想的に解読 | 江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか |
| 陽明学 | 後期 | 大塩平八郎 | 思想を行動として実践 | 陽明学が大塩平八郎を動かした理由 |
| 国学 | 後期 | 平田篤胤 | 神の国思想を体系化 | 江戸後期の国学 ― なぜ学問から「神の国」の思想が生まれたのか |
※1 後の国学とは位置づけが異なる萌芽段階
関連特集紹介:社会背景としてのキリスト教禁教史
江戸時代は、様々な学問・思想が広がりました。
その社会の裏では、キリスト教を禁止し、外国との交流は大きく制限されていました。
幕末期に学問・思想が大きな変化を遂げたように、禁教・外交政策も大きな転換期を迎えます。
不平等条約締結後、日本に建てられた教会に「隠れキリシタン」が現れたことで、幕府・明治新政府は対応(処罰)を行うことになります。
その対応は、外国から非難されることとなり、禁教政策は終焉に向かっていきます。
日本の禁教史は、江戸時代の社会を立体的に理解する事に役立ちます。
