二つのクーデターで整理する幕末 ― 単純化で掴む流れと構造

二つのクーデターで整理する幕末 歴史

「幕末って結局何がどうなったの?」

そんな疑問を抱くことはないでしょうか。

本記事は、単純化することで、幕末の時代を分かりやすく整理しています。
「二つのクーデター」を軸に、全体の流れと構造を把握していきます。

幕末という時代

まずは「幕末」という時代について確認しておきましょう。

一般的に幕末という区分は、「ペリー来航」のから「明治維新」のまでを指して使われます。

幕末という時代
幕末という時代

幕末は、長い江戸時代が終わって明治時代に入るまでの激動の時期でもあり、日本の大きな転換点の一つとして注目されることの多い時代です。

幕末はたったの「15年」

幕末は1853年のペリー来航から1868年の明治維新までで、その期間は約15年程度です。

15年を長いと感じるか、短いと感じるかは人それぞれです。学校教育で習っている年代の人にとっては長いと感じることもあるでしょう。
しかし、人生の尺度の中での15年は決して長くはありません。ましてや長い歴史の中での15年は、「たったの」といえるほどに短い期間でもあります。

わずか15年の中で、日本の主導権は大きく揺れ動いていきます。

幕末に生きた多くの人は、ペリー来航から明治維新を一人の人生の中で体験した人も少なくありませんでした。
その後の明治・大正は合わせて60年もないため、昭和まで生きた江戸時代生まれの人もいます。
💡関連記事:江戸時代に生まれ、昭和を見届けた5人の偉人たち ― ペリー来航は本当に遠い昔?

幕末の前半と後半

クーデターの話に入る前に、幕末の時代を「分かりやすく」整理するため、幕末の前半後半を定義します。

15年の前半と後半を分ける「幕末の中間」には何があったのでしょう。

幕末期の中心に位置する「桜田門外の変」

幕末の15年のほぼ中間にあたる時期に、有名な「桜田門外の変」があります。大老 井伊直弼が、桜田門の外で襲撃・暗殺された事件です。

幕末の中の「桜田門外の変」
幕末の中の「桜田門外の変」

この桜田門外の変より前を前半、以降を後半として整理すると、流れが掴みやすくなります。
この事件を境に、幕府の統制力は大きく揺らぎ始めます。

幕末前半 ― 幕府主導の統制が保たれていた段階

ペリー来航以降、幕府は外国との条約交渉を進めていきます。軍事的劣勢にある中、厳しい判断を強いられながらも、日本という国を守るために最善を尽くしますが、結ばれた条約は不平等な内容を含んだものとなりました。その後、幕府を批判する言論が飛び交うようになります。

※当時の倫理観では、政治は国民ではなく幕府が行うものであり、政治批判の言論は慎まれるべきものという前提があります。

井伊直弼という人物は、この不安定な秩序を回復するため厳しい言論統制安政の大獄)を行いましたが、その後暗殺されてしまいます。

黒船来航によって日本が大きな転換期を迎える中、「安政」という元号の時代が始まります。この安政の時代は、井伊直弼の暗殺後にさらに改元されることになります。
そのため、幕末前半は「安政の時代」と重なる時期として捉えることもできるでしょう。

幕末後半 ― 体制の破壊が表面化

井伊直弼が暗殺された後、幕府の主導力は弱まります。政治の重心は江戸から京都へ一部移動し、一部の藩では諸外国との軍事衝突も起き始めます。

政治の面では、幕府と朝廷が協力して国難を乗り越えようとする「公武合体」派と、天皇を中心として外国を追い払おうと考える「尊王攘夷」派の対立が強まっていきます。

これは、既存の枠組みで何とか対応しようとする考え方と、既存の枠組みすら問い直そうという考え方の違いといえます。

やがてその対立は、「クーデター」という形で主導権の奪い合いへと発展していきます。

二つのクーデター

本記事では、武力や暴力によって政権を奪った出来事を「クーデター」として整理します。

※既存の枠組み(政権構造)すらも変革する場合は「革命」として区別したり、政治だけでなく社会の大きな変革をまとめて「維新」と表現して区別する場合もあります。

対立の深まった「公武合体派」と「尊王攘夷派(後に討幕派)」は、政治の主導権を奪い合う構図になっていきます。

幕末「二つのクーデター」
幕末「二つのクーデター」

主導権争いが「武力によって決着した最初の動き」は、公武合体派からでした。

「八月十八日の政変」 ― 公武合体派が奪った主導権

政治の前提すらも議論に乗せようとし、また合議を軽視して行動を開始する尊王攘夷派(長州藩やそれに準ずる朝廷内派閥)を京都から強制排除した事件が「八月十八日の政変」です。

幕府と公武合体派の朝廷勢力(天皇の意向を背景に)を中心に、諸藩がそれに追随します。

議論の結果ではなく、武力によって対抗勢力を強制排除したこの事件は、公武合体派による「政治の主導権を奪ったクーデター」として位置付けられます。

「王政復古の大号令」 ― 討幕派が奪った主導権

政治の主導権争いは、討幕派による「王政復古の大号令」によって大きな区切りを迎えます。
大政奉還という名目だけでなく、実態として「政治の主導権」を大きく奪った宣言でした。

政治の動乱は終結し、新しい体制で政治が動き始めますが、その後も軍事衝突は戊辰戦争として続いていくことになります。(終結は明治2年)

王政復古の大号令は、八月十八日の政変と同じように、禁裏(天皇の御所)を武力によって警護しつつ行われており、討幕派による「政治の主導権を奪ったクーデター」として位置付けられます。

性質の異なる「武力」

八月十八日の政変も、王政復古の大号令も「武力を伴う政変」ではありますが、その性質は同じではありません。

八月十八日の政変は、「武装した政治勢力が、武力で政治空間を支配する」という意味で、近代的なクーデターにかなり近い構造をしており、武力は「前提」と位置付けられます。

一方で王政復古の大号令は、既に京都では討幕派が優位な状況の中で、武力は警護の名目で配置されます。会議を有利に進めるための「圧力」として機能した側面は否定できませんが、クーデターという整理においては、武力は前提ではなく「保険」と位置付けられます。


二つのクーデターの間で、何が起きていたのでしょうか。

二つのクーデターで整理する幕末

ここまでの前提を踏まえ、幕末後半の動きを「二つのクーデター」を軸に整理します。

尊攘派の排除とその反応 ― 「第一次長州征討」の流れ

八月十八日の政変によって強制排除された長州藩と尊攘派の公家たちは、政治に対する「発言権」を失うことになりました。

長州藩は失われた政治的な影響力を取り戻そうとし、武力による行動に踏み切ります。この出来事は、禁門の変(または蛤御門の変)と呼ばれます。銃撃を伴う激しい戦闘が繰り広げられ、京都の町は火事の延焼により大きな被害が出ます。

※この時点では、幕府を完全に倒すというよりも、説明するための「発言権」を求めた動きです。

禁門の変で、天皇の居所に対して発砲したことを理由に、長州藩は「朝敵」に指定されます。
「朝敵」とされたことを背景に、長州藩の征討(処罰)が行われることになります。

一度目のクーデターとその反応
一度目のクーデターとその反応

長州征討は、幕府側の軍事的優位により大きな戦闘になることなく、長州藩による「禁門の変の首謀者の処刑」をもって終結します。

二つのクーデターのほぼ中間に位置する「薩長同盟」

長州征討をもって、長州藩の処罰は完了したはずでしたが、朝敵の指定は解除されず、幕府は二度目の長州征討を計画し始めます。

幕府の方針に従い、長州征討では最前線で長州藩の降伏を受け入れた薩摩藩は、幕府の方針に次第に距離を置くようになります。

薩摩藩は、条件付きで長州藩と軍事的な協調を約束する同盟を結ぶことになります。(薩長同盟

二度目の処罰が生む離反 ― 「第二次長州征討」の顛末

進められた二度目の長州征討は、実行に移されることになります。また、幕府は並行して停滞気味だった政治も進めていきますが、こうした一連の動きは、薩摩藩の幕府に対する不信をさらに強めていきます。

薩長同盟は、薩摩と長州の連携を現実の行動へと結びつける役割を果たし、薩摩藩は幕府への協力を控え、長州藩との連携を強めていきます。

二度目のクーデターが起こるまで
二度目のクーデターが起こるまで

征討においては、圧倒的劣勢だった長州藩は高い士気で奮戦し、幕府の先陣や周辺の幕府勢力を圧倒します。劣勢となった幕府は、政治的な主導権を維持するために大政奉還を行います。

主導権の実態はなお流動的なままでしたが、政治は進められ続けました。(兵庫開港など)

こういった状況の中、薩摩・長州などの諸藩が御所を軍で固め、名実ともに天皇親政とするための「王政復古の大号令」が出されます。ここで、江戸幕府や将軍職は正式に廃止されました。


二つのクーデターを軸にすると、幕末は以下のように整理できます。

二つのクーデターで整理する幕末
二つのクーデターで整理する幕末

奪い合われた「主導権」

幕末には、本記事で取り上げた以外にも様々な事件が起こっています。

ただ、「幕末って結局何がどうなったの?」 という疑問に対しては、大きな枠組みでの整理・理解が役に立ちます。

今回の整理では、その中核に「主導権の奪い合い」が見えてきます。

軍を動かし、軍に敗れる、江戸幕府

主導権を奪うために軍を動かした「公武合体派」は、結果として新たな反発を生み出します。

その後の処罰や対立の積み重ねの中で軍事的優位を失い、やがて「討幕派」に主導権を奪われていきました。

「権威を守る行動が、皮肉にも権威の失墜に繋がることがある」という事例で、これは日本に限らず、歴史の中で権威が揺らぐ場面にしばしば見られる構造でもあります。


流れと構造を整理してみると、改めて疑問に感じるところが出てくるものでしょう。
ここではその代表的なものを簡単にまとめてみます。

なぜ幕府は「武力で」尊攘派を排除したのか

尊王攘夷派と公武合体派は、一応は議論の余地もありましたが、八月十八日の政変では、武力(軍)を伴った強制排除が行われました。

なぜ話し合いで解決しなかったのでしょうか。

その背景には、時間的制約や尊王攘夷派の動きなどが関係しています。

なぜ幕府は二度目の処罰を行ったのか

一回目の長州征討で、禁門の変の処罰は完了していたはずでした。それなのに幕府は二度目の処罰(第二次長州征討)を実行に移しました。

なぜ同じ件で二回も処罰が実行されたのでしょう。

その背景には、幕府の権威回復などの思惑もありました。

なぜそもそも井伊直弼は暗殺されたのか

井伊直弼が暗殺されるまでも国内は揺れていましたが、少なくとも幕末後半のような組織的な軍事行動はまだ表面化していませんでした。

そもそもなぜ井伊直弼は暗殺されてしまったのでしょうか。

その背景には、江戸時代後期の思想が影響しています。

単純化が生む誤解と視点

本記事は、流れ構造を掴むことを目的として、単純化が行われています。

実際の歴史はより複雑で、単純な因果関係として説明できるものではありません。
その一方で、歴史全体を網羅して把握することも容易ではありません。

単純化は精密な再現ではありませんが、全体像を捉える上では有効な手法です。その理解は、深い探求をする際の地図のように機能し、新たな問いや視点を提供してくれるでしょう。

本記事が、幕末史を理解するための「入口」となり、その先を探るための「地図」として機能すれば幸いです。