💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。
江戸時代の儒学は、朱子学を中心に体系化されていきました。
その中で、古典は一定の解釈のもとで理解されるようになります。
(なお、ここでいう「古典」とは、『論語』や『孟子』といった儒学の原典を指しています。)
しかしそうした解釈の積み重ねは、やがて「それは本当に古典の意図に沿ったものなのか」という疑問も生み出しました。
伊藤仁斎の古義学は、朱子学の解釈を離れ、古典の言葉に立ち返ることで倫理を捉え直そうとした学問でした。
本記事では、徂徠学や国学にも通じる古典回帰の潮流を、古義学を手がかりにその流れの中で確認します。
古義学とは何か ― 朱子学の解釈を問い直す学問
ここではまず、古義学とはどういった学問なのか、その基本的な立場を整理します。
古義学の特徴 ― 「古典の言葉」に立ち返る
古義学の出発点は、「古典は何を語っているのか」という極めて素朴な問いにあります。
当時の朱子学は、宇宙や人間を「理」という概念で体系的に説明しようとする学問でした。
それは整然としており、社会秩序の基盤としても有効に機能していましたが、その一方で、古典の言葉そのものからは離れていく側面も持っていました。
これに対し古義学は、
論語や孟子といった原典の言葉に直接向き合うことを重視
します。
後世(朱子学)の解釈を一度取り払い、「言葉そのものが何を意味しているのか」を捉え直そうとしたのです。
古義学とは、古典の意味を再構築するのではなく、「本来の意味に立ち返る」ための学問でした。
なぜ解釈が問題になったのか ― 朱子学との違い
では、なぜ解釈そのものが問題となったのでしょうか。
朱子学は、「理」という普遍的な原理を軸に、人間や社会を説明しようとしました。
この枠組みは非常に強力で、道徳や秩序を一貫して説明できるという利点を持っていました。
しかしその反面、現実の人間の振る舞いや感情とは乖離して見える場面もあります。
人は必ずしも理屈通りに行動するわけではなく、状況や感情に左右される存在です。
朱子学では、原典に注釈がつけられた『四書集注』などの書を用いて学ばれていました。
伊藤仁斎は、こうした注釈の積み重ねが、かえって原典の意味を見えにくくしていると捉えました。
💡関連記事:四書五経と四書集注 ― 問われる朱子学の解釈と原典の読み方
古義学は、このズレに着目しました。
理論として整っているかどうかではなく、「古典が語っている人間像」と一致しているかどうかを問題にしたのです。
補足:朱子学における「理」とは何か
朱子学における「理」とは、万物に共通する普遍的な原理を指します。人間の心や社会秩序も、この理に基づいて説明されると考えられていました。
伊藤仁斎とは何者か ― 京都の町人学者の問題意識
こうした古義学を提唱したのが、
京都の町人学者である伊藤仁斎(いとう じんさい:1627年 - 1705年)です。
彼の立場と問題意識を理解することで、古義学の性格がより明確になります。
京都という環境 ― 現実の人間関係との接点
仁斎が生きた京都は、商人や職人が集まる都市であり、日々の生活の中で多様な人間関係が交錯する場所でした。
そこでは、身分秩序だけでは割り切れない現実が広がっています。
利害関係や感情が絡み合い、人は必ずしも理想通りには行動しません。
こうした環境の中で、仁斎は「現実の人間」を見ていました。
それは、理論で説明される存在ではなく、揺れ動く感情を持った存在です。
江戸初期の京都には、自由な思想が広がりやすい環境がありました。
同じ時代、垂加神道による神道を朱子学的に解釈する試みや、国学の原点ともいえる古典の注釈整理などが行われていました。
💡関連記事:垂加神道とは何か ― 朱子学と神道を結びつけた江戸前期の思想
💡関連記事:江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか
なぜ朱子学に違和感を持ったのか
朱子学は、理を理解し、それに従うことで人間は正しく行動できると考えます。
しかし仁斎の目には、この考え方が現実の人間とかけ離れているように映りました。
人は正しいと分かっていても、その通りに行動できるとは限りません。
状況や感情によって判断は揺れ動きます。
このズレが、仁斎にとっての違和感でした。
そしてその違和感は、「理論が間違っているのではなく、解釈がずれているのではないか」という問いへと繋がっていきます。
補足:同じ問いから別の答えへ ― 中江藤樹との違い
伊藤仁斎と同じ時代、地理的にも近い位置(近江の国:現在の滋賀県西部)で、中江藤樹(なかえ とうじゅ:1608年 - 1648年)は同じように朱子学へ違和感を感じます。
藤樹は人の内面(心)に答えを求めましたが、仁斎は古典の言葉に立ち返る道を選びました。
中江藤樹は、朱子学とは異なる立場をとる儒学である『陽明学』に注目しました。
陽明学では、心の正しさを行動によって発揮することが重要と考えられました。
💡関連記事:江戸中期の陽明学 ― なぜ社会は良くならないのか
古義学の思想 ― 人間関係から倫理を捉え直す
仁斎の問題意識は、古義学という形で具体化されます。
ここではその思想の中身を見ていきます。
言葉への回帰 ― 古典は何を語っているのか
古義学の中心には、「言葉をそのまま読む」という姿勢があります。
論語や孟子は、抽象的な理論書ではなく、人間同士のやり取りや具体的な場面の中で語られた言葉の集積です。
仁斎は、そこにこそ本来の儒学の姿があると考えました。
したがって、
重要なのは理論の整合性ではなく、言葉の意味そのもの
です。
後世の解釈を重ねるのではなく、一度それを取り払い、言葉が指し示す人間像を捉え直すことが目指されました。
人間理解の転換 ― 理ではなく「情」へ
この言葉への回帰は、人間理解の転換をもたらします。
朱子学が理を中心に人間を捉えたのに対し、仁斎は人間を「情(感情)」を持つ存在として理解しました。
人間は関係の中で生き、そこで喜びや怒りといった感情を抱きながら行動します。
倫理とは、そのような関係の中で現れるものです。
理論として外から与えられるものではなく、人間の営みの中で形作られていくものとして捉えられました。
五倫の再解釈 ― 「朋友」に見える対等な関係
この人間理解は、五倫の捉え方にも現れます。
五倫には君臣・父子・夫婦・長幼・朋友といった関係が含まれますが、この中で唯一対等な関係であるのが「朋友」です。
五倫の『長幼』では、年長者は「敬うべきひとつの立場」として位置付けられました。
💡関連記事:なぜ年長者を敬うのか ― 朱子学における五倫と長幼の序
仁斎は、この朋友関係に注目します。
それは制度や身分によらず、人と人が向き合う関係であり、そこに人間の自然な姿が表れるからです。
ただし、朋友だけを特別視したわけではありません。
むしろすべての関係を、人と人の関係として捉え直そうとした結果、朋友がその典型として浮かび上がったと考えられます。
現代の人間関係との違い
朋友を基盤に人間関係を捉える仁斎の発想は、対等な関係の上に社会的役割が重なる現代の感覚にも通じるように見えます。
しかしそれは、完全に同じものではありません。現代では、個人を起点として人間関係を考えますが、仁斎は人と人との関係そのものを出発点とするものでした。
- (現代)個人 → 関係 → 社会
- (仁斎)関係 → 人間 → 社会
補足:朋友はなぜ重要なのか
朋友は上下関係に依らない関係であるため、感情や信頼といった要素が直接現れます。
そのため、人間理解のモデルとして機能しやすい関係でもあります。
江戸思想史の中の古義学 ― 徂徠学・国学との関係
古義学の古典回帰の動きは、やがて他の学問的探求にも影響を与えます。

人間理解としての「古義学」
古義学は、人間のあり方や倫理の理解において精緻な思想を提示しました。
それは、人と人との関係の中から道徳を捉え直す試みとして、高い完成度を持っています。
一方で、その関心は主として人間理解に向けられており、社会全体の仕組みや制度のあり方を直接論じるものではありませんでした。
古典から制度を導く「徂徠学」
荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、伊藤仁斎の少し後の時代の人物です。
- 伊藤仁斎:1627年 - 1705年
- 荻生徂徠:1666年 - 1728年
徂徠は、幕府に仕える儒学者として、道徳だけでは社会は治まらないと考えました。
人間の内面ではなく、社会を動かす仕組みである制度を正しく整えることが必要と考え、古典にその答えを求めます。
古義学が解釈を問い直したのに対し、徂徠学は社会の構造そのものを問い直します。
このようにして、議論の焦点は「道徳の理解」から「社会の運営」へと移っていきました。
伊藤仁斎から荻生徂徠の、この古典回帰の学問的潮流は「古学」と呼ばれます。
徂徠は古典を文献学的に分析し、言語資料として読むことで、正しい制度を導こうとします。
💡関連記事:徂徠学(そらいがく)とは何か ― 道徳だけで社会は治まるのか
古学の中での位置 ― 徂徠との対比
古義学と徂徠の学問は、いずれも古典への回帰を掲げていますが、その内容は大きく異なります。
古義学は言葉の意味に立ち返り、人間理解を深めました。
一方で徂徠は、古典を制度の記録として読み、社会の仕組みを再構築しようとしました。
| 視点 | 伊藤仁斎 | 荻生徂徠 |
|---|---|---|
| 問題意識 | 人間から離れている | 政治から離れている |
| 古典の意味 | 人間の心情の表現 | 古代制度の記録 |
| 重視するもの | 感情・日常倫理 | 制度・政治 |
| 朱子学批判 | 難解・非人間的 | 非現実的・非政治的 |
| 方向性 | 人間へ戻る | 国家へ戻る |
この対比からも、同じ「古学」であっても、その方向性が異なることが分かります。
朱子学批判がもたらした多様化
荻生徂徠による朱子学への批判は、伊藤仁斎よりも強い主張でした。
これには、幕府の「朱子学の扱い」が変化した時代背景も関係しています。
徂徠の時期には、朱子学は教育制度とも結びつき、正当な学問としてその位置が明確化します。
💡関連記事:なぜ江戸幕府は朱子学を採用したのか ― 導入から制度化までの流れ
朱子学を絶対視しない視座が示されたことで、江戸時代中期以降の学問・思想は、より多様化していくことになります。
国学へも繋がる古典回帰の潮流
伊藤仁斎や荻生徂徠は、朱子学の解釈を批判し、『論語』や『孟子』といった儒学の原典(中国古典)を読み直しました。
その古典回帰の潮流は、やがて中国の古典にとどまらず、日本の古典へと関心を広げていきます。
こうした流れの中で、古典を原典から読み直そうとする姿勢は、国学においても共有されていきました。国学では、日本の古典が改めて読み直され、その意味が再解釈されていきます。
本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。
江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。
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