氷の入ったグラスに立ちのぼる泡、黄金色の液体──いまや日本の夏には欠かせないビールですが、この飲み物が日本に最初にやってきたのは、意外にも幕末、あの「黒船来航」のときでした。
1853年、浦賀沖に姿を現したペリー提督の艦隊。幕府への贈答品の中には、見慣れない瓶詰めの飲料がありました。それが、日本人が初めて目にし、口にしたビールだったのです。
当時はのどを潤す爽快な飲み物というより、「苦くて薬のよう」と感じられたと伝えられています。それでも、そこから始まった日本のビール物語は、やがて明治の文明開化、そして現代のクラフトビールへと続いていきます。
黒船とビールの出会い
1853年6月、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊を率いるペリー提督が浦賀に来航しました。
開国を迫る交渉の一環として、幕府高官への贈り物が手渡され、その中にワインやウイスキーに混じって、琥珀色に輝く瓶詰めのビールがあったとされています。
当時の日本では発泡酒という概念はなく、口にした役人たちはその苦味と香りに大変驚きました。ビールは欧米ではすでに広く飲まれていましたが、日本では未知の西洋飲料であり、健康飲料や薬酒のように扱われたのです。
黒船とともにやってきたこの一杯が、日本人とビールとの最初の出会いでした。

幕府高官に贈られたビールは、当時の人々にとって衝撃的な味でした。
開港地と外国人醸造家
1859年の開港後、横浜や長崎の外国人居留地にはビールが輸入されるようになりました。
しかし輸送には時間がかかり、船旅の間に風味が落ちることも多かったため、横浜居留地のノルウェー系アメリカ人、ウィリアム・コープランドが自ら醸造所を設立しました。1869年、山手に「スプリング・バレー・ブルワリー」が誕生します。
当時は上面発酵のエールが主流で、香り高く濃厚でしたが、保存性には限界がありました。ビールはまだ高級品で、主に外国人や上流階級が楽しむ飲み物だったのです。

ビール醸造は外国人向けの小規模なビジネスから始まりました。
ドイツ式ラガーの衝撃
1870年代、日本政府は北海道開拓を進める中で、寒冷地農業と醸造技術を持つドイツ人技師、ルイス・ベーマーを招聘しました。彼が札幌で指導したのが、低温発酵のラガービールです。酵母が底で発酵し、長期間低温で熟成させることで、すっきりとした味わいと高い保存性を実現しました。
1876年、札幌に「開拓使麦酒醸造所」が設立され、日本初の本格的ドイツ式ビールが誕生します。これが現在のサッポロビールの起源となりました。
以後、大阪麦酒(後のアサヒ)、日本麦酒(ヱビス)など、ドイツ式ラガーを採用する醸造所が全国に広がり、日本のビールの標準となっていきました。

ドイツ式ラガー製法が日本のビールの基盤となりました。
ビール文化の定着と変化
1899年、東京・銀座に日本初のビアホール「恵比寿ビヤホール」(現在の銀座ライオン)が開店しました。ビールは洋食とともに楽しむ都会的な飲み物として広がっていきます。
1906年には日本麦酒・大阪麦酒・札幌麦酒の3社が合併し、大日本麦酒株式会社が誕生しました。
大量生産と全国流通が可能となり、ビールは庶民にも手の届く存在になったのです。
ドイツに様々な事を学んで近代化した日本は、第一次世界大戦で敵味方となってしまいます。興味のある方は、詳しい経緯や当時の人々の思いについてまとめた以下の記事も、是非ご覧ください。
第一次世界大戦期には、板東捕虜収容所(徳島県)などでドイツ人捕虜が地元住民と交流し、ビール醸造やパン、音楽などの文化を伝えました。

文明開化の象徴として多くの人々が集まりました。
戦後から現代クラフトビールへ
太平洋戦争期、物資不足のためビールは低アルコール化し、代用原料が使われることもありました。
戦後の復興期には大日本麦酒が分割され、アサヒビールとサッポロビールが誕生します。高度経済成長期にはキリンも加わり、「ラガー一強」の時代が続きました。
札幌ビール株式会社とサッポロビール株式会社
明治時代に生まれた「札幌ビール」と、戦後に生まれた「サッポロビール」について、少しわかりにくいので以下に流れを整理してみます。
- 1876(明治9)年
札幌に「開拓使麦酒醸造所」が完成。明治政府の直営でしたが、1886年に民間へ払い下げられ、その後も「札幌ビール株式会社」として存続。 - 1906(明治39)年
当時のビール大手3社(札幌・大阪・日本麦酒)が合併し、「大日本麦酒株式会社」が誕生
この時点で「札幌ビール」というブランドは、他ブランド(エビス・アサヒ)と同じ会社の傘下に。 - 戦時中
大日本麦酒のまま生産。 - 戦後の1949(昭和24)年
独占禁止法により大日本麦酒がアサヒビール株式会社と日本麦酒株式会社(後のサッポロビール)に分割。日本麦酒が、かつての札幌ブランドを復活させ、1970年に社名を「サッポロビール株式会社」に変更。
酒税法改正で多様化するビール文化
転機は1994年です。酒税法改正により、小規模醸造所によるビール製造が解禁され、全国でクラフトビールブームが起こりました。ペールエールやIPA、スタウトなど、多様なスタイルが日本に根付いていきます。
ペリー来航から150年以上、日本のビールは世界の潮流と交わりながら進化を続けているのです。

ペリー来航から始まった物語は今も続いています。
年表:日本ビール史の流れ
年 | 出来事 |
---|---|
1853年 | ペリー提督が浦賀来航。幕府への贈り物にビールが含まれる |
1859年 | 横浜・長崎開港、外国人居留地にビール輸入開始 |
1869年 | 横浜山手に「スプリング・バレー・ブルワリー」創業(コープランド) |
1876年 | 札幌に「開拓使麦酒醸造所」設立、ドイツ式ラガー生産開始 |
1899年 | 東京・銀座に日本初のビアホール開店 |
1906年 | 大日本麦酒株式会社設立(札幌・ヱビス・アサヒの前身合併) |
1914〜18年 | 第一次世界大戦、ドイツ人捕虜が日本各地で醸造技術を紹介 |
1949年 | 大日本麦酒が分割、アサヒとサッポロ誕生 |
1994年 | 酒税法改正、小規模ブルワリー解禁、クラフトビール時代へ |
まとめ - 身近にある「歴史」
日本のビール文化は、幕末の黒船が運んだ一本の瓶から始まりました。
そこにドイツ式醸造技術が加わり、明治の産業化、戦後の復興、そして現代の多様化へとつながっています。
グラスの中で立ちのぼる泡は、ただの炭酸ではありません。
それは150年を超える時間と、人々の交流と、技術の結晶なのです。
次にビールを口にするとき、その一口に秘められた長い航海の物語を思い出してみてください。