「本居宣長」と聞くと、「義務教育時代に聞いたことがあるかも」という認識の人は多いのではないでしょうか。私の場合は、「本居宣長 = 古事記伝」という記号的な記憶が残っている程度でした。普通に生活している中では、見かけることの少ない人名ですが、彼の偉大な功績は現代にまで強く影響していて、とても興味深いものがあります。
特に近年は「貧しい国日本」になりつつあり、国民の生活は困窮し、治安は悪化し続けています。江戸時代中期から末期は、国内の経済状況の悪化や外国人による治安の悪化などに苦しめられており、現代と通じる部分が多くあるように感じます。そんな時代に盛んとなった国学は、「本来の日本」を考え、「日本人はどうするべきなのか」を追求した学問でもあります。本居宣長や国学を学ぶことは、現代の日本人にこそ必要なことなのかもしれません。
今回の記事では、本居宣長から先の大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)に繋げて紹介をしています。彼の名誉に泥を塗ったり批判しようという意図があるわけではないことをあらかじめお伝えしておきます。歴史の中では、時に一人の人間の研究、一人の思想が後に大きなうねりとなって世界的な悲劇を招くこともある、という事例として以下にまとめています。是非「こういった見方もできる」という程度にご覧ください。
国学 – 本居宣長が研究していた学問
本居宣長は、江戸時代中期の人です。時代的には江戸幕府の政治体制が緩み始めて、国民の生活が苦しくなっていっている、という状況だったようです。当時国民が貧困などで苦しんでいることから、本居宣長は「昔の日本は華やかで豊かだった」と考えるようになり、古い日本について研究を進め、こういった学問を「国学」といいます。
本居宣長は国学分野では国学の四大人()と呼ばれるほどに、学問の発展に貢献した人とされています。この国学は後に水戸地方で更に発展して「水戸学」と呼ばれるようになり、有名な「尊王攘夷」という言葉はこの水戸藩で生まれます。
本居宣長は「豊かだった昔の日本」を研究するにあたって、まずは万葉集や源氏物語といった平安時代の歌や物語の研究を進め、その後長い時間をかけて古事記の研究をしていきます。
江戸時代には既に解析不能な文書になってしまっていた古事記を彼が解読したことにより、私たちは古事記の内容を今現代知ることができています。古事記を読んだことがない人でも、古事記に登場する「スサノオノミコトや月読といった神様の名前を耳にしたことはある」といった人はいるでしょう。
この解読された古事記は私たち日本人が思っている以上に存在価値は高く、世界的にも「日本は唯一の創世神話を持って、現在まで続いている国家」として、驚くほど高い評価をされています。
儒教の危険性と「もののあはれ」
現代を生きる日本人は、世界的に「無宗教」の国民として知られています。クリスマスを祝い、葬式は仏教式で行う宗教観は、世界的にみるとかなり特殊で理解されにくいようです。私たち日本人はクリスマスのパーティーや、年始の初詣のようなイベントを特に宗教行事として認識しておらず、国民自身も無宗教だと思っていることでしょう。
しかし、日本人の根的にあるのは間違いなく儒教思想です。これは江戸時代に奨励された考え方で、元は宗教ですが学問として広められた経緯を持ちます。儒教の影響もあって、日本人は「勤勉な国民性」と評価されることもあります。儒教の教えの根本は、勉学に励み年長者を敬い、出世して成功することが正しい事とされており、現代の受験戦争や出世競争といった形となって表れています。この現象は、儒教思想の強い韓国や日本などで顕著にみられます。中国で儒教は仏教・道教と並んで三大宗教に数えられており、国全体で大規模な受験戦争があることで知られています。
本居宣長は「儒教を危険な物」として警鐘を鳴らした人物として知られています。儒教は「欲を抑制する」考え方が正しいとしますが、本居宣長は「利欲を含めた自然な感情」が大事と説いています。
江戸時代中期、国民の生活が苦しくなり、人々が息が詰まるような日々を過ごしている根本の原因は、外来からの仏教や儒教に問題があるのだと断定し、批判をしています。本居宣長は、儒教の最も恐ろしいことは「信じている人が宗教だと認識しない事」であるとしていました。現代の日本人は正にその状態であると言えるでしょう。
儒教を宗教だと認識しないことが「良い事」なのか「悪い事」なのかは意見が分かれるところでしょう。本居宣長は危険であると判断したようですが、少なくとも近代の日本において、儒教の教えがポジティブに働いた面があるようには思います。「働いて出世していい暮らしを目指す」のが当たり前という考え方があったからこそ、昭和の高度経済成長が起きたという側面があると感じるからです。大事なのは、その考え方・倫理観が「儒教の教え」に他ならず、絶対の真理ではないことを知っておくことだと思うのです。
本居宣長は、儒教・仏教の教育は、支配者に都合が良い国民にするためのものだと指摘し、批判しています。「もののあはれ」というのは、本居宣長が主張した独自の考え方で、日本固有の情緒として定義付けされています。儒教のような歪な考え方ではなく、人間の本質的で自然な精神を大事にするべきと説いたのです。
本居宣長の主張は、現代人である私にとっては「儒教以上に宗教的」だと感じますが、日本古来の豊かさを何とか取り戻したいと考えていたことは伝わります。中国で儒教に対抗するような考え方を持った道教が広まったように、日本では「儒教を否定する考え方の一つ」として国学は受け入れられたのかもしれません。出世するだけが人生ではない、という生き方を示したという点では道教に通じるところもありますが、天照大御神のような「超常的な存在」を引き合いに出していることから、宗教色が強いと感じます。現代でいうところの「昭和世代とZ世代の考え方の違い」に似ているとも感じます。
尊王攘夷論 – 本居宣長の死後に強まる革命の気運
本居宣長は、古事記伝をまとめ上げた後1801年に亡くなります。彼が亡くなって50年くらいしたころに、日本に大きな出来事が起こります。「ペリー来航(1853年)」です。ペリーについては別途以下の記事でも紹介していますので、興味のある方は是非ご覧ください。
強大な軍事力を背景にした威圧外交の前に弱腰な対応をする幕府は、外国に優位な国家間の約束事であるいわゆる「不平等条約」を、アメリカを始めとした欧米列強との間に次々と結んでしまいます。当時の日本国民の間では、諸外国を追い払うべきだという「攘夷思想」が強くなっていきます。そして、従来の日本のように幕府の代わりに「天皇陛下」に日本を治めてもらおうとする「尊王思想」が合わさり、広く「尊王攘夷」が叫ばれるようになりました。
そんな状況の中、天皇陛下の強い要望もあって幕府も攘夷を承諾し、その後長州藩や薩摩藩はイギリスと実際に武力衝突します。本来なら日本とイギリスの戦争のはずですが、いずれも下関での戦争(下関戦争)、薩摩藩とイギリスの戦争(薩英戦争)と、日本の一地方が個別に他国と武力衝突しているという有様で、「日本は国家として機能していたのか」と疑問に思う程です。この事件の後、薩摩も長州も急速に「倒幕思想」に傾倒し、イギリスから最新の武器などを調達して行動に移していくのです。
外国に追い詰められたとき「本来の日本とは何か」と国民が考え、その時に既に解読された「古事記」があった。その本の中には、天皇陛下が私たち日本人を導いてくれた歴史が記されていた。
「尊王攘夷」というと、江戸時代の思想として知られていて難しく感じますが、現代でいうところの「右派の一種」とも捉えられます。幕府や外国勢力のような新しいものを排除し、日本古来の天皇中心の政治の戻すという意味では、日本全体としては「保守的な思想」とも取れます。現代でいうところのリベラルな政党による移民政策などに反発して、保守政党が台頭してくるといった動きに近いと考えられます。
単純な事ですが、弱った国民にとって「創世神話の威力」は絶大だったということでしょう。正にこれこそが人を導く宗教であり、人に勇気を与える宗教の強さともいえるのかもしれません。現代の私たちの時代ではこの宗教を「国家神道」と呼んでいて、日本が戦争に向かった一因のように評価されることが多いように思います。
本居宣長が古事記を解読していなければ、国家神道は生まれていなかったかもしれませんが、その場合日本という国はどうなってしまっていたのでしょうか。彼の功績は良かったことなのか、悪かったことなのか、それは誰が決められるのでしょうか。
尊王攘夷思想によって、最終的には「国家転覆」つまり「軍事革命」が引き起こされたことになりますが、彼らは単純に「日本を守りたい」という純粋な思いが原動力になっています。勝てば官軍なので、この一連の動きは現代では「美談」のように語られることが多いですが、国家反逆には違いないでしょう。現代でもこの国家反逆を受け入れられているのは、「天皇を担いだことで大義名分を得られた」ことが大きな要因でもあるでしょう。
富国強兵 – 不平等条約解消を目指して
薩摩と長州の「国学 – 尊王攘夷 – 倒幕」思想に基づく革命は見事に成し遂げられ、この軍事革命からの一連の改革は、私たちの時代では「明治維新(1868年)」と呼ばれています。
明治新政府が行った改革は多岐にわたっていて、とてもすべて紹介することはできません。ここでは本居宣長の思想を受け継ぐ「尊王攘夷」がどのように影響していったのかを見ていってみます。
明治新政府の課題の一つに、「江戸幕府の負債 – 不平等条約の解消」があります。そのために彼らが打ち出したのが「富国強兵」という考え方です。
「富国強兵」は文字のままですが、「国を富ませて強い兵を準備する」ということです。欧米列強が強大な軍事力を背景に高圧的な外交を迫ってくるため、それを跳ね返すだけの軍事力を早急に持たなければならなかったのです。江戸時代に「各地方個別に攘夷」を叫んでいたのを、今度は「国をあげた攘夷」を実践していく流れと言えるでしょう。
征韓論 – 日本も欧米列強に習って帝国主義へ
「征韓論」は、お隣の朝鮮(韓国)を征服しようという思想です。
この思想については日本国内でも色々な意見があるとは思いますが、江戸時代に「日本が受けた圧迫外交を、日本が朝鮮に対して行った」とみて差し支えないかと思います。好意的に解釈すれば「朝鮮を清の支配から解放して対等な国家へ」となりますが、逆に「欧米に習って日本も植民地獲得を」とも受け取れます。この思想は、結局朝鮮の宗主国である清の不興を買い、最終的には本格的な戦争(日清戦争 : 1894年)へと発展してしまいます。
富国強兵策は諸外国を追い出すための軍事力強化だったのですが、欧米列強に追いつくには軍事力だけではなく「植民地を活用した経済力」も必要だったと思われます。現に、富国強兵政策を進めても欧米列強との不平等条約は解消されておらず、日米間の不平等条約改正は日清戦争(1894年)より後、明治も終わり頃の1911年(明治44年)です。
またまた余談ではありますが、「朝鮮」という名称は「朝の鮮」で、「朝」は中国・清王朝のことで「鮮」は子分・貢国(こうこく)であることを意味します。意味を知ってしまうと、国の名前として「朝鮮」と呼ぶことに少し抵抗を感じてしまいますが、もしかしたら「朝貢国としての誇り」というものがこの世にはあるのかもしれません。ちなみに、同国の英語名Koreaは、朝鮮半島を統一した国である高麗(こうらい)に由来されているそうです。
長い戦争の歴史が始まる
日本は日清戦争に勝利することで、初めての植民地の獲得や多額の賠償金を得ることになりました。しかし、この後は戦争の結果がまた戦争を呼び、その影響で新たな事件・紛争が起きて戦争状態に突入といった負の連鎖をはじめていきます。
敗戦濃厚になった日本兵が「天皇陛下万歳」と叫んで捨て身の攻撃を行っていたことは、現代では日本だけでなく諸外国にまで知れ渡っています。江戸時代に「尊王攘夷」と叫び、天皇陛下を中心にして日本を守ろうという思想だったはずなのに、いつの間にか「尊王」は「現人神を崇拝」するまでに至り、「攘夷」はアメリカやイギリスを「鬼畜米英」と憎み、蔑むほどになってしまいました。
国学が日本を戦争へと導いた思想の根源のように表現していますが、本居宣長の描いた理想の日本とはかけ離れていることには留意が必要です。本居宣長は「仏教・儒教」といった外来の宗教の教育を止めるべきだという考えで、明治政府の教育の大方針である「教育勅語は儒教の結晶」と言えるほど儒教色の強いものでした。自己犠牲をいとわず国家のために尽くす考えの根源はこの教育勅語にありますが、国学もまたGHQによって禁止され、私たちが受けた戦後教育からは消えてしまいます。
今後の日本はどうするべきか
本居宣長が古事記を解読していなければ、「尊王攘夷」という言葉や思想は生まれなかったかもしれません。「尊王攘夷」思想がなければ日本はどうなっていたのでしょうか。もしかしたら、日本は他のアジア諸国と同じように欧米列強の植民地とされてしまっていたのかもしれません。
今回は、一人の人間が「日本はどうするべきなのか」と疑問を持ったことで、その後の歴史に大きな影響を与えるまでに至ったという興味深いお話でした。最近の日本の政治や経済の話題は暗いものが多く、世界情勢は戦争も起こっていて非常に不安定な状況が続いています。私たちも本居宣長のように、「本来の日本の姿」を古事記に求めるべきなのでしょうか。
今はインターネットの普及で情報が気軽に手に入る時代でもあり、興味がある方は是非本居宣長や国学など調べてみてください。