なぜ追加で不平等条約を締結したのか ― 国際社会と向き合った日本

なぜ追加で不平等条約を締結したのか 歴史

教科書で必ず学ぶ「不平等条約」といえば、安政5年(1858)の日米修好通商条約です。日本が外国に開かれ、不平等な立場を強いられた象徴として語られることが多いでしょう。

しかし実際には、それで終わりではありません。
日本はその後も欧米の国々と同じような条約を次々に結んでいます。

なぜ日本は追加で不平等条約を締結していったのでしょうか?

本記事では、江戸時代から明治時代にかけて日本が締結した修好通商条約(不平等条約)を整理し、日本がどのように国際社会と向き合っていったのかを確認します。

不平等条約とは

幕末の日本が初めて「不平等条約」を結んだのはアメリカとの間でした。

不平等条約の主な内容

1858年、幕府はアメリカと修好通商条約を締結します。
この条約には二つの大きな制約がありました。

  • 領事裁判権(治外法権)
    日本で犯罪を犯したアメリカ人は、日本の法律ではなくアメリカ領事の裁判を受ける。
  • 関税自主権の欠如
    日本は独自に関税を決められず、相手国と協議して決める必要があった。

これにより日本は主権を大きく制限され、幕府の威信は大きく揺らぎました。

ここから「不平等条約時代」が始まったのです。

あまり知られていませんが、不平等条約には宗教に関する条項も設けられています。
条約によって、日本に禁止されていたキリスト教の教会が建設されるようになります。
💡関連記事:キリスト教禁教の崩壊序章 ― ペリー来航と不平等条約の宗教条項

江戸時代の不平等条約

アメリカとだけ特別な約束を結んでしまうと、他国が不利になります。
そこで欧米列強は次々と同じ条件を日本に求めました。

最初に締結した国(5か国)

年(西暦/和暦)相手国条約名 / 内容備考
1858(安政5)アメリカ日米修好通商条約治外法権・関税自主権の制限。
不平等条約の典型。
オランダ日蘭修好通商条約
ロシア日露修好通商条約
イギリス日英修好通商条約
フランス日仏修好通商条約
安政の五か国条約

この五か国との間に結ばれた条約は、安政の時代に結ばれたことから「安政の五か国条約」という総称で呼ばれます。いずれも内容は日米修好通商条約とほぼ同一で、不平等条約の典型とされています。

列強同士が競い合う国際社会の中で、特定の国だけが突出しないように、日本に対しても外交関係の足並みをそろえる必要がありました。

こうして日本は「欧米列強と対等な関係」ではなく、「列強が横並びで権益を確保するネットワーク」に巻き込まれる形となりました。

江戸時代の友好国「オランダ」との関係

オランダは、鎖国をしていた江戸時代にも交流を続けた、ヨーロッパ唯一の国です。

しかし、アメリカと不平等条約を締結すると、そのオランダとも不平等条約を締結することになりました。列強国同士の政治的な事情によって、“鎖国時代からの特別な友好国”だったオランダとも、結局は不平等条約を結ばざるを得ませんでした。

ペリー来航前には、オランダから欧米列強国の動きに関する情報提供も行われていました。
💡関連記事:なぜオランダだけ?江戸時代の鎖国と日蘭関係の歴史

江戸幕府が追加で締結した国(6か国)

安政の五か国条約を締結した後も、江戸幕府は同じ内容をほぼ踏襲した条約を追加で結んでいます。

年(西暦)相手国条約名 / 内容備考
1860ポルトガル日葡修好通商条約約220年ぶりの国交回復
1861プロイセン日普修好通商条約
1864スイス日瑞修好通商条約
1866ベルギー日白修好通商航海条約
1866イタリア日伊修好通商条約
1867デンマーク日丁修好通商航海条約幕府最後の修好通商航海条約
江戸時代に追加で締結した不平等条約(追加6ヶ国)

つまり、

江戸時代に締結された修好通商条約(不平等条約)は、実質的には11か国

ということになります。

ポルトガル・スペインと日本の関係

ポルトガルとスペインは、江戸幕府初期の禁教政策・来航禁止によって、事実上の外交・通商関係断絶状態になっていました。

用語年代内容備考
スペイン船来航禁止1623年スペイン船の来航・通商を禁止スペインとの関係断絶へ
ポルトガル船来航禁止1639年ポルトガル船の来航・通商を禁止ポルトガルとの関係断絶へ
マカオ使節団事件1640年通商再開を求めたポルトガル使節団の多くが処刑される断交方針を示す強い対応
スペインとポルトガルに関する江戸幕府の動き

その後、幕末から明治初期にかけて修好通商条約が結ばれ、両国との正式な外交関係が再び開かれていきます。

江戸幕府初期の禁教政策は苛烈でした。追放令後に日本に訪れたポルトガルの使節団は、乗組員のほとんどが幕府によって処刑されました。(マカオ使節団事件)
💡関連記事:江戸幕府初期のキリスト教禁止の実態 ― 秀忠と殉教の時代

さらに増える不平等条約 ― 明治時代の追加締結

明治維新を迎えた新政府も、国際関係を広げるために多くの国と条約を結びました。しかしその中身はやはり「不平等条約」でした。

明治政府が追加で締結した国(4か国)

幕末の五か国に続いて、明治政府は以下の国々と条約を結びます。

年(西暦/和暦)相手国条約名・出来事内容・備考
1868(明治1)スウェーデン=ノルウェー連合王国日瑞典修好通商条約明治政府初の主体的条約
スペイン日西修好通商条約約240年ぶりの国交回復
1869(明治2)北ドイツ連邦日独逸北部連邦修好通商航海条約プロイセン中心の連邦国家
オーストリア=ハンガリー帝国日墺修好通商航海条約安政条約と同型。※1
明治政府が締結した追加の不平等条約

※1 オーストリアとの条約だけ“修好通商航海条約”と呼ばれるのは、英語原文に navigation が含まれていたため。実質的な内容は他国と同じ不平等条約。

どの条約も安政五か国と同じ形式で、治外法権と関税自主権の制限が盛り込まれていました。日本は「列強ほぼ全員」と対等でない関係を結ばされていたのです。

明治時代に、追加で4か国と条約を締結しており、

最終的に締結された修好通商条約(不平等条約)の累計は、15ヶ国

ということになります。

日本とドイツの不平等条約整理(明治維新とドイツ統一)

1861年には、まだ統一ドイツ国家は存在しておらず、日本はプロイセン王国と修好通商条約を締結しています。その後、プロイセンを中心に北ドイツ連邦、さらにドイツ帝国が成立します。

国家日本との条約状況
1861プロイセン王国日普修好通商条約江戸幕府
1867北ドイツ連邦国家成立プロイセン中心の連邦国家
1868明治維新(江戸幕府から明治政府へ)
1869北ドイツ連邦日独逸北部連邦修好通商航海条約明治政府
1871ドイツ帝国国家成立北ドイツ連邦が南ドイツ諸国を加えて発展
プロイセンから北ドイツ連邦、ドイツ帝国へ至る条約関係の整理

1869年に締結した北ドイツ連邦との条約関係は、1871年のドイツ帝国成立後も統一ドイツへ引き継がれました。

補足:条約に用いられた国名の漢字表記まとめ

当時の外交文書や新聞には、以下のような漢字表記が使われていました。

  • 墺太利亜(オーストリア)
  • 白耳義(ベルギー)
  • 独逸(ドイツ)
  • 西班牙(スペイン)
  • 丁抹(デンマーク)
  • 瑞西(スイス)
  • 瑞典(スウェーデン)

なぜ次々と不平等条約を締結したのか

日本は多くの国と同様の条約を結ばされていきましたが、なぜこんなにも次々と不平等条約が増えていったのでしょうか。

欧米列強の「横並び」意識

安政の五か国条約の相手国以外も、列強は互いに競い合うライバル関係にありました。

もしある国だけが突出した権益を日本から得れば、他国の立場が損なわれてしまいます。そのため「特定の国だけが有利にならないように」という思惑から、各国は横並びで同じ条件を日本に押しつけていったのです。

日本の事情 ― 孤立を避けたい新政府

一方の日本も、国際社会で孤立することを恐れていました。外交経験の浅い幕府から引き継いだ明治政府にとっては、諸外国と次々に条約を結ぶことが「近代国家として認められる道」だと考えられたのです。

結果的に、それは不平等条約をさらに積み重ねることにつながってしまいました。

欧州中堅国にとっての「ステータス」

また、オーストリアやベルギー、スイスのように、イギリスやフランスほどの植民地帝国ではない国々にとって、日本との条約締結は「自国も列強の一員だ」と示す手段でした。

アジアの新興国と修好通商条約を結ぶこと自体が、国際社会での体面を保つ「ステータス」になっていたのです。


こうして、欧米列強の横並び意識、日本の外交未熟さ、さらに欧州中堅国の面子という要素が重なり、日本は次々と不平等条約を結ばざるを得ませんでした。

それは日本の主権を縛る「国際条約ネットワーク」として、長く近代国家への足かせとなったのです。

条約改正への長い道のり

不平等を改めるため、日本は明治の初めから欧米諸国に交渉を重ねます。しかし成果を得るまでには半世紀以上かかりました。

岩倉使節団と改正交渉の失敗

1871〜73年に派遣された岩倉使節団は、欧米を歴訪して条約改正を求めました。
しかし各国の答えは冷たく、「日本はまだ近代的な法制度や裁判制度を整えていない」として拒否されました。

30年以上かけた改正

  • 1894年 日英通商航海条約 → 治外法権撤廃の第一歩。
  • 1899年 新条約発効 → 列強とようやく対等に近づく。
  • 1911年 関税自主権の完全回復 → ここでようやく「不平等条約時代」が終わる。

不平等条約というスタート地点

外洋の航海技術や軍制・軍備など、軍事面で劣勢にあった日本においては、不平等な内容を含む条約を締結することが、国際社会との関係性を構築していくスタート地点になったといえるでしょう。

現代とは違う強さが求められた時代でもありました。

日本は国際社会に認められるため、急速な近代化を進めていくことになります。