近年では、昭和初期の楽曲(特に戦前の歌など)は、戦争の記憶や政治思想と結びつけて捉えられ、遠ざけられる傾向にあります。戦前の日本人の間で大ヒットとなり、第二の国歌とも呼ばれた「愛国行進曲」も忘れ去られようとしています。
そこで歌われていたのは本当に政治思想なのでしょうか。
本記事では、日本の歴史の中でも一段と特徴的な「愛国行進曲」という楽曲を通して、戦前の日本人の精神性や価値観を読み解きます。現代の私たちが忘れようとしているものを、改めて見つめ直します。
愛国行進曲とは
最初に愛国行進曲という楽曲について確認しましょう。
愛国行進曲の基本情報
愛国行進曲は、1937年(昭和12年)に発表された行進曲です。
作曲は瀬戸口藤吉、作詞は森川幸雄です。
軍歌と思われがちですが、厳密には国民歌・愛国歌として制作されました。
曲調は非常に堂々とした行進曲です。歌詞には当時の国家観を象徴する語が多く登場します。
テンポも歩兵の行進に合わせやすい速度になっています。
愛国行進曲は、驚くほど広く普及しました。
- レコードが大ヒット
- 学校で歌われる
- ラジオで頻繁に放送
- 各種式典で演奏
- 街頭でも流される
現在で言えば、「国民的ヒットソング」と「国家キャンペーンソング」を合わせたような存在だったと言えるでしょう。
現代でも、海上自衛隊東京音楽隊のコンサートなどで演奏されることがあります。
参考検索:YouTubeで「愛国行進曲」を検索
愛国行進曲の特徴 ― 公募で作られた「日本人の曲」
愛国行進曲は、軍が直接作ったものではありません。
この曲は、当時の内閣情報部が中心となり、
国民全体が歌える愛国歌を作ろう
という企画を立ち上げ、制作されています。
国家が、全国民向けのヒットソングを企画・プロデュースした
という点は、愛国行進曲の大きな特徴のひとつでもあります。
歌詞は一般公募され、数万点もの応募が集まったと言われており、企画そのものが全国的な話題になりました。歌詞だけでなく、曲も全国公募されています。
- 歌詞:約5万7千点
- 作曲:約9,500〜1万点
その中から、結果として瀬戸口の作品が最優秀に選ばれました。
愛国行進曲は、
全国公募を通じて国民参加の形で生まれ、日本人の間で広く歌われた
という、とても興味深い特徴をもった楽曲といえるでしょう。
建前と実際 ― 国家によって整えられた愛国行進曲
公募で作られた曲というイメージは、国民に愛される土台にもなったと考えられますが、実際は国民が作った曲そのままではありません。
応募作は審査過程でかなり大きな補作・改作を受けたとされています。
愛国行進曲は、特定の意図で変えられた部分がありながらも、国民の間では親しまれました。
国民が変更があったことを把握していたとは考えにくい部分もありますが、それでも
歌いやすく、覚えやすく、そして何よりも価値観に共感できる曲
として、愛国行進曲は受け入れられたと考えられます。
愛国行進曲が作られた時代
愛国行進曲が作られた時代についても、少し確認しておきましょう。
政治的な背景 ― 戦時体制が形成されていく時代
1937年という年は、日本にとって大きな転換点でした。
- 1931年:満州事変
- 1932年:満州国建国
- 1936年:二・二六事件
- 1937年7月:盧溝橋事件
- 1937年以降:日中戦争
つまり、日中間の軍事衝突が拡大し、長期的な全面戦争へ移行していく時期に作られています。
当時は国全体で
- 国民の士気を高める
- 国民の団結を促す
- 戦時体制への協力を呼びかける
という空気が強まりつつありました。
愛国行進曲の募集要項
愛国行進曲は国民精神総動員を機に企画され、
その募集文では、
- 日本の真の姿をたたえる
- 帝国の永遠の生命と理想を象徴する
- 国民精神の作興に役立てる
- 平時・戦時を問わず老若男女が歌えるものにする
という条件が掲げられていました。
つまり愛国行進曲は、国民精神総動員に適合する恒久的な国民歌として設計されています。
政府としては政治方針の正当化(国民の理解)が必要だった時代とは考えられますが、(少なくとも募集要項の文面上は)愛国行進曲の企画自体は「必ずしも戦争や対外的な方針を前提にしたものではなかった」とも捉えられます。
文化的な背景 ― 西洋音楽が大衆化した時代
もし日本の近代軍楽の流れで見ると、愛国行進曲は
1885年頃 「抜刀隊」 (日本人による作詞、フランス人による作曲)
↓
1897年 「軍艦行進曲」 (日本人による作詞・作曲)
↓
1937年 「愛国行進曲」 (日本国民による作詞・作曲)
↓
1940年前後 多数の戦時歌謡
という流れの中に位置付けられます。
「抜刀隊」は西南戦争後の近代陸軍を象徴する行進曲。
「軍艦行進曲」は海軍の象徴となる行進曲。
「愛国行進曲」は軍だけでなく、国民全体を戦時体制へ結び付けることを意識した国民歌という点で性格が異なります。
軍楽は明治初期には西洋から導入された新しい音楽でしたが、半世紀ほど経った1937年には、それが日本社会に深く定着し、国民全体で歌われる愛国歌の音楽様式として用いられるようになっていました。
西洋音楽の教育が行き渡ったことで、西洋音楽・軍楽などが大衆化する土台が整えられた時代ともいえるでしょう。(日本の西洋音楽教育は、1879年(明治12年)の文部省音楽取調掛が設立されて以降)
愛国行進曲の作曲を行った瀬戸口藤吉は、軍艦マーチ(軍艦行進曲)の作者でもあります。
日本音楽の西洋化を牽引した軍楽家ともいえ、「日本の行進曲の父」とも呼ばれます。
💡関連記事:楽曲にみる明治日本の音楽西洋化 ― 君が代・抜刀隊・軍艦行進曲
ラジオが普及し始めた時代
1930年代は、日本放送協会によるラジオ放送が急速に普及した時代でもありました。
昔なら地域ごとだった歌が、全国へ一斉に届くようになります。
これは現在のテレビやインターネットに近いインパクトで、政府としても「国民全体が同じ歌を知る」ということが初めて現実的になりました。
愛国行進曲の歌詞にみる日本人の精神
公募で集められた愛国行進曲の歌詞には、当時の日本人が共感できる「共通の価値観・精神性」が編み込まれているといえるでしょう。共感できる歌詞は、曲が長く愛される要因でもあったでしょう。
ここでは、当時の日本人の精神性を読み解くために、歌詞に着目します。その上で、その部分が政治思想(正当化)なのか、それとも伝統的な日本の概念なのかも整理してみます。
一番の歌詞にみる「日本の捉え方」
愛国行進曲の一番の歌詞には、日本の土地や神話的な象徴が盛り込まれ、愛国の精神や誇りが歌われています。
ここでは、当時の日本人の精神性を読み解くため、歌詞を史料として引用します。
見よ 東海󠄀の 空󠄁明󠄁けて 旭日 高く輝けば
天地の正氣 潑溂と 希望󠄁は躍󠄁る 大八洲
おゝ 淸朗󠄃の 朝󠄁雲に 聳ゆる 富士の姿󠄁こそ
金甌無缺 搖ぎなき 我が日本の 誇なれ
引用:『愛国行進曲』一番 作詞:森川幸雄 作曲:瀬戸口藤吉
上記引用している一番の歌詞の中、強調している部分について、その背景や意味を順番に確認していきます。
旭日とは何なのか ― 「旭日 高く輝けば」
現代では「旭日旗」と結びついて戦争・侵略の記憶を帯びますが、当時の語感としてはもう少し広く、
- 日出づる国・日本
- 天照大神・太陽信仰
- 天皇・皇国の威光
- 勢いよく昇る国家
を重ねた言葉だったと考えられます。当時の国家的文脈では、「日の本」という国号、天照大神を祖神とする皇室神話、皇国の威光なども重ねて受け取ることができました。
特に「旭日」は、単なる太陽ではなく、これから昇っていく太陽を意味します。
そのため、静的な象徴ではなく、上昇・拡大・発展のイメージを持ちます。
「旭日」は近代日本が作った言葉ではなく、中国古典由来の語です。
旭日という語が使用されている中国の古典としては、『詩経』が挙げられます。
詩経は、論語と並んで江戸時代の日本で学ばれた「朱子学」の教科書的な存在でもあります。
💡関連記事:四書五経とは何か ― 論語の位置づけと朱子学の土台
大八州(おおやしま)とは何か ― 「希望は踊る 大八州」
大八島(おおやしま)とは、イザナギ・イザナミが最初に生み出した八つの島、ひいては日本そのものを指す神話的な呼称です。(古事記・日本書紀の神話)
国生み神話では、大八島ができた後も、
- 吉備児島
- 小豆島
- その他の島々
が続けて生まれます。
『古事記』では「大八島国」、『日本書紀』では「大八洲国」と表記されます。
愛国行進曲の「大八洲」は、『日本書紀』系の漢文的な表記を用いて、日本の国土を神話的・荘重に表したものと考えられます。
愛国の歌ならば日本の神話的な表記(和文表記)が用いられそうですが、あえて書紀的・漢文的な語彙を選んだ背景には、(意図を直接示す資料は確認できませんが)日本書紀のような「外国への意識」があったのかもしれません。
金甌無欠(きんおうむけつ)とは何か ― 「金甌無欠 揺ぎなき」
「甌(おう)」とは、酒や茶を入れる小さな器(茶碗・鉢)のことです。
「金甌」は、黄金でできた器を意味します。
金甌無欠とは、
黄金の器が少しも欠けていないように、国家が完全な形で保たれていること。
となります。
近代日本では、この語は
国土の一体性・国家の独立・領土の保全
を表す言葉として使われました。
二番の歌詞にみる「世界との向き合い方」
愛国行進曲の二番の歌詞は、愛国精神がうたわれた一番から少し踏み込んだ内容になっています。
伝統的な精神性や概念を基にしながら、その捉え方や行動の指針についての解釈が加わってきます。
ここでは、当時の日本人の精神性を読み解くため、歌詞を史料として引用します。
起󠄁て 一系の 大君を 光と 永久に戴きて
臣民我等 皆共に 御稜威に副はん 大使󠄁命
往け 八紘を 宇となし 四海󠄀の人を 導󠄁きて
正しき平󠄁和 うち建󠄁てん 理想は 花󠄁と咲󠄁き薰る
引用:『愛国行進曲』二番 作詞:森川幸雄 作曲:瀬戸口藤吉
一番と同じように、引用歌詞の中の強調している部分について、その背景や意味を順番に確認していきます。引用歌詞からは、言葉がどういった文脈で使われているのかを確認することができます。
御稜威(みいつ)とは何か ― 「御稜威に副わん 大使命」
「御稜威」とは、
神や天皇に備わる、畏敬を起こさせる神聖な威力・威光
を意味します。
近代には天皇の徳や国家的権威とも結びつけて解釈されていきました。
現代人としては聞く機会の少ない言葉ですが、愛国行進曲が流行していた時代の日本人にとっては身近な概念だったのかもしれません。
神話や漢字よりも古い概念「みいつ」
「みいつ」は『古事記』『日本書紀』などの古代文献に見える古語であり、その背景には記紀成立以前からの祭祀・王権観があった可能性があります。
古くから日本にある「みいつ」という古語に、意味の近い漢字表記として「御稜威」が用いられるようになったと考えられます。
政治思想が読み取れる「大使命」
愛国行進曲では「御稜威に副わん」に続いて、「大使命」と続けられます。
神話の段階では「葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めること」や「秩序を守ること」が示させることはあっても、明確な「使命」を示しているとは考えにくく、近代日本において政治的な意味を帯びた解釈が広がったとも考えられます。
国防・国民奉仕・国威発揚・対外的指導などを、受け手が一つの使命感として重ねられる曖昧さが、この「大使命」という歌詞の役割なのかもしれません。(この曖昧さは、後に「東亜新秩序」などの言葉で具体化されていくことになります)
八紘一宇はどのように政治語になったのか ― 「八紘を 宇となし」
「八紘一宇」は、『日本書紀』の「八紘を掩いて宇と為す」という一節をもとに、近代になって田中智学が作った標語です。古代からそのまま使われていた四字熟語ではありません。
一般社会においては1930年代後半から1940年頃になって広く使われるようになります。
八紘一宇は、近代にはしばしば
「世界を一つの家のようにする」
という理念として説明されました。
日本書紀の言葉そのもの
→ 田中智学が近代的な標語「八紘一宇」として造語・再解釈
→ 1930年代後半〜1940年に国家スローガン化
→ 対外進出・戦争目的の説明語として利用
八紘一宇は、アジア進出・戦争・大東亜新秩序を正当化する政治語として利用された側面の強い言葉でした。
愛国行進曲が発表された1937年は八紘一宇という言葉が「普及し始めた年」、その後の1940年には「国民的スローガンとして完成した年」と整理できます。
日本が主体となる解釈 ― 「四海の人を導きて」
昭和戦時期の国家の段階では、日本の対外進出を「世界を一つの家にする」「アジアを導く」という道義的言葉で包む政治語として八紘一宇は使われるようになりました。
愛国行進曲の歌詞においても、「八紘を宇となし」に続いて「四海の人を導きて」と続きます。
本来は世界統一理念だった八紘一宇に、日本が主導して実現するという政治的な思想が重なっていると捉えられます。
愛国行進曲には三番もあります。
ただ、三番では献身や前進を促す精神が中心となるため、本記事では詳細な読解を省きます
楽曲に刻まれた精神と思想
愛国行進曲の歌詞は、古代から変わらず続いてきた日本精神そのものでも、国家が無から作った政治宣伝でもありません。古くからある神話・王権・漢学の言葉が、昭和初期の国家理念の中で選び直され、結び直されたものと考えられます。
そのため、愛国行進曲の中には、日本の伝統的な精神と共に、当時の政治思想が刻み込まれています。
| 歌詞を構成する象徴・語彙の層 | 例 |
|---|---|
| 自然・国土の象徴 | 富士 |
| 記紀・王権的語彙 | 大八洲、一系の大君、御稜威、神代 |
| 中国古典・漢文的語彙 | 旭日、天地の正気、金甌無欠、四海 |
| 近代国家による意味の統合 | 皇国、大使命、八紘を宇となし、四海の人を導く |
愛国行進曲の一語一語は、すべてが昭和の政府によって新しく作られたものではありません。富士、大八洲、御稜威、神代など、その多くは古くから受け継がれてきた象徴や語彙でした。
しかし、それらを「大使命」「八紘を宇となし」「四海の人を導く」という一つの対外的な物語へ結びつけたところには、昭和初期の政治思想が明確に表れています。
伝統と政治思想は別々に存在していたのではなく、伝統的な言葉が政治的に選ばれ、並べ替えられることで、当時の国家理念が国民の歌として表面化したと捉えられます。
同じ日本人であっても、時代に合わせて物事の捉え方・考え方を変化させてきました。
どのように変化してきたのかに関心のある方には、以下のような記事もおすすめです。
