オランダではなかったオランダ ― 江戸時代のネーデルラント史

ネーデルラント史 歴史

💡この記事は、「日本とオランダ特集」の一部です。

江戸時代、日本とヨーロッパを結ぶ窓口となった国といえばオランダです。
鎖国下の日本において、長崎・出島を通じて交易を続けたオランダは、西洋の知識や文化を伝える重要な存在でした。医学や天文学などの西洋知識は「蘭学」と呼ばれ、オランダは日本人にとって最も身近なヨーロッパの国でもありました。

実は江戸時代の間に、オランダは何度も国号政治体制を変えています。
一時はフランスに併合され、国家そのものが消滅した時期すらありました。

日本オランダ側
徳川家康ネーデルラント連邦共和国(成立前)
徳川家光ネーデルラント連邦共和国
徳川吉宗同上
徳川家斉バタヴィア共和国→ホラント王国
徳川家慶ネーデルラント連合王国
徳川慶喜オランダ王国
江戸時代にオランダと呼ばれた国の変化

本記事では、日本人が「オランダ」と呼んだ国の変化を、江戸時代の時間軸に沿って整理します。
なぜ江戸時代の日本が、かの国をオランダと呼ぶようになったのか、その理由も見えてきます。

江戸時代の日本が出会った「オランダ」

まずは、日本とオランダの交流が始まった頃のヨーロッパに目を向けてみましょう。

オランダとの出会い ― 交易が始まった頃のヨーロッパ

1600年、オランダ船リーフデ号が豊後国(現在の大分県)へ漂着しました。

徳川家康江戸幕府を開く直前の出来事です。

復元リーフデ号(ハウステンボスに展示)
復元リーフデ号(ハウステンボスに展示)

当時のヨーロッパでは、現在のオランダ王国はまだ存在していません
16世紀後半から17世紀前半にかけて、この地域はスペイン王家の支配に対して独立戦争を続けていました。後に「八十年戦争」と呼ばれる戦いです。

現在のオランダにあたる北部諸州は共同してスペインに対抗し、1581年には独立を宣言しています。
しかし、この時点ではまだスペインが独立を認めておらず、戦争は継続中でした。

つまり、日本が交流を始めた頃の「オランダ」は、現在のような王国ではなく、

独立を目指して戦っている最中の国

だったのです。

なぜオランダという呼び名が広まったのか

では、なぜ日本人はこの国を「オランダ」と呼ぶようになったのでしょうか。

日本へ来航した商人たちの多くは、ネーデルラント北西部のホラント州(Holland)を拠点としていました。ホラント州は商業や海運の中心地として大きな影響力を持っていました。そのため国外でも、ホラント州の名前を使ってネーデルラント全体を指すことがありました。

日本でもその呼び方が定着し、

「ホラント」が「オランダ」として広まった

と考えられています。

そのため、日本人が「オランダ」と呼んでいた相手は、本来はネーデルラントという地域・国家でありながら、その一地方の名前で呼ばれていたことになります。

そして、この「オランダ」という呼び名は、共和国となっても、フランスに併合されても、再び独立しても使われ続けることになります。

ネーデルラント連邦共和国の時代

日本が交流を始めた頃、オランダはまだスペインとの独立戦争の最中でした。

江戸に幕府が開かれた後も続いていたその戦争は、やがて決着を迎えます。

ネーデルラント連邦共和国の承認 ― スペインからの独立

1648年、ウェストファリア条約によってスペインは

ネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認

します。

こうしてネーデルラント連邦共和国は、国際的にも独立国家として認められることになりました。
この戦いは80年近く続いたことから、後に「八十年戦争」と呼ばれるようになりました。

日本では徳川家光の治世にあたり、すでに鎖国体制が整いつつあった頃のことです。

1648年の独立承認は、単なる戦争の終結ではありませんでした。
それは、カトリック世界の有力国であり、当時ヨーロッパ最大級の大国だったスペインから独立を勝ち取ったことを意味していました。

ウェストファリア条約は、オランダ独立戦争(八十年戦争)だけでなく、同時期の三十年戦争なども含めて整理した国際条約です。現代の主権国家体制や国際秩序の出発点として位置付けられることもあります。

独立戦争の背景と宗教対立

16世紀当時、この地域はスペイン王家の支配下にありました。
しかし、重い税負担や宗教政策への反発などから反乱が広がり、北部諸州は共同して独立を目指します。

オランダの独立戦争には、宗教も大きな影響を与えています。
オランダのように、カトリックに対抗した新しい宗教勢力はプロテスタントと呼ばれました。
💡関連記事:江戸時代のオランダの宗教観 ― スペインから独立した国家の選択

海洋国家としての繁栄 ― オランダ黄金時代

独立後のネーデルラント連邦共和国は、17世紀に大きく発展します。

特に海運業や貿易に強みを持ち、世界各地へ商船を送り出しました。

1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、その象徴ともいえる存在です。

オランダ東インド会社(VOC)
オランダ東インド会社(VOC)

画像出典:Wikimedia Commons (パブリックドメイン)

東インド会社はアジア各地に拠点を築き、日本とも長崎・出島を通じて交易を行いました。

当時のネーデルラント連邦共和国は、商業・金融・海運の分野で世界有数の力を持つ国家となり、この時代はしばしば「オランダ黄金時代」と呼ばれています。

江戸時代の日本人が接していたオランダは、単なるヨーロッパの一国ではなく、世界規模で活動する海洋国家だったのです。

黄金期のオランダでは、世界初の経済バブルも引き起こされます。
💡関連記事:江戸時代に揺れた「オランダ黄金期」 ― チューリップ・バブル

イギリスとの競争

しかし、その繁栄は永遠には続きませんでした。

17世紀後半になると、海上貿易の主導権をめぐってイギリスとの対立が激しくなります。

両国は複数回にわたり英蘭戦争を戦いました。
ネーデルラント連邦共和国は独立を維持したものの、海上覇権は徐々にイギリスへ移っていきます。

フランス革命と「オランダ」の消滅

17世紀に黄金時代を迎えたネーデルラント連邦共和国でしたが、18世紀の終わりになると大きな転機を迎えます。

そのきっかけとなったのが、1789年に始まったフランス革命でした。

自由や平等を掲げた革命の影響は周辺諸国にも広がり、ネーデルラント連邦共和国もその波に飲み込まれていきます。

バタヴィア共和国への移行

1795年、フランス革命軍がネーデルラントへ侵攻します。

これにより、長く続いていた

ネーデルラント連邦共和国は事実上崩壊し、新たにバタヴィア共和国が成立

しました。

バタヴィア共和国の国旗

画像出典:Wikimedia Commons (CC0)

名称の「バタヴィア」は、この地域に古く住んでいたバタヴィ人に由来しています。

形式上は独立した共和国でしたが、実際には革命フランスの強い影響下に置かれた衛星国家でした。

江戸時代の日本人は相変わらず「オランダ」と呼んでいましたが、その国はすでにネーデルラント連邦共和国ではなくなっていたのです。

ホラント王国の成立

1804年、フランスでナポレオンが皇帝となると、ヨーロッパ各地の支配体制も変化していきます。

1806年には

バタヴィア共和国が廃止され、新たにホラント王国が成立

しました。

国王となったのはナポレオン本人ではなく、そのルイ・ボナパルトです。
(ホラント国王としての名はローデウェイク1世)

ルイ・ボナパルト肖像
(チャールズ・ハワード・ホッジス画)
ルイ・ボナパルト肖像
(チャールズ・ハワード・ホッジス画)

画像出典:Wikimedia Commons (パブリックドメイン)

ここで興味深いのは、「ホラント」が正式な国号として使われたことです。

日本では古くからネーデルラントを「オランダ」と呼んでいましたが、実際にホラントを名乗る国家が誕生したのはこの時代でした。

もっとも、この王国も独立した国家とは言い難く、実質的にはナポレオン体制の一部でした。

フランス帝国への併合 ― オランダの消滅

しかし、ホラント王国も長くは続きませんでした。

ナポレオンは大陸封鎖令を徹底するため、より直接的な支配を求めます。

その結果、1810年に

ホラント王国は廃止され、領土はフランス帝国併合

されました。

この時、ネーデルラント連邦共和国から続いてきた国家は完全に消滅します。

日本では依然として出島を通じた交流が続いていましたが、その相手はもはや独立したオランダではなく、フランス帝国の一地方となっていたのです。

交流を続けた江戸後期の日本に迫る影 ― フェートン号事件

日本はオランダという国が消滅していても、変わらずオランダとの交易を続けていました。

しかし、世界は確実に変化していました。
ナポレオン戦争で揺れ動くヨーロッパの影響が、遠い日本にも少しずつ現れ始めます。

フランスと戦争中だったイギリスは、フランス勢力下に入ったオランダとの関係を警戒していました。

1808年、イギリス軍艦フェートン号は、オランダの停泊地である長崎港へ侵入し、人質を取ったうえで物資の供給を要求します。この事件はフェートン号事件と呼ばれています。

フェートン号事件は単発の出来事ではありませんでした。
同じころ、日本の周辺ではロシアやイギリスなどとの接触が増え、江戸幕府は新たな対応を迫られることになります。
💡関連記事:ペリー来航前の外圧 ― 露・英との接触と衝突

オランダの復活とベルギーの独立

1810年にフランス帝国へ併合されたことで、「オランダ」は一度歴史から姿を消しました。

しかし、その状態は長くは続きませんでした。

ナポレオンの勢力が衰え始めると、ヨーロッパ各地でフランス支配からの解放が進みます。

オランダもまた、新たな国家として再出発することになります。

ネーデルラント主権公国の誕生 ― ナポレオン体制の崩壊と再独立

1813年、ナポレオン軍が各地で敗北を重ねる中、ネーデルラントでもフランス支配が終わりを迎えます。

オラニエ家のウィレムが帰国し、新たな国家建設が始まりました。
こうして、かつてのネーデルラント連邦共和国とは異なる新しい国家が誕生します。

オランダは再び独立を取り戻したのです。

ネーデルラント主権公国(Sovereign Principality of the United Netherlands)は、1813~1815年の2年間だけ存在しました。

ネーデルラント連合王国の成立 ― ヨーロッパ秩序の再編

1815年、ヨーロッパの秩序を再編するために開かれたウィーン会議の結果、ネーデルラント連合王国(United Kingdom of the Netherlands)が成立します。

この国家は現在のオランダだけでなく、現在のベルギールクセンブルクも含む大きな国家でした。

ネーデルラント連合王国(1815–1830)と現在の国境

その目的の一つは、フランスの北側に強力な国家を置くことでした。

ナポレオン戦争を経験したヨーロッパ諸国は、再びフランスが勢力を拡大することを警戒していたのです。

日本人が「オランダ」と呼んでいた国は、この時期には現在のベルギーを含む国家へと姿を変えていました。

ネーデルラント王国へ ― ベルギー独立革命

しかし、この新しい国家も長くは続きませんでした。

1830年、ベルギー地域で独立を求める運動が起こります。

北部のオランダ地域と南部のベルギー地域では、

  • 宗教
  • 言語
  • 経済構造

などに違いがありました。

さらに政治的な不満も重なり、ベルギー独立革命へと発展します。

その結果、ベルギーは独立国家として歩み始めることになりました。

ベルギー独立後、ネーデルラント連合王国は現在につながるネーデルラント王国(Kingdom of the Netherlands)として歩むことになります。

英語でベルギーはベルジャムのように発音され、音に大きな違いがあります。
英語でないとしたら、ベルギーはどこから来た名前なのでしょうか。
言語の疑問から、ベルギー独立の歴史を紐解きます。
💡関連記事:Belgiumなのになぜベルギー? ― オランダを通して見る歴史と由来

江戸時代以降のオランダ

日本が江戸時代から明治時代になって以降、ネーデルラント王国はルクセンブルクの分離などを経て、現在の形に変わっていきます。

それでも、現在の正式な国号もネーデルラント王国(Kingdom of the Netherlands)のままとなっています。

オランダではなかったオランダ

江戸時代の日本人が「オランダ」と呼んだ国は、実際には何度も国号国境を変えていました。

しかし、日本人はその変化の多くを「オランダ」という一つの名前で見続けました。

そして現在もなお、その国の正式名称はネーデルラント王国でありながら、私たちは変わらず「オランダ」と呼び続けています。

年代正式な国号・状態主な出来事
1581–1795ネーデルラント連邦共和国スペインから独立、黄金時代
1795–1806バタヴィア共和国フランス革命の影響下
1806–1810ホラント王国ナポレオンの弟が国王
1810–1813フランス帝国領オランダ消滅
1813–1815ネーデルラント主権公国フランス支配から解放
1815–1830ネーデルラント連合王国ベルギーを含む国家
1830–現在ネーデルラント王国現在につながる国家
江戸時代(1603~1868)のネーデルラント史

オランダと繋がり、オランダから学び、そして近代においては敵対することになったもなったオランダは、日本が世界とどのように向き合っていったかを学ぶ大きな手掛かりにもなります。

オランダを通して世界を知る「日本とオランダ特集」も是非ご覧ください。

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