現代のヨーロッパには多くの国があり、遠く離れた日本に住む私たちにとっては、その国々を覚えることは簡単ではありません。しかし現代では日本もヨーロッパの国々と様々な関係を持っていて、日々のニュースやイベントなどでヨーロッパの国の名前を聞く機会は少なくありません。
本記事では、ヨーロッパの国々を「日本の歴史」、とりわけ江戸時代の鎖国政策とオランダとの関係から紐解き、近世の日本との位置付けを整理します。各国の歴史や宗教・文化などをイメージすることで、ヨーロッパの地理を覚えやすくなるかもしれません。
鎖国政策とオランダ
日本は江戸時代に鎖国と呼ばれる外交・交易の制限政策を行っていたことが知られています。
鎖国政策が実施されている中でも、オランダは日本との交易を続けていました。
ヨーロッパの国々を理解するために、江戸時代初期の日蘭関係の土台を整理します。
禁止されたキリスト教とオランダ
オランダは日本との交易に宗教を持ち込まなかったと説明されます。
布教もせず、宗教的な物品(聖書・十字架等)を身につけず、日本の儀礼を重んじる姿勢を貫いたオランダは、日本との信頼関係が築かれ、長期にわたる友好的な関係に繋がったと考えられています。
しかし、鎖国とキリスト教の禁止は、オランダとの限定的な交易は同軸ではありません。
日本がキリスト教の禁止に至るまでには様々な出来事・要因がありますが、全国的な禁教に踏み切った背景には、社会秩序の崩壊(法・統治者よりも宗教を重視する価値観)への警戒がありました。
日本から見たカトリックとプロテスタント
日本に滞在する宣教師たちは、法で禁止されている地域での布教を止めませんでした。
また、日本人信徒たちは村や地域の活動に参加せず、社会の分断が進みはじめていました。
現代的感覚では悪意を持った侵略と捉えられがちですが、必ずしもそうではありません。
当時のキリスト教(カトリック)では、神の法が最も正しく、それ以外は誤っているという認識でもありました。誤った法に従う人々(日本人)を命懸けで救済するという使命感のような意識もありました。
💡関連記事:なぜ宣教師は布教をやめなかったのか ― 信念・国家・日本の禁教
しかし幕府(当時の政府)としては、日本の統治者や法を否定する人々を放置できません。
その行動原理が例え善意であったとしても、社会秩序を乱す者として排除されました。
スペイン・ポルトガルといったカトリック勢力は追放され、棄教を拒んだ日本人信徒や国内に残った宣教師は、(見せしめの意味も含めて)残虐な方法で処刑されました。
江戸時代初期、日本に受け入れられたプロテスタントと追放されたカトリックは、まさに宗教の在り方を巡って対立・戦争している最中でした。
なぜ日本は世界帝国に逆らえたのか ― スペインの規模感と状況
日本が追放したカトリック勢力は、当時世界の経済的な優位性を獲得しており、いわゆる覇権国と称されるほどの存在でもありました。
世界中に植民地を獲得した当時のスペインは、日の沈まない帝国とも呼ばれました。
そんな大勢力のスペインを日本は追放しますが、報復や強制的な軍事介入には繋がりませんでした。
当時のスペインは、ヨーロッパやアジア海域でのプロテスタント勢力との対立が激しくなっており、広がりすぎた戦線の維持が困難な状況でもある上、南米などの大規模な植民地経営なども重要な課題でした。日本に割く余力がない状況だったともいえるかもしれません。
オランダの独立とウェストファリア体制
日本が鎖国体制を確立しつつある頃、ようやくヨーロッパの宗教対立はひとつの区切りを迎えます。
1648年に結ばれたウェストファリア条約では、複数の戦闘の終結と共に、新たなヨーロッパの国際秩序について合意されます。
オランダも、晴れて国際社会に独立を承認されることになります。
このウェストファリア条約以降の国際秩序は、しばしばウェストファリア体制と呼ばれ、歴史的な意味としては、大きく以下のようなものが挙げられます。
- 主権国家体制の始まり
- 認められる信教の自由
- 神聖ローマ帝国の弱体化
ヨーロッパでは、宗教による統治から近代国家による統治へと変わり始め、それが現代の日本の体制にも繋がっています。
新秩序を求めたプロテスタント勢力
プロテスタント勢力は、オランダだけではありません。
ルターの宗教改革以降、西ヨーロッパの人々は正しい信仰、正しい宗教組織と政治の在り方を求め、考えるようになりました。カトリック教会の在り方を批判し、否定し、独自の在り方を貫く生き方は、既存秩序からの処罰対象にもなりました。
ドイツ
ルターによるカトリック教会への批判はドイツ語に翻訳され、ポスターやビラとして流布されました。また、ルター自身は聖書を原典からドイツ語に翻訳もしています。(ルター聖書)
そのためドイツ地方ではルター派(プロテスタント)と呼ばれる考え方が広く共有されます。
ドイツ地方では、カトリック教会から離れ、それぞれ独自の宗教組織を立てる動きが強まります。
ローマ教会や神聖ローマ帝国など、当時の既存秩序を担っていた勢力はそれを許さず、長い戦争状態に突入していきます。(30年戦争)
オランダ
オランダで広く共有されたカルヴァン派(プロテスタント)は、ルター派よりもさらに純粋な信仰を追求する考え方でした。
豪華な教会建築、美麗なステンドグラス、荘厳な宗教音楽など、カトリックの儀礼・祭祀などで重要な役割を果たしていた様々なものは、純粋な信仰に不要と考えられるようにもなりました。また、神の前では平等であるべきという考え方も強くなり、カトリック組織内部の序列も否定的に捉えられます。
信仰は教会組織より個人に重心が移動し、教会制度は簡素化され、序列のない祈りの場が共有されていきました。
既存秩序を守ろうとする勢力(統治者のスペインなど)はこれを強く弾圧しますが、オランダの人たちはそれに対抗し、独立戦争(80年戦争)へと繋がっていきます。
💡関連記事:江戸時代のオランダの宗教観 ― スペインから独立した国家の選択
イングランド(イギリス)
イングランドでは嫡子が生まれず、国家存続のために離縁→再婚の必要に迫られます。キリスト教では離縁は禁止されており、教会の許可が必要でした。
離縁に正当な理由がある場合は問題なく認められるのが通例でしたが、政治的な事由でその判断は歪められました。(離縁される妻がローマ教会の後ろ盾・スペイン王の血縁者だったため拒否される)
イングランドはローマ教会との決別を決断し、イングランド国教会を興すことになりました。
(その流れは現代まで続いています)
イングランド国教会の成立はカトリック世界からは否定され、戦争状態に突入しますが、海戦においてスペインの無敵艦隊が打ち破られることにもなりました。
国内でもカトリックへの回帰(Bloody Mary)や、より純粋な信仰追求(ピューリタン革命)の動きが起こり、宗教的に不安定な時代を迎えます。
江戸幕府初期に通商を認められていたイギリスは、経済的な事由で日本市場から撤退します。
その後改めて通商再開を求めますが、宗教的不安定な状況などを鑑み、幕府は黙殺しています。
💡関連記事:禁教下の日本とイギリス ― 江戸幕府の外交と通商の行方
リーフデ号と日本
1600年に日本に漂着したオランダの商船・リーフデ号には、オランダ人と共にイギリス人(ウィリアム・アダムスこと三浦按針)が乗船していたことが知られています。
当時のオランダとイギリスは、カトリック宗教秩序と戦っていた同士でもありました。

出典:STA3816 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)
既存秩序の守護者 ― カトリックの中心勢力
信教の自由が認められた時代に生きる私たちには理解が難しいかもしれませんが、当時の宗教は神への信仰だけでなく、法や規範にも広がる社会秩序の土台でもありました。
信仰の在り方や教会組織の問い直しは、現代でいえば憲法や法律、統治制度そのものを否定することに近く、社会秩序への影響が強い行動とも捉えられました。
現代社会で秩序を乱した者が裁かれるのと同様、当時の秩序を乱した人や考え方は、裁かれ、処罰されることになりました。
オーストリア ― 神聖ローマ帝国の皇帝権威(ハプスブルク家)
ローマ教会に長く皇帝の権威を与えられていたのがオーストリア・ハプスブルク家です。
スペイン王とは兄弟関係にあり、兄が権威を相続し、弟は広大な経済圏を得た形といえるでしょう。
オーストリア・ハプスブルク家と神聖ローマ帝国皇帝の権威は、西ヨーロッパのカトリック宗教秩序の中心でもあり、スペイン・ハプスブルク家(およびローマ教会)と共に、プロテスタント勢力を裁き、秩序を守る立場にありました。
強大なオーストリアの周辺国
現在のオーストリアは、当時のオーストリア(神聖ローマ帝国とその後)の勢力圏からはかなり統治領域が狭くなっています。
オーストリア・チェコ・スロベニアは歴史的に神聖ローマ帝国の影響が強く及んだ地域です。
また、ハンガリー・スロバキア・クロアチアは歴史的にはカトリック社会で、近代ではオーストリア・ハンガリー帝国として連合していましたが、世界大戦を経て今の統治体制になっています。

ハプスブルク家によるオーストリア統治は、第一次世界大戦後に終結を迎えます。
スペイン ― 巨大な海洋経済圏を築いた帝国(ハプスブルク家)
神聖ローマ帝国の弟が統治するスペインは、新大陸にも大きな経済圏を獲得し、広くアジア方面にまでその影響力を広げた巨大海洋国家でした。スペイン・ハプスブルク家とも呼ばれます。
プロテスタントとの対立においては、陸ではオランダと戦い、海ではイギリスとも戦い、広がり続ける戦線に徐々に苦しめられていくことになります。
| 相手・地域 | 何の戦いか | スペインにとっての意味 |
|---|---|---|
| オランダ/ネーデルラント | 八十年戦争 | 反乱属州の再征服、通商・植民地競争 |
| 神聖ローマ帝国・ドイツ方面 | 三十年戦争 | オーストリア・ハプスブルク家支援、カトリック陣営支援 |
| フランス | 仏西戦争 | ハプスブルク包囲網を破ろうとするフランスとの覇権争い |
| カタルーニャ | カタルーニャ反乱 | スペイン国内の地方反乱 |
| ポルトガル | ポルトガル王政復古戦争 | イベリア連合の崩壊、ポルトガル独立戦争 |
日本との関係においては、キリスト教の伝来をしたスペイン人、フランシスコ・ザビエル(イエズス会)が挙げられます。スペインとの国際的な関係としては、秀吉のサン・フェリペ号事件(1596年)や家康の有馬事件(1609年〜1612年)などが挙げられます。
いずれもスペインと日本の関係を緊張・悪化させた出来事で、為政者の禁教判断に影響を与えます。
飛び地も多いスペイン統治地域
オーストリアと同じく、スペインも当時の広大な統治領域からかなり縮小されています。海洋帝国でもあったスペインは、オーストリアと違って飛び地の勢力圏を多く抱えていました。
多数の海外植民地の他、現在のイタリア(ローマ)の一部やオランダ(ネーデルラント地方)もスペインの統治範囲に含まれていました。江戸時代初期のポルトガルは、スペイン王が統治を兼ねていた時期もあります。(イベリア連合/同君連合)
フランスは、ハプスブルク家の統治領域(時計回りにオランダ・オーストリア・イタリア・スペイン)に囲まれる・分断する形になっていたため、それは新たな対立軸を生むことになります。

宗教戦争に重なる政治 ― プロテスタントを支援するカトリック
近世のフランスは少し特殊な立場にありました。
宗教的にはカトリックでしたが、フランス国内で独自の教会組織を持っており、ローマ教会を認めてはいましたが、できるだけローマへの金銭の流れを抑えたいなどの思惑もありました。
フランス ― ハプスブルク家を警戒するカトリック国
周囲をハプスブルク家に取り囲まれていたフランスは、ハプスブルク家の隆盛を警戒していました。そのため、カトリック勢力としてではなく、ハプスブルク家との対立の中で、プロテスタント勢力を支援するようになります。
一方、国内ではユグノーと呼ばれるカルヴァン派(プロテスタント)勢力が活動を強めており、フランスはその対処にも追われていました。
つまりフランスは、国内ではプロテスタント弾圧、国外ではプロテスタント支援という形をとっていたことになります。
スペインの継承戦争とブルボン家
宗教戦争よりも少し後の時代、スペイン王家には嫡子がなく、継承問題が起こります。
スペイン王の娘を娶っていたフランス王・ブルボン家は、その子に継承権があると主張し、オーストリアと戦争することになります。
(フランス王とは別の人物を立てる条件付きで)継承権を獲得したブルボン家は、ハプスブルク家に替わってスペインを統治することとなり、それが現代にも続いています。
まとめ:カトリック宗教秩序の国々
日本が交流したオランダを通して、当時の西ヨーロッパを宗教秩序の観点で整理してみます。
既存宗教秩序との対立 ― 主要関係国
既存宗教秩序との対立を軸に、主要な関係国をまとめると以下のようになります。
| 国 | 宗教秩序との関係 | キーワード |
|---|---|---|
| オランダ | 対立 | カルヴァン派・独立 |
| ドイツ | 対立 | ルター派 |
| イギリス | 対立 | イングランド国教会 |
| スペイン | 保守 | カトリック帝国 |
| オーストリア | 保守 | 神聖ローマ帝国 |
| フランス | 特殊 | カトリックだが反ハプスブルク |
カトリック宗教秩序から近代国家へ
また、当時カトリック宗教秩序の中に在り、その後近代国家が成立した国々を簡単に整理します。
宗教戦争やハプスブルク家による統治を経た西ヨーロッパ・中欧の国々も、19〜20世紀にかけて現在の国民国家へと再編されていきました。
| 国 | 現在の国家につながる時期 | 背景 |
|---|---|---|
| ポルトガル | 1640年(独立回復) | スペインとの同君連合(イベリア連合)を経て独立を回復し、 現在まで国家を維持。 |
| ベルギー | 1830年 | オランダから独立し、カトリックを基盤とするベルギー王国が成立。 |
| スイス | 1648年(独立承認) | ウェストファリア条約で神聖ローマ帝国からの独立が国際的に承認される。 |
| チェコ | 1918年(チェコスロバキア) 1993年(チェコ共和国) | オーストリア帝国支配を経て第一次世界大戦後に独立。 1993年にチェコ共和国となる。 |
| スロバキア | 1918年・1993年 | チェコと同様にチェコスロバキアを経て独立。 |
| ハンガリー | 1918年 | オーストリア=ハンガリー帝国の解体により独立国家となる。 |
| スロベニア | 1991年 | 神聖ローマ帝国・ハプスブルク家・ユーゴスラビアを経て独立。 |
| クロアチア | 1991年 | ハンガリー王国・ハプスブルク家・ユーゴスラビアを経て独立。 |
※現在の国境・国家は、近代以降の独立や再編によって成立したものであり、中世・近世の統治領域とは一致しません。
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