「もみじ」や「ぼたん」って何の肉? ― 肉の別名にみる日本語文化

「もみじ」や「ぼたん」って何の肉? 言語

特定の動物の肉は、「もみじ」や「ぼたん」のような、少し変わった名前で呼ばれることがあります。

日本では動物の肉を花や植物の名前に言い換える表現が使われてきました。

なぜ、肉をそのまま呼ばず、別の名前で呼んだのでしょうか。

そこには、かつての日本にあった肉食への忌避だけでなく、直接的な表現を避けたり、別の美しい言葉に置き換えたりする表現文化も関係していたと考えられます。

本記事では、現代にも残る動物肉の呼び名を入り口として、その背景にある日本の言葉と文化について考えていきます。

言い換えられた動物肉

「もみじ」や「ぼたん」というのは、そもそも何の肉なのでしょうか。

まずは現代でも使われる動物肉の言い換え表現について確認してみましょう。

代表的な動物肉の呼び名

日本では、動物の肉に次のような呼び名が使われてきました。

呼び名主に指す肉名前から連想されるもの
もみじ鹿肉紅葉
ぼたん猪肉牡丹
さくら馬肉
かしわ鶏肉
山くじら猪肉など
動物肉の言い換え表現

※「かしわ」や「山くじら」は、思想・言語的な背景に異なる部分が多いため、本記事では深掘りしません。

このうち「ぼたん」「もみじ」「さくら」などは、

肉そのものとは一見関係のなさそうな植物の名前

が付けられています。それぞれの名前にはどのような由来があるのでしょうか。

さまざまな説がある名前の由来

動物肉の呼び名には、それぞれ複数の由来が伝えられています。

由来としては、

  • 肉の色
  • 季節
  • 文学
  • 言葉遊び
  • そして肉食を直接表現しないための隠語

などが挙げられることが多いですが、その説明は一様ではありません。

古くから人々の間で使われてきた言葉では、後世になって由来を説明する説が加わることもあります。

補足:婉曲(えんきょく)とは

言い換えられた動物肉のような表現は、婉曲表現と呼ばれることがあります。

婉曲表現とは、

あるものを直接的に表現せず、別の穏やかな言葉に置き換えて表現すること

です。

これは特別な昔の文化ではありません。

たとえば現代でも、

  • 「死ぬ」ではなく「亡くなる」
  • 「便所」ではなく「お手洗い」
  • 「クビになる」ではなく「職を失う」

など、私たちは場面に応じて直接的な表現を避けています。

指している出来事そのものは大きく変わりませんが、言葉を変えることで、それを聞いた人が受ける印象は変わります。

動物肉の呼び名にも、こうした「直接言わない」という言葉の働きを見ることができます。

なぜ肉に別名が付けられたのか ― 避けられた直接表現

動物肉には別名があり、その由来は諸説ありましたが、

そもそもなぜ肉に別の名前が付けられたのでしょうか。

本節では、その思想的な背景を辿ります。

忌避された肉食

肉を直接表現することが避けられた背景の一つとして、日本に長く存在した獣肉を忌避する意識が考えられます。

日本では、仏教の殺生を避ける考え方や、死・血を遠ざけようとする清浄観など、いくつかの考え方が重なりながら、獣を殺して肉を食べることに否定的な意識が形成されていきました。

「食の禁忌」には、どのような思想的背景や価値観があるのでしょうか。
💡関連記事:なぜ宗教は食べ物を制限するのか ― 食の禁忌に見る世界の価値観

ただし、これは「昔の日本人は肉を食べなかった」ということではありません。

肉食が避けられる一方で、狩猟は行われ、鹿や猪などの肉も食べられていました。

江戸時代には、滋養や薬効を理由として獣肉を食べる「薬食い」という考え方も見られます。
つまり、肉食を好ましくないものとする価値観と、実際には肉を食べる生活が併存していたと考えることができます。

もしかすると、

  • 肉食を直接語りにくい社会的背景の中で、
  • 肉を別の言葉へ置き換える表現文化が広がっていった

のかもしれません。

遠ざけられた死や血

肉は、もともとは生きていた動物です。

現代のスーパーでは、肉はきれいに切り分けられ、パックに入った「食材」として並んでいますが、狩猟した鹿や猪を食べる場合、その背後にある動物の死や解体は、現在よりも身近なものでした。

「鹿」「猪」という動物の名前をそのまま使うことは、食材になる前の動物そのものを意識させます。

それを「もみじ」「ぼたん」と呼べば、同じ肉を指しながらも、言葉から受ける印象は大きく変わります。そこには、肉食をめぐる禁忌だけでなく、死や血と心理的な距離を置く働きを見ることもできるでしょう。

日本で死がどのように捉えられ、なぜ穢れと結びついてきたのかについては、別記事で詳しく整理しています。

死を穢れ(けがれ)とする神道 ― 忌引き休暇に繋がる日本人の価値観
神道では死を特別な穢れと見なします。忌服令、御霊信仰、皇室儀礼などの具体事例から、現代まで続く宗教的な価値観を探ります。

なぜ花や自然の名前が使われたのか ― 美しい表現への変換

肉を直接表現しないことだけが目的なら、まったく関係のない符号隠語を使うこともできたはずです。ところが実際には、紅葉・牡丹・桜と、自然を表す美しい言葉が並びます。

単に「直接言わない」だけではなく、なぜ別の美しいものとして表現したのでしょうか。

本節では、その言語的な背景として、日本語の表現や文化を辿ります。

美称 ― 美しく、好ましく表現する

美称(びしょう)は婉曲と似ていますが、少し重心が異なります。

婉曲表現では、

直接的な表現を避ける

ことが中心になります。

一方、美称では、

人や物を美しく、好ましい言葉で表す

ことが中心で、人や物をほめたたえたり、美化して呼ぶ名称などにも見られます。

そして一つの言葉が、その両方の性質を持つこともあります。

たとえば鹿肉を「もみじ」と呼べば、「鹿の肉」という直接的な表現を避けながら、同時に秋の山を彩る紅葉という美しいものへ置き換えることができます。

猪肉の「ぼたん」や馬肉の「さくら」も、同じように見ることができます。

そこでは単に隠すだけでなく、美しく整えるという言葉の働きも感じられます。

花鳥風月 ― 自然の中に美しさを見つける

こうした表現を考えるうえで、日本文化に古くから見られる花鳥風月も興味深いものです。

花鳥風月(かちょうふうげつ)とは、文字通りには花・鳥・風・月といった自然の風物を表します。そして、そうした自然や季節の変化を眺め、その美しさや情緒を味わうことも意味します。

春には桜、秋には紅葉。

月を眺め、鳥や虫の声から季節を感じる。

日本では自然や季節が、長いあいだ和歌や俳諧、絵画、庭園など、さまざまな文化表現の題材となってきました。

和歌などにみられる「鹿」と「紅葉」は、それぞれ独立した動物と植物として描かれているだけではなく、二つが組み合わさることで、秋の山の情景や、そこから感じ取られる寂しさなどまで表現されているとも捉えられます。

鹿肉を「もみじ」と呼ぶ一見不思議な言葉も、こうした自然と人の感情を結びつけてきた文化の中に置いてみると、また違った姿が見えてきます。

もちろん、肉の呼び名が「花鳥風月という考え方から生まれた」ということではありません。

ただ、花や季節、自然を表す言葉が肉の呼び名にも現れ、それが長く使われてきたことは、自然の中に美しさや情緒を見いだしてきた日本の表現文化と重ねて考えることができます。

言葉の背景にある価値観

「もみじ」「ぼたん」「さくら」。

現代から見ると、少し風変わりな肉の呼び名です。それぞれの名前が生まれた事情は異なり、その由来にもさまざまな説がありました。

そしてこれらの婉曲名からは、日本語の

  • 直接的な表現を避ける
  • 忌避されるものから距離を置く
  • 表現を美しく整える
  • 自然や季節の言葉を生活へ取り込む

といった、いくつもの表現のあり方を見ることができました。

現代にも残る「直接言わない」表現

直接的な言葉を別の表現へ置き換えることは、現代の日本語からなくなったわけではありません。

「死ぬ」を「亡くなる」と言ったり、「便所」を「お手洗い」と呼んだりするように、強い印象を与える言葉を穏やかな表現へ置き換えることは、現在でも日常的に行われています。同じ内容を伝えるとしても、どのような言葉で相手に届けるのかまでを含めて言葉が選ばれています。

言葉には情報だけでなく、それをどのような形で受け止めてもらいたいのかという、人と人との距離の取り方も表れます。

言語の背景にある文化や価値観

婉曲表現は日本語だけに存在するものではなく、自然を使った比喩や美称も世界各地に見られます。

しかし、言葉には、それを使ってきた人々の生活や価値観が少しずつ積み重なっています。

「もみじ」が鹿肉を意味する。

そんな小さな言葉の不思議からでも、その言葉が使われてきた時代や文化へ目を向けることができます。そして、普段何気なく使っている言葉について「なぜ、このような表現をするのだろう」と考えることは、その言葉の背景にある価値観や考え方と向き合うことにも繋がります。


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