近年、多くの外国人が日本で生活するようになり、裁判における通訳制度が注目されることがあります。日本の裁判においては、日本語が通じない場合には通訳が必要になります。
なぜ裁判に通訳が必要なのでしょうか?
通訳する人が見つからなかったらどうなるのでしょうか?
本記事では、日本の裁判で重要となる『防御権』の考え方を、法的な根拠から整理します。その上で、通訳の確保や責任・報酬など、運用の実態を確認します。
防御権とは
日本では、裁判によって人の自由や財産を制限することができます。
例えば刑事裁判で有罪判決が確定すれば、懲役刑や罰金刑が科されることがあります。
国家には、人を逮捕し、処罰する強い権限が与えられているのです。
しかし、もし国家が一方的に「有罪だ」と判断できるのであれば、冤罪や権力の濫用を防ぐことができません。
そこで近代国家では、
国家が人を裁く際には、その人にも反論や弁明の機会を保障しなければならない
と考えられるようになりました。
この考え方を支えているのが『防御権』です。
防御権の基本的な考え方
防御権とは、国家から処罰を受ける可能性のある人が、自らを弁護し、反論するための権利です。
例えば刑事裁判では、
- 自分がどのような罪で訴えられているのかを知る
- 証拠や証言の内容を確認する
- 反論や弁明を行う
- 弁護士と相談する
といった機会が保障されます。
これは犯罪者を優遇するための制度ではありません。国家もまた誤る可能性がある以上、一方的な判断によって人が処罰されることを防ぐための仕組みです。
防御権は、近代司法において公正な裁判を実現するための重要な考え方となっています。
防御権の法的根拠
日本国憲法には、「防御権」という言葉そのものは登場しません。
しかし、防御権の考え方は複数の憲法条文によって支えられています。
適正手続の保障(憲法31条)
日本国憲法第31条では、
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」
と定められています。
これは『適正手続の保障(デュープロセス)』と呼ばれる考え方です。
国家は法律に従って手続を進めなければならず、一方的な判断によって人を処罰することはできません。
刑事裁判において被告人へ反論や弁明の機会を与えることも、この適正手続の一部と考えられています。
裁判を受ける権利(憲法32条)
日本国憲法第32条では、
「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」
と定められています。
これは、国家が一方的に有罪を決定するのではなく、裁判所において判断を受ける権利を保障するものです。
裁判を受ける権利があるからこそ、被告人は国家の主張や証拠に対して反論することができます。
弁護人依頼権と刑事被告人の権利(憲法34条・37条)
日本国憲法第34条では、逮捕・拘禁された人に弁護人へ依頼する権利が保障されています。
また第37条では、
- 公平な裁判所による裁判
- 証人を尋問する機会
- 弁護人の援助を受ける権利
などが保障されています。
被告人が十分な防御を行うためには、法律の専門家である弁護士の支援が欠かせません。
これらの規定は、防御権を具体的に保障するための重要な仕組みとなっています。
なぜ裁判に通訳が必要なのか
では、防御権と通訳にはどのような関係があるのでしょうか。
例えば、日本語を理解できない外国人が裁判を受ける場面を考えてみましょう。
起訴状を読んでも内容が分からず、証人が何を証言しているのかも理解できない状態では、反論や弁明を行うことができません。弁護士との相談も十分に行えないでしょう。
この状態では、憲法によって保障された防御権を実質的に行使することができません。
そのため、日本の裁判では日本語を理解できない人に対して通訳が用意されます。
通訳は単なる言葉の翻訳ではなく、被告人が防御権を行使できるようにするための制度でもあるのです。
つまり、裁判における通訳制度は、外国人への配慮として存在するのではなく、
国家が適正な手続によって人を裁くために必要な仕組み
として存在しているのです。
日本の裁判における通訳
防御権を保障するためには、被告人が裁判の内容を理解できなければなりません。
しかし、日本語を理解できない人に対しては、そのまま裁判を進めることはできません。そこで日本の裁判では、通訳人を通じて起訴内容や証言などを伝え、防御権を実質的に保障しています。
では、裁判における通訳はどのように行われているのでしょうか。
通訳の確保
裁判所や検察庁が、あらゆる言語の通訳人を常時雇用しているわけではありません。
そのため実際には、
- 通訳人候補者名簿
- 通訳会社
- 大学関係者
- 過去に実績のある通訳人
などを通じて、必要な言語に対応できる人材を探します。
英語や中国語など利用者の多い言語であれば比較的確保しやすい一方、利用者の少ない言語や少数民族言語などでは、人材探しが難しくなることもあります。
近年ではオンライン通訳の活用も進められており、地域を越えて通訳人を確保することも可能になっています。
通訳に求められる技能
裁判における通訳は、単に言葉を翻訳する仕事ではありません。
例えば、
- 故意
- 過失
- 正当防衛
- 執行猶予
といった法律用語には、他言語に完全に対応する言葉が存在しない場合があります。
また、被告人が裁判の内容を正しく理解できるよう、文脈や制度的な意味を踏まえて伝える必要もあります。
そのため法廷通訳には、
- 高い語学力
- 法律知識
- 正確な理解力
が求められます。
医療通訳や会議通訳と並び、高い専門性が必要な分野のひとつと考えられています。
通訳に求められる中立性と責任
法廷通訳は、検察側や弁護側の立場に立つ存在ではありません。
通訳人に求められるのは、中立的な立場から正確に内容を伝えることです。
例えば、
- 被告人に有利な表現へ言い換える
- 不利な内容を省略する
- 自分の解釈を加える
といった行為は許されません。
また、裁判で知り得た情報には守秘義務も伴います。
ただし、裁判結果そのものに責任を負うわけではありません。
裁判の判断を行うのは裁判所であり、通訳人はその判断に必要な情報伝達を担う立場です。
なぜ翻訳技術の活用が難しいのか
近年では翻訳技術やAI翻訳の性能が向上しており、
「人間の通訳は不要になるのではないか」
という声もあります。
しかし裁判では、単に意味が通じればよいわけではありません。
通訳内容に誤りがあった場合、
- 誰がその正確性を保証するのか
- 誰が責任を負うのか
- どのように誤訳を検証するのか
という問題が生じます。
また、法律用語や証言の微妙なニュアンスを適切に扱うことも求められます。
そのため現在のところ、翻訳技術は補助的な活用に留まり、裁判の場では人間の通訳人が重要な役割を担っています。
通訳の報酬
法廷通訳には高い専門性が求められます。
一方で、報酬については長年課題が指摘されています。
法廷通訳は国家予算から支払われるため、市場原理だけで報酬が決まりません。
そのため、
- 拘束時間が長い
- 準備時間が必要
- 専門知識が必要
であるにもかかわらず、民間の高級会議通訳ほどの報酬にはなりにくいと指摘されることがあります。
法廷通訳人の中には、
- 社会貢献意識
- 専門職としての使命感
- 実績や経験の蓄積
を理由に続けている人も少なくありません。
完全な市場取引というより、国選弁護や司法通訳などの公共性の高い専門業務に近い面があります。
通訳の依頼は断れるのか
法廷通訳人は公務員ではありません。
そのため、裁判所などから依頼を受けた場合でも、
- スケジュールの都合
- 専門知識への不安
- 私生活や仕事との兼ね合い
などを理由に断ることができます。
裁判所は複数の候補者へ依頼を行いながら、必要な通訳人の確保を進めています。
通訳が見つからない場合はどうなるのか
裁判所は、
- 全国規模で通訳人を探す
- オンライン通訳を活用する
- 他言語による通訳を検討する
など、様々な方法で対応を試みます。
もし手を尽くしても本当に誰も見つからなかった場合、国家は被告に対して
「何の罪で訴えられているか」
を理解させられません。
そうなると防御権保障が困難になります。
結果として、
- 公判開始が遅れる
- 手続が停止される
といった可能性もあります。
裁判所は通常、全国規模での人材探索やオンライン通訳など、あらゆる手段によって通訳確保を試みます。そのため実際に手続停止に至るケースは限定的と考えられますが、理論上は防御権の保障が困難となる可能性があります。
日本の裁判制度は、防御権を保障しながら裁判を実施するために、通訳制度の維持と運用を続けています。
補足:通訳確保ができないと起訴できないのか
起訴そのものは、検察官が起訴状を裁判所に提出する行為です。
そのため理屈の上では、通訳未確保でも起訴自体はできてしまいます。
しかし通訳を確保できなければ、防御権の保障が困難となり、公判を進めることが難しくなります。
つまり、
起訴は成立しても、公判が実質的に停止状態になる可能性がある
ということになります。
通訳制度が抱える課題
日本の裁判制度では、防御権を保障するために通訳制度が整備されています。
しかし、その運用には様々な課題も存在しています。
ここまでの制度確認を踏まえて整理すると、以下のような課題が見えてきます。
- 高い専門性と別軸で決まる報酬制度
- 外国人増加・多様化に伴う通訳人材の確保
- 技術活用における正確性や責任の所在
日本語を理解できない人に対しても防御権を保障することは、配慮ではなく、適正な手続を守るために必要な仕組みです。
防御権の考え方がない時代には、国家の判断で一方的に裁かれることもありました。
現代に生きる私たちは、この制度によって守られているともいえるでしょう。
どの国どの時代にも課題は在るものです。
現在の課題の結末は分かりませんが、防御権を守りながら社会の変化に対応していくことは、現代を生きる私たちに求められている課題の一つなのかもしれません。
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