なぜ低俗と見下すのか ― 価値観の思想背景と評価が生まれる構造

なぜ低俗と見下すのか 思想

世の中には、他人の趣味などを「低俗」と位置付けた上、そういった行為を行う人たちを見下すような発言をする人もいます。

それは本当に「低俗」なのでしょうか?
そしてそれは見下されるような事なのでしょうか?

本記事では、低俗・高尚といった価値観の思想的な背景と、その評価が生まれる構造を整理します。

低俗と高尚

最初に、低俗・高尚といった語の確認を行った上で、それらの評価にはどういった思想的な背景があるのかを整理します。

低俗とは

「低俗」は、

  • 「低」=低い
  • 「俗」=世俗・一般大衆・通俗

を組み合わせた言葉です。

つまり直訳すると、

「世俗的で程度が低い」

という意味になります。

ここにはかなり強い「文化的序列」の感覚があります。

誰が低俗と評価するのか ― 「高尚」という前提

「低俗」という言葉は、多くの場合、

「自分たちは高尚である」

という前提を持つ側から使われます。

つまり、

  • 知識人
  • 宗教者
  • 教育者
  • 支配層
  • 芸術・文化エリート

などが、

  • 大衆娯楽
  • 流行文化
  • 性的表現
  • 暴力的表現
  • 欲望に寄った表現

を批判するときに使われやすい言葉でした。

どのようなものが低俗とされてきたか

歴史的には、

  • 歌舞伎
  • 浮世絵
  • 大衆小説
  • 漫画
  • テレビ
  • アニメ
  • ゲーム
  • ネット文化

などは、時代ごとに「低俗」と批判されることがありました。

しかし面白いのは、後世になると、それらが「文化」として再評価されることも非常に多い点です。


つまり、「低俗」は絶対的な評価ではなく、

「その時代の支配的価値観から見た評価」

であることが多いのです。

低俗と高尚の思想的背景

「低俗」と「高尚」を区別する価値観の根底には

「人間には、より望ましい生き方・より高い在り方がある」

という前提があります。
そして、その「高い在り方」を何と考えるかは、宗教・哲学・時代によって異なります。

代表的な宗教や思想などにおいて、どのようなものが評価され、どういった人が理想とされるのかを確認してみましょう。

思想・価値観重視される評価軸理想像
古代ギリシャ哲学理性・知恵・節制理性によって欲望を統御する人
儒教徳・礼・自己修養礼を重んじ徳を積む君子
仏教執着からの解放煩悩を離れ悟りを目指す人
キリスト教(伝統的理解)神への信仰・愛・謙遜神を愛し隣人を愛する人
武士道(近世日本)名誉・忠義・克己私欲を抑え責任を果たす武士
近代教養主義教養・知性・文化学問や芸術を身につけた人
思想・価値観における評価軸と理想

これらは互いに違う思想ですが、共通点があります。

それは、

人間には本能だけではない、「より高い能力」がある

という考えです。

低俗と欲望の関係

多くの思想では、「低俗」は欲望との近さと結び付けられてきました。

例えば、

  • 性欲
  • 暴力欲
  • 支配欲
  • 承認欲求
  • 野次馬性
  • 消費快楽

を強く刺激するものは、「低俗」と呼ばれやすいといえます。

逆に、

  • 理性
  • 思索
  • 節度
  • 教養
  • 精神性

を重視するものは、「高尚」とされやすい傾向にあります。


つまり「低俗」という概念は、

「人間は欲望に流されるべきではない」

という倫理観とも深く結びついています。

低俗が生まれる構造

低俗・高尚の背景を辿ると、そこには様々な思想に基づく評価価値観がありました。

しかし、各思想では理想が示されており、低俗な事を明確に示しているものは多くありません。

明確化される対極 ― 高尚でないもの = 低俗

理想が明確に示されると、その対極もまた明確化されます。

構造として、理想に近いものは高く評価され、その対極は低く評価されやすくなります。

理想とする価値相対的に低く評価されやすいもの
理性衝動・感情だけによる判断
節制快楽への没入
教養無知・浅薄さ
礼儀無礼・粗野
精神性物質主義・拝金主義
共同体への貢献利己主義
自己修養自堕落
理想が明確化する対極

つまり、理想を定めることで、その逆もまた定まってくるという構造です。

高尚な事が定まり、その対極に低俗が浮かび上がるという構造は、正義にも似ています。
絶対善の「正義」を定めると、絶対悪もその姿を明確にします。
💡関連記事:evilという言葉の重さ ― 英単語から見える絶対善の構造

社会に必要とされる評価価値観 ― 構造として生まれる低俗

社会や文化は何らかの評価なしには成り立ちません。

例えば、

  • 勇気は臆病より望ましい。
  • 誠実さは欺瞞より望ましい。
  • 思いやりは残虐さより望ましい。

こうした評価があるからこそ、教育・芸術・法律・共同体などが成立します。

もし本当に

「何も優れていない」

とするなら、

  • 子どもに何を教えるのか
  • 社会として何を守るのか

その根拠が失われてしまいます。

そのため、価値判断そのものは、多くの社会で不可欠といえるでしょう。

価値判断が生まれれれば、そこから高尚と低俗といった評価も生まれることになります。

なぜ低俗と見下すのか

ここまでは、高尚・低俗といった評価がどのような構造で生まれているのかを確認してきました。

ここでは、低俗と位置付けて他者や物事を「見下す」背景を考えてみます。

見下す心理の背景にある「絶対視」

高尚・低俗という語には、明確な序列意識があります。

他者や自分の興味のない事を「低俗」と評価することは、

自分は高尚な存在であり、他者より優れている(他者が劣っている)

という意味でもあり、それは相手を見下している態度といえるでしょう。

その評価の心理的な背景には、評価軸の「絶対視」があると考えられます。

儒教や仏教などでは、「他人より高い位置に立つこと」ではなく、「昨日の自分より少し良くなること」が重要とされています。
つまり本来は、

理想は他者を裁くためではなく、自分を導くためのもの

でした。

しかし、その理想を絶対視して他者を裁くようになると、「見下す」態度として表面化することにも繋がります。その評価軸は絶対的なものだったでしょうか?

その評価軸は絶対か

本記事は、理想を掲げることを否定するものではありません。
また、他者を評価することや、見下すことについての是非を問うものでもありません。

ただ構造を観察し、理解を深めることを目的としています。

普遍ではない評価価値観の前提

理想を掲げ、自身を高尚と位置付け、他者や物事を低俗とする評価の背景は絶対的なものだったでしょうか。儒教や仏教など様々な思想的な背景があり、実に多様な評価軸がありました。

価値を持たなければ、人は何も目指せません。
しかし、価値を持てば、その価値を共有しない人との違いも見えてきます。

その価値観は、相手と同じとは限りません。

低俗と考える価値観の相対化 ― なぜ自分はそう考えるのか

他者の振る舞いや社会の流行などに対して「低俗」と感じた場合には、その背景にある価値観が何であるかを考えてみると、面白い発見があるかもしれません。

将来役に立つことを学ぶことが高尚でしょうか。(学問・礼節など)
目先の快楽に浪費することが低俗でしょうか。(娯楽・流行など)

その背景にはどのような宗教・思想での理想像があるのでしょうか。
そしてそれは絶対的なものでしょうか。

理想と評価の構造

この構造は『低俗』という言葉に限ったものではありません。

段階生まれるもの
理想を定める「こうあるべき」が生まれる
評価軸ができる良い・望ましいが定義される
対極も定義される「望ましくないもの」が見えるようになる
評価軸を絶対視する他者を「見下す姿勢」として現れるようになる
評価軸の絶対視の構造整理

他者を見下す発言をする人のことを、視野が狭いなどとして「見下す」行為は、それもまた低俗と同じ構造で、自分の評価価値観に基づいて他者を裁く行為に他なりません。

他者を見下す行為はどう考えればよいのでしょうか。ひとつだけ”例”を紹介します。
孔子は「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」と説きました。
つまり、自分が「見下されたいか」を考えてみる、という方法です。
💡関連記事:孔子の名言から見る儒学の骨格 ― 学び・人間関係・社会観


人は、自分が正しいと信じる価値観ほど疑いにくいものです。

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