神を信じず宗教から学ぶ – 宗教観 (2024)

宗教観 戯言

日本では政治とか宗教の話はタブー視する傾向が強く、日常生活の人との付き合いの中ではこういったことを会話の中で話すことは少ないのではないでしょうか。そのためか、私も含めて多くの日本人は宗教に対して無知なことが多く、実は自分たちが宗教を信じていることにも気づいていない特殊な民族だと感じます。

私自身は神様のような存在を全く信じず、宗教というものに対する信仰心のようなものを一切持ち合わせていない人間ですが、宗教に魅せられている人の心理状態や、歴史上の出来事に宗教が与えた影響などについては強い興味関心があり、様々な宗教の教えや考え方を学ぶことに積極的です。

今回はそんな私の宗教観や、宗教を学ぶことで得られると感じることなどについて、個人的な見解をまとめてみます。

神も仏も幽霊も信じない現実主義者

宗教と聞くと大抵の日本人の場合、キリスト教とかイスラム教、仏教のような世界的に信者数の多い宗教を思い浮かべることと思います。中には大きな事件を起こして世界中を震撼させたオウム真理教とか、最近政治的にもニュースに大きく取り上げられた統一教会のような新興宗教を思い浮かべる人もいるかもしれません。

日本は長い歴史の中で、宗教が中心となった政治的なトラブルも多く、近現代においても先に挙げた様な事件があったこともあって、国民の感情としては「宗教 = 怖いもの」という先入観が非常に強いように感じます。少なくとも私もその一人でした。

ただ、人生の中で様々な経験をしていくなかで考え方が徐々に変化していき、今は神様などの事を全く信じない現実主義者と言えるような人間になってしまいました。宗教を信じている人からすると無神論者ということになるのかもしれません。「目に見えないものを信じるのは難しい」ことです。特に病気で死にかけた経験の影響もあってか、人の生死すらも地球上の生物の循環の一つの現象と感じる程で、自分の事を客観的に見つめ直しても、なんと情のない無機質な人間なのだと思ってしまいます。

また、宗教を学べば学ぶほどに、宗教が伝えたいことは「神(超常的な力)が存在する事」ではなく、「人々に教えを説く」ことにあると感じ、一層神のような存在を信じることが出来なくなっていきました。日本では、子供に悪いことをさせないために、「鬼が来て食べられちゃうぞ」というようなニュアンスの事を話すことがあると思いますが、宗教の中に語られる神というのは、ここでいう鬼のような役割を果たしている物に過ぎないと考えるようになったと言えます。私の中では、鬼や神には意味はなく、その後の行動を教えるための強制力として架空の超常的な存在を定義したに過ぎないのです。

この考えに辿り着いたことで、宗教の役割を完全に納得したつもりになってしまったため、もう目の前に神様が現れて奇跡を見せてくれでもしない限り、この考えは揺らぐことはないでしょう。

「何故人は宗教を信じるのか」という疑問

何千年も前から人は宗教を信じ続けてきています。

宗教を信じない人間にとって、架空の物語や見えない神様を信じている人の心境は理解しにくいものがあります。そういった人たちの心理にはとても興味があり、宗教とはどのようなものなのかを学びたくなりました。また、企画開発部署の長をしていた際には、「売れる商品」や「話題になる商品」を開発する手法のヒントが、人々に信じ続けられている宗教にもあるのではないかと考えたこともあります。

人は苦しくなると宗教にすがると言います。

日本も歴史の中で、乱世と呼ばれた群雄割拠の戦乱の時代には、一向宗と呼ばれる宗教が大流行し、信仰した人は武器を持ち、命懸けで戦ったと言われています。多くの人は、一向宗が苦しい生活を変えてくれる救いの手であると信じてしまったのです。神様仏様どうかお救いください、というようなお馴染みの台詞があるように、どうにもならなくなった苦境を神のような超常的な力にすがって救ってもらおうというのです。宗教は、悪い表現をすると、そういった人の弱い部分につけ込むような側面があると言えるでしょう。特に金銭目当ての新興宗教などにはよくある手口です。

しかし、平穏な生活をしている人の中にも宗教を信仰している人は大勢います。

こういった人たちの信仰は、日本人が想像する宗教の信仰とは少し異なった感覚だと感じています。彼らの信仰は、どちらかというと「習慣」に近いものでしょう。

鳥居

例えていうならば、日本人が食事をする前に「いただきます」というのと同じ感覚です。「いただきます」は、食材になった生命や作ってくれた人々に感謝の気持ちを表する言葉ですが、紛れもなく日本でのみ行われる宗教の一種です。英訳した場合「Time to eat」とされていることが多いことに、日本人としては違和感しかないわけですが、日本人が他国の宗教や文化を理解するのが難しいように、海外の人が日本の宗教・文化であるこの感覚を理解することは難しいでしょう。

イスラム教徒の人々は、一日に5回神様に祈りを捧げます。日本人からすると、とても宗教的で神様のことを熱心に信じているのだと感じることだと思いますが、彼らの中では毎日の事なので既に習慣化している普通の事なのです。ゲームをしていて礼拝の時間に遅れて親に怒られたりする若いイスラム教徒の話を聞いたりすると、形は違っても日本と同じような常識の教育であり習慣の一つなのだと感じます。

世の中には、神様を心から信じてしまっている悩みを抱えた熱心な信者もいれば、生活の中に宗教が溶け込んで習慣化したような人まで、様々な形で宗教を信仰している人がいると言えるのではないでしょうか。

歴史と宗教は表裏一体

私は学生時代から歴史に興味を持っていました。学生時代の友人から勧められてプレイしたゲーム内のキャラクターが、実は実際に存在した人ということを教えられて驚き、そして興味を持ったことがキッカケでした。最初は戦史に登場する人物や出来事などを中心に、まるで英雄譚を知るようなワクワクした気持ちで歴史を学んでいました。

歴史はすべてが繋がっていて、戦史を学んでいくと、その前後には戦とは関係のない政治的なトラブルや宗教的な因縁などが関わってくることもあります。特にヨーロッパなどの戦史では宗教の影響が強く、キリスト教と政治との主導権争いなども有名です。日本でも先に少し触れた一向宗だけでなく、安土桃山から江戸初期にかけてのキリスト教による植民地政策や、それに対抗する伴天連追放令のような措置などは、とても興味深い動きだと感じます。特に2024年は、Disney+で真田広之のShogunが世界的に大ヒットしたこともあって、「ポルトガル・スペインのキリスト教による世界植民地化」が多くの人に改めて知れ渡ったことは、日本人として不思議と喜ばしく感じてしまいます。

戦史に登場する人物や事件だけを知ろうとすると全容の理解が難しく、歴史を正しく理解しようとすると宗教を避けて通ることは難しいと言えるほどに、世界の歴史は宗教と密接な関係にあると感じます。

宗教は人の倫理を定義する

仏教には仏法僧という考え方があります。私はこの考え方が、宗教を理解する上でとても分かりやすいと感じています。よく知らない宗教的な事象と向き合う際には、仏教の仏法僧に当てはめて考えてみることで、より早く理解することができたりします。

仏法僧は、宗教的な説明を抜いて分かりやすくまとめると、以下のような解釈で概ね問題ないのではないかと思っています。

区分内容
仏(超常的な力)の定義
仏の作り出した世界の定義
世界の中で生きる人の行動指針
仏法僧の解釈

この仏法僧の区分けは、ほとんどの宗教に当てはまるため、その宗教が何を人々に説こうとしているのかを見極めるのにとても便利なのです。仏法の部分は、架空の定義なので個人的には殆ど興味もなく意味がないものと位置付けており、重要なのは僧の部分であると考えています。イエスもムハンマドもお釈迦様も、人々に対して僧の部分を伝えるために、存在しない神や仏という超常的な存在を定義したのだという解釈です。

宗教を学ぶ際には、その宗教の教えが「人々に何を説いているか」を見極めることが非常に重要だと考えます。

キリスト教の教えの基を説いていたイエスや、イスラム教を広めたムハンマドが、何故当時としては画期的すぎる知恵を得ることが出来ていたのかは分かりませんが、彼らの教えはとても先進的で多くの人の苦難を救ったことは間違いないでしょう。こういった現象は、宗教的には奇跡ということになるのかもしれませんが、合理的に考えると違った解釈になります。

ひとつ例を挙げて考えてみます。

イスラム教で豚肉が禁止な合理的な解釈

イスラム教徒は豚の肉を食べることが禁止されています。その他にもお酒がダメだったり、飲食に関する規制が色々と多く、イスラム教徒の人が食べられるものだけを使った食品をハラルフードと言い、最近では日本でも取り扱ってる商店などもあるそうです。

豚の肉が禁止であることは有名ですが、ムハンマドが豚の肉を禁止にした理由については誰も分かりません。そのため、歴史学者や宗教学者など様々な有識者が今も想像・妄想しつづけています。ムハンマドは預言者ということで、神様のいう言葉を預かった人とされています。つまり、神様が豚肉を食べることを禁止すると言っていたということになります。とても庶民的な神様だと感じますが、そのことを信じて豚肉を絶対に食べないイスラム教徒の人たちは純粋に「凄い」と感心してしまいます。

豚肉

ムハンマドが豚肉を禁止した理由には、現代ではいくつか合理的な理由が挙げられています。

特に有力な説としては中東の厳しい気候における食料難への対処として、雑食性の豚の飼育を止めさせることで、人の食料を確保するというものです。豚肉は美味しいですが、一人が満足する量の豚肉を生産するためには、豚の成育に十人分以上の食料を与えなければならない程に、豚はエネルギーロスが多い家畜です。つまり、食糧難が続いていた中東で、豚の飼育を禁止にすれば、大勢の人を飢餓から救うことができたのです。これはとても合理的な理由ですが、理屈だけでは従わない人もいるかもしれません。しかし、神が定めているのだと宗教的に定義することで、従わざるを得ない強制力を生み出したとも考えられます。

また現代では、豚肉は十分に火を通して食べなければ寄生虫などの危険性がある、と知られていますが、当時はもしかしたら豚肉を食べて体調を悪くする人などもいたのかもしれません。そういった危険性を排除するためにも豚肉を食べたり飼育することが禁止されたのかもしれません。

ここでひとつ大事なことについて言及しておきたいと思います。

宗教のアップデートがされない問題

ムハンマドの時代には禁止するしかなかった豚肉ですが、現代ではそれらの対処が十分に可能となっていると言えるでしょう。もし、上述のような理由でムハンマドが豚肉を禁止したのであれば、現代においてはそれらの問題点が解消して食べても良いということになります。

しかし、イスラム教を含めて歴史ある宗教がアップデートされることはありません。そのため、現代においても信者の方々は律義に豚肉を避けた食生活を続けています。個人的にはこの宗教の在り方については疑問があり、もっと合理的に振舞えるように、適切なアップデートをしていくべきだと感じます。でなければ、人々の倫理観は1000年経っても2000年経っても同じままということになってしまうのではないでしょうか。

この問題は、イスラム教でいうとアフガニスタンのタリバンの方針などで、理想と現実の乖離が表面化しているようにも思います。アフガニスタンを実効支配しているタリバンは、イスラム原理主義ともいえる、元来のイスラム教を忠実に守ろうとする人たちで構成されています。それに対し、アフガニスタンに暮らす人々は、現代に合わせて徐々に緩んできたイスラム教を信仰する人たちです。タリバンの実効支配がはじまったことで、アフガニスタンに暮らす人々は、窮屈な従来のイスラム教に則って生活することを強制されています。特に女性は、頭部を隠すためのヒジャブでは不十分とされて、顔まで隠れるブルカの着用が義務付けられるなど、日々の生活にも多き影響があるようです。

宗教を知ることで、日本以外の「常識」を知る

2024年現在、世界の半分以上の人口がキリスト教かイスラム教の信者となっています。

宗教は道徳や倫理観と密接した関係にあり、それらはいわゆる「常識」と呼ぶものに近いものです。他人に優しくしろとか、年長者を敬うべきといった考え方は、日本だと当たり前の「常識」ですが、こういった考え方は道徳であり倫理観であり、そしてその由来は間違いなく宗教です。日本のこういった倫理観の多くは、中国から伝わってきた「儒教」に由来しています。逆に言うと、儒教以外の宗教を信仰している人たちは、こういった価値観を持っていない場合がある事を念頭に置いておく必要があるという事です。

日本にずっと住んでいて、日本人だけのコミュニティーで過ごしていれば、日本の常識や倫理観だけでトラブルもなく平穏に過ごすことができます。しかし、今やインターネットなどを通じて海外の人と接する機会はとても増えていて、一般の人の生活の中にも海外の価値観や倫理観を身近に感じることも多いでしょう。特に都市部では外国からの旅行者や移住者も増えてきていて、異国情緒あふれた風景になりつつある場所もあると聞きます。そういった海外の方たちは、日本とは異なった価値観や倫理観で行動するため、時には日本人として不快に思うこともあるでしょう。過激なネットの意見では国に帰れとか日本から出ていけといったような意見も目にすることがある程です。

日本では、日本の倫理観や常識が「最善」と考える風潮が強いように思いますが、今が最善と考えてしまうとそれ以上の発展や進化の道は失われてしまいます。先に述べた様に、もう豚肉は食べても良いのに禁止し続けるような事態になることもあるでしょう。日本の倫理観が最善だと考えるのではなく、他の倫理観や常識の中にも「学ぶべきことがあるのではないか」と考え、理解しようと努めた先にこそ、よりよい社会を形成するための優れた倫理観や道徳、価値観があるのではないか、と私は考えるのです。

観光客

日本国内において、他人を敬わないような行動をとる外国人の事を擁護しようとしているのでは決してありません。

私はそんな人間は心から願い下げで、できれば強制退去か収監か極刑でいいとすら思うような人間です。私は日本の儒教の教えには不満に思うところも多いですが、他人への気遣いをしてお互いが思いやる、そんな日本人の心を形成している重要な役目を担っているとも感じていて、そんな日本の気質は心地よく思っています。他の宗教でも、例えばキリスト教でも目上の人を敬うべきといった考え方があるなど、似た様な教えも存在している場合もあります。しかし、こと他人への精神的な配慮において、日本の儒教に勝るものはないのではないでしょうか。

ちなみに、世界的に恐れらることが多いイスラム教においては、他人のために金銭的な援助をすることが義務化されていて、日本の儒教よりもより実用的なところで他者への配慮が常識とされているわけですが、残念ながら日本人の多くはこの事実を知らず、知ろうともしないでしょう。

宗教を知ることで世界の理を知る

歴史、現代の人の倫理観、そして様々な文化にまで広く深く影響している宗教は、学ぶことで世界の理を知ると言っても過言ではないでしょう。

最初の興味は歴史という切り口でしたが、歴史はすべてに通じていて、日々の生活や文化的な物など全てに歴史があります。今は、そういった事も含めて全てが興味・関心の対象となっています。宗教もその一つです。

宗教という言葉を辞書などで調べると、超常的な存在に基づいて定義された制度や儀式、文化といった説明がされています。しかし、日本人の倫理観の基になっている儒教は、超常的な存在を定義することなく、人々の行動指針を示していて、分類上は宗教ではあるはずなのに、日本では儒学といった学問として伝えられています。そのため、今を生きる日本人にも宗教を信じているという感覚は欠落してしまっています。本居宣長の鳴らした警鐘(儒教の最大の危険性は信仰した人が宗教を信じていると認識しない事)は、300年越しに的中してしまったともいえるでしょう。

宗教や歴史を学ぶことで、過去の事象を理解できるようになるだけでなく、現代に起きている様々な社会的な動きの事もより一層深く理解できるようになると感じています。諸外国との外交だけでなく、外国の事件やニュースなどにも宗教や歴史に関連した事柄が多いためです。

冒頭に述べたように、宗教と聞くと日本人は怖いものという感覚が先に立って敬遠してしまいがちですが、他人への配慮ができるようになるためにも相手の宗教(倫理観や常識)を理解しようとすると考えれば、受け入れやすいと感じる人も多いのではないでしょうか。日本人は、相手の立場になって考えて「おもてなし」をする民族として知られていて、それは日本を訪れた外国の人たちに好意的に受け止められていると聞き及びます。同じ日本人として誇らしいと感じますし、自分も同じように振舞えるように、できるだけ多くのことを学びたいと思うのです。