繰り返されるオールドメディアの終焉 – 50年前のヒット曲 video killed the radio star

オールドメディアの終焉 戯言

執筆時点は令和7年(2025年)ですが、今から約50年ほど前に「テレビの登場でラジオが終わった」ことを風刺したヒット曲がある事をご存じでしょうか。

インターネットやSNSの登場によって、テレビや新聞といったマスメディアがオールドメディアと呼ばれ、役目の終わりが囁かれるようになっています。テレビで育ってきた世代にとっては信じられないような時代の移り変わりかもしれませんが、実は古くなったメディアが終焉を迎える歴史は繰り返されているのです。今回は、令和の現代から、現在の後期高齢者が社会で活躍していたころまで時代を遡りながら、メディアの変遷と情報社会について見つめ直してみます。

インターネットとSNSで変わる情報社会

30年前の1995年にWindows95がリリースされて以降、急速に普及が進んだ個人用のパソコンとインターネットは、情報の在り方と共に私たちの生活を大きく変化させつつあります。

新聞とテレビが主な情報入手の手段であった昭和・平成の時代から、インターネット経由で情報を入手するのが一般的な社会へと変化し、そして令和の現代ではスマートフォンとSNSなどを活用することで、世界中の人々が体験している些細なことまで即時に知ることが出来る程に情報の質や量が高まりつつあります。

一方、テレビや新聞といったメディアは、人類全体がメディアの発信元であるインターネットやSNSと比較して情報の量や質、そして公平性などの面で批判されることが多くなってきています。

発達した情報化社会が政治を変えつつある令和時代

特に日本でのメディアへの批判が高まることになったキッカケは、2024年の東京都知事選に出馬した石丸氏のメディアへの指摘や、兵庫県知事選でのオールドメディアとネットメディアの情報の差などが記憶に新しいです。

テレビなどの公共性の高いメディアは、選挙などの政治に関する報道において公平性を保たなければならず、最も有権者が候補者の情報を必要とする選挙期間中には報道を自粛する動きがあり、選挙期間前にはメディアの主観による候補者の番組などが報道されるため、特に東京都知事選における女傑対決のような煽り方は公平性に欠けるとして、他の候補者から批判の的になりました。

一方、インターネットやSNSを通してなら、選挙期間中であっても有権者は最新の情報を得られるため、有権者はインターネットを通じて情報を集め、候補者はYoutubeやXなどのネットメディアを駆使して政策や候補者をアピールするという動きが広がり、従来通りの街頭演説などと合わせてネットメディアもうまく活用した国民民主党は、衆議院総選挙で議席を4倍に伸ばすという快挙を成し遂げました。

国民がテレビや新聞といったメディアを鵜呑みにするのではなく、自発的にインターネットから情報を収集して投票行動に繋げるような、新しい情報化社会が形成されつつあります。

拡がるオールドメディアへの批判

2024年の3月から10月くらいにかけて、兵庫県知事の斎藤氏に関する疑惑などの報道が、テレビや新聞などを中心に繰り広げられていましたが、インターネット上でそれら報道が正確でないという情報が広がっていき、全会一致で不信任決議を可決された斎藤氏が再選を果たすという驚くべき結果に繋がりました。これは、多くの有権者が、テレビや新聞といったオールドメディアの報道よりも、インターネット上の情報を真実と判断したことを意味します。

この結果は、一つの県の知事選挙といった小さな出来事ではなく、テレビや新聞といったメディアへの信頼が失われたという点で、非常に重要です。

少なくとも昭和平成を過ごしてきた人間にとって、情報の主な入手元であった「テレビや新聞を疑う」という行為は考えにくいものでした。しかし、インターネット経由の情報によって、従来のメディアの情報の不審な点が見えてきたことで、そういった信じてた人たちが疑いを持ち始め、中にはテレビの報道は信用ならないと断言する人まで出てきているほどです。一度失った信用は、簡単には戻すことが出来ません

信頼関係

追い打ちをかけるように、フジテレビの一連の対応によってメディアへの不信感は一層高まることとなり、USAIDに関する報道がされないことなどからメディア各社の恣意性や政治との癒着などが次々に国民の知るところとなり、放送権をはく奪すべきという過激な声も聞こえてきます。

テレビは洗脳装置とか、核兵器よりも怖い武器であるといった陰謀論のような言葉だったものが、実は現実で、私たちは騙されていたのだと考える人が増えていっているようです。

避けられない恣意的な視点

テレビや新聞は、恣意的になることは避けられません。

テレビや新聞といったメディアは、企業として報道番組を制作し、広告などで収益を得るビジネスモデルが一般的です。この形態である以上、広告主が生命線なため、例え報道すべきような事柄があったとしても、広告主に不利益があるようなものを報道するわけにはいきません。それは、自身の首を絞める事と同じことだからです。

またこの逆で、広告主や一部関係者が利益を得るのであれば、あえて一部の情報を伏せて視聴者を誤解させるといった虚偽報道すれすれの事も行うことができます。これは資本主義社会において、企業が利益追求をする行為で、当然の事でしょう。嘘は報じておらず、自分たちに有利な情報のみを報道しているのだから、法を犯しているのではないという理屈です。これは過去の話ではなく、今日報道されている内容もこのスタンスであり、同じ体制である限りはこの宿命からは逃れられないでしょう。

一方で、SNSなどのネットメディアでの発信も恣意性の塊のようなものですが、大きな違いは「主観も多ければ客観になる」という点でしょう。

今となっては、スマートフォンやパソコンを持っているだけで、誰でも情報を発信できる時代です。一つの主観に対して、数多くの主観が賛同や批判を発信し、それらは大きなうねりとなり、一つの客観性を持つに至ります。その過程において、虚偽情報も淘汰され、自然と真実へと近づく自浄作用も持つようになりつつあります。

オールドメディアや一部関係者の利益のための報道ではなく、人々の手による客観性の高い真実の情報こそが、現代に生きる人々に求められているのです。

50年前のテレビとラジオの入れ替わり

オールドメディアの終焉が囁かれる昨今ですが、実は50年前にも同じようなメディアの入れ替わりが起きています。

令和の現代においては、一部愛好家たちの間でのみ楽しまれているラジオですが、50年前までは紛れもなく情報メディアの中枢でした。日本が先の大戦での敗戦した際に、天皇陛下が国民に呼びかけた玉音放送がラジオで行われたことからも、ラジオが重要な情報インフラであったことが伺えます。

その後日本は高度経済成長と呼ばれる大きな発展を遂げることになり、その過程で白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫といった生活家電は三種の神器として急速に普及しました。テレビが普及したことで、国民の情報入手手段はラジオからテレビへと移行が進みました。

この現象は、日本だけでなく世界的に起こっており、海外ではそのことを歌った曲がリリースされ、世界的なヒット曲にもなっています。

Video killed the radio star – The Buggles –

Video killed the radio star(邦題:ラジオスターの悲劇)というヒット曲は、The Bugglesというイギリスのバンドが、1979年にリリースした曲です。タイトルからも分かる通り、Video(テレビ)の登場によって、Radio star(ラジオのスター)がkilled(殺された・仕事を奪われた)といった時代を風刺したような歌となっています。アメリカのケーブルチャンネルであるMTVで最初に放送された音楽ビデオとしても有名です。

ラジオで活躍していた人たちは、テレビの登場によって仕事を奪われはしたが、とても素晴らしい時代だったという賞賛を歌ってはいますが、それと同時に時代は変わったのだという強烈なインパクトもある曲でもあります。

それまでラジオから流れてくるしかなかった音楽が、映像付きで見られるようになったことは、大きな衝撃だったに違いないでしょう。また、新しい表現が可能になったことで、多くの人の制作意欲が掻き立てられ、音楽に限らず様々な映像作品が生み出されることにもなりました。

音楽・芸術に刻まれる時代の変化

昔は曲をリリースしたら、人に届けるためにはテレビやラジオで広報宣伝する必要がありましたが、今はYoutubeやX(旧Twitter)などのサービスを通して、比較的容易に人々に音楽を届けることが出来るような時代になりました。

「インターネットがテレビを殺した」という趣旨の曲がリリースされる日も近いのかもしれません。その曲がヒットした場合、テレビなどのオールドメディアはその情報を報道するのでしょうか。

難しい歴史書などではなく、こういった気軽に触れることができる音楽などの芸術にも、その時代の移り変わりが見られることは、非常に興味深いものです。そういった風刺に特化した芸術ジャンルがあっても面白そうです。特に後世において、貴重な情報に成り得そうにも思います。

令和の高齢者はラジオ~テレビ~SNSの変化と共に生きた人

昭和の高度経済成長以降、私たちの生活レベルは大きな変化を続けています。現在の後期高齢者(80代~)の人たちが幼いころの日本では、薪を拾って釜戸でご飯を炊いていたことや、冷蔵庫もない生活をしていたことが、令和を生きる私たちからすると想像が難しいものです。

日本に電気が張り巡らされたのは、明治時代後期に最初の発電所が出来て以降で、戦後しばらくは「電気と言えば電灯」という時代です。便利な家電製品が流通するのは昭和30~40年頃の話で、それまでは夜ご飯はお櫃(おひつ)から冷めた米を取り出して食べるような食生活だったわけです。上に紹介した曲は、そんな白黒テレビが流通した後カラーテレビに変化していった昭和50年代(1975~)の曲です。

現代の80代以上の人は、幼少期はラジオ、大人になって働いてテレビを購入し、定年退職する頃にはパソコンとインターネットの変化に食らいつき、そして今スマートフォンとSNSの時代を受け入れて活用しているのです。この劇的な変化を体験してきた人たちは、現代のメディアの変化をどのように受け止めているのでしょうか。

また、時代の最先端を活用しているつもりの私たちにも、必ず同じようにメディアの変化の波は訪れることになることを覚悟しておかなければなりません。

変わらないものはない

令和の現代を生きる私たちにとって、今や当たり前となっているインターネットやSNSですが、これらが普及してからまだ30年程しか経っていないこと、そして50年前にラジオからテレビへメディアが移行したことが歌われていることからは、メディアや情報社会が急速に変化していることが分かります。一つの世代で一つのメディアが台頭していると言っても良い程のペースなので、次の子供たちの世代には新しい形態のメディアが主流となっているかもしれません。

今のインターネット世代の人々は、昔に比べるとサービスの盛衰などに対応していることもあって、比較的柔軟な対応が可能な人たちが多いように感じますが、私たちも次の世代に老害と言われないように、社会の変動についていく必要があるでしょう。

インターネットやSNSは永遠に続く恒久的な情報インフラと感じている人も多いかもしれませんが、間違いなくテレビも同じように不変の情報インフラだと思われていたと断言できます。しかし実際には、より便利な技術やサービスが登場すれば、簡単にそれらは入れ替わってしまうのです。平家物語という古い軍記物語にも述べられているように、この世のものは諸行無常(変わらないものはない)なのです。また盛者必衰(盛んなものは必ず衰える)がこの世の理でもあると言われています。どれだけ流行って覇権を取っていたとしても、それらはいずれ衰えてしまい、努力を怠ればその時期は早まるものなのです。

SNSの規制などをすることでメディアの入れ替わりの動きを抑制しようとしている動きもみられますが、今オールドメディアに必要なのは、ラジオがそうしたように、生き残るためにメディアとしてどうあるべきかを本気で考える事でしょう。

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