日本語の奥深さ – 英字幕で感じる情報の欠落

日本語って奥深い 雑学
日本語って奥深い

私は英語を勉強するのは好きですが、英語で会話をするのは得意ではありません。仕事上英語のドキュメントを読むことが多い人生を歩んできたため、文章を読み解くことはできても、英語を聞き取って瞬時に英語をアウトプットするという能力が育たなかったようです。

そんな私も英語を聞き取ることが徐々にできるようになってきて、ここ最近は日本語音声や日本語字幕のないコンテンツもそれなりに楽しめるようになったのですが、そんな日々を送るようになってから初めて感じるようになった「言語の違い」について、今回は記事にしてみたいと思います。

「言語と言語」の関係性に関する大いなる誤解

現代日本において英語の学習は義務教育に含まれています。単語や文法などを中心に学ぶそのカリキュラムについては、英語を話せるようにならないと批判されることもありますが、少なくとも私たちは、英語という言語が存在し、どういった構造をしている言語なのかを知ることができています。

英語という言語を学生時代に学び、その後も社会人生活をしていく中でも多くの英語と触れ合う機会がありましたが、その間ずっと誤解していたことにようやく気付いたのは一般的に中年と言われるくらいまで歳を重ねた後でした。

1対1ではない – 必ず対応する翻訳があると思っていた大きな誤解

日本の英語学習では英語を日本語に訳して学んでいきます。そのため、英語に対して日本語の訳があるのが当然という固定観念が出来上がってしまっており、「訳がない・適切に訳することができない」といったことが「言語と言語」の間で起きるていると思いもしていませんでした。

私は言語学について研究しているわけではありませんが、この誤解は、多くの日本人が抱える「英語を話せるようにならない」という現象の要因だとも考えるようになりました。

言語というのは、物事や動作、感情など「根源的な何か」を伝えるための「ツール」であって、異なる言語はその作られた経緯も異なるため、ツール間に直接共通項があるわけではなく、「根源的な何か」を経由して繋がっているだけというものだったのです。

そのため、言語を学ぶ際には、自分の言語に訳してから咀嚼するのではなく、「根源的な何か」イメージのようなもので直接理解しなければならなかったのです。

正直この誤解が溶けた状態で、もう一度人生の英語学習を最初からやり直したいと感じる程に衝撃でした。

日本語から英語で情報が欠落していると感じた瞬間

近年では英語学習をサポートする様な動画コンテンツなどをYoutube等で簡単に視聴することができるようになっています。私たちはそれらのコンテンツのほとんどを無料で体験できる環境に生きています。

そういったコンテンツの中には、上記のような誤解を解こうと様々な方が色々な表現方法でアドバイスをしてくれているものが有るにも関わらず、結局自分でその場面に遭遇してみなければ理解できなかったようです。自分の理解力のなさにも驚き、絶望に限りなく近い失望を感じたものです。

特に私が顕著に日本語からの情報欠落を感じたのは、「海外の人が、日本語の動画を英語字幕で視聴する」ということを「リアクション動画」などのコンテンツとしてYoutube等に公開しているものを観た時です。文字にするとややこしいですが、洋画を日本語字幕で観ているのとは違い、「邦画を英語字幕」で観ている感じに近いです。さらにそこにリアクションの英語コメンタリーがついたようなものでしょうか。

最初は日本の文化だったり日本人の考え方について、海外の人がどのように感じるのかといった単純な興味でしたが、英語についてもとても勉強になると感じています。

具体的に英語で情報が欠落してしまっていて「残念」だと思ったのは以下のような状況です。

日本語の様々な一人称 – ほぼ100%の情報ロスが起きる

ありきたりで私自身も知っていたことではありますが、英語の一人称は’I’ か、頑張っても’me’くらいです。それに対して日本語では多様な一人称があって、それぞれとても個性に溢れています。海外でも好評な日本のアニメなんかだと、キャラクターの個性を表現するために、「僕」や「オレ」といった表現が用いられますが、当然英語では全部 I となってしまうわけです。

弱った主人公が「僕は…」と言っても英字幕では「I…」となっていて、それを再度日本語に直したら「私は…」みたいになってしまい、最初のニュアンスが欠落してしまいます。この英字幕で観ている海外の視聴者には、日本語のオリジナルなニュアンスが正しく伝えられていないと感じた時に「残念」と感じてしまうのです。

Wikipediaによると日本語の一人称の数は現在でも分かっていないそうです。方言や文学作品などでも新しい表現が生み出され続けているからか、定量的な計測が難しいのかもしれません。

2024年に世界的に大ヒットしたDisney+のShogunですが、Hollywood作品なのに台詞の7割が日本語で英語字幕という思い切った構成でびっくりしました。しかしこの作品でも同じようなことを感じてしまうのです。特に時代劇なので現代日本語よりも一層奥ゆかしい表現が盛りだくさんで、一人称以外も含めて言語の差による「はがゆさ」のようなものを感じてしまうのです。

敬語、謙譲語、丁寧語 – 英語にも丁寧な表現はあるけど…

この残念さは本当によく感じます。日本語は本当に丁寧な表現が豊かです。豊かすぎるくらいで、逆に海外の人が日本語を学ぶのは本当に難しいだろうなと思うのです。

特にこの丁寧さについて残念に感じるのは、複数人で会話をしているような状況です。

例えば、主人公が「同級生」と「先輩」と3人で話しているような状況の場合、「同級生」については普通の話し方で、「先輩」に対しては丁寧な口調で会話するといった表現がされることが多いですが、英語にするとどちらも通常の会話になってしまっていることが多いのです。

会話の中の言葉遣いでお互いの関係性が表現される日本語では、敬意を持っている、遠慮しているといったニュアンスが台詞から感じられますが、英語字幕になるとそのニュアンス自体が失われてしまっていて、本当に残念な気持ちになります。

以下は日本語敬語表現の豊かさの一例です。

動詞の「言う」という言葉は、英語では[say]と表現できます。日本語の尊敬語の「仰る」や謙譲語の「申し上げる」という敬語表現は、英語では該当する言葉がないので翻訳すると同じ[say]になってしまいます。Google翻訳などで、敬語が入った日本語を英語に翻訳すると、敬語のニュアンスは欠けてしまうので、更にその英語表現を日本語に直すと、敬意が失われた日本語となり悲しくなります。

動詞だけでなく、語尾の「…です」と「…だ」などでも、日本語から英語にすると完全に情報が欠落してしまいます。こういった日本語の英訳を見ると、残念な思いと共に日本語表現の奥深さに改めて驚かされます。

余談 : 英語の比喩表現も素晴らしいと感じることも多い

「日本語は豊かで英語は表現力に乏しい」と散々書いてきていますが、逆に英語の方が面白いとか素晴らしいと思う瞬間も一杯あります。特に表現力が少ない事をカバーするためか、英語は比喩的な表現が秀逸だと感じます。日本語でも比喩表現は沢山ありますが、何かの動作を表す文章なのに、使いどころが違うだけで異なる意味をあらわすというものにはいつも驚かされます。

一つだけ印象深かった例を挙げるとすると以下のような台詞です。

I can’t dodge this bullet.

この表現を直訳すると「この弾丸を避けることはできない。」(Google翻訳)です。

私が初めてこの表現を出会った際に使われた日本語の台詞は「言い逃れできない」というものでした。「弾を避ける」を「言い逃れ」の意味で使うとは、とてもお洒落でカッコいいなと思うのです。

「当たり前」の中にある「発見」

まさか英語の勉強を進めていくことで、日常的に使っている日本語の美しさについて気づくなんて思いもしませんでした。当たり前だと思っているところにこそ発見があり、知る必要があるのだと改めて思う日々です。

理解したり気づいてしまうと当たり前の事になってしまうことだと思いますが、日常生活の中でこういったことに気づくことは本当に難しいことだと思います。ここ最近の自分の中では、かなり大きな意識や考え方の変化だったので、今回この件について取り上げてみました。

皆さんも是非、日々の当たり前の中にある不思議を探してみてください。