「侘び寂び」の意味や由来 – 「ミニマリスト」「もののあはれ」との違い

侘び寂び その他雑学

日本で生まれ育っていても、意外と日本の事で知らないことはあるものです。日本語を話していても知らない言葉は沢山あるものですし、歴史や文化の事など知らなくても、日常生活に支障はないのです。

日本の歴史的な芸術などを見ると、その趣や美しさに心を打たれることがあります。そういった古い芸術などを語る際に耳にすることが多い「侘び寂び」について、その内容や由来についてまとめています。日本独特の美意識ではありますが、実は日本以外から入ってきた考えに由来しています。

侘び寂びとは

侘び寂び(わびさび)の概念は、14世紀頃に日本で広まり始め、江戸時代くらいまで掛けて徐々に体系化されていきました。急速に日本で広まった考え方で、建物だけでなく絵画や随筆のような文章にも「侘び寂び」が表現されました。

「侘び寂び」の意味

「侘び寂び」は「侘び」と「寂び」の二つの言葉から成り、それぞれは以下のような意味になります。

言葉意味
侘び質素なものに趣を見出す
寂び時間の経過による変化に美しさを感じる
侘び寂びの意味

「侘び寂び」とは、無駄を極力排して質素とし、その中に美しさを見出します。

「侘び寂び」を表現した代表的な物には、色のない水墨画や殺風景な日本庭園などが挙げられます。

銀閣寺(慈照寺)

14世紀頃の「侘び寂び」の作品としては、1482年に足利義政が東山に建立した山荘である銀閣寺(慈照寺)が有名です。

侘び寂びの語源

侘びは、本来「心細い」といった意味でしたが、そこから「不足の美 : 不足している中に美しさを見出す」といった概念に変化していきました。

寂びは、漢字から分かる通り「寂しい」という意味から来ており、古くなったものに感じる「味わい深さ」のような概念です。

「侘び寂び」の由来

「侘び寂び」は日本の歴史的な芸術などに多く表現されているため、日本独自の価値観と思われがちなですが、意外なことにこの概念は海外の宗教に由来しています。

「侘び寂び」は、中国の宋王朝のころに作られた「道教」に由来した概念です。

道教は日本ではあまり馴染みがない宗教ですが、儒教・道教・仏教の3つの宗教をあわせて、中国の3大宗教と呼ばれます。

儒教と道教の違い

日本は儒教国家と呼ばれることがあります。これは、江戸時代以降に国内で広く儒教教育が行われ、明治維新以降は更に強い儒教思想を国民へ教育することが推し進められたためです。(現代の日本人の倫理観・道徳)

現代日本の道徳でもある「儒教」と、侘び寂びの「道教」には以下のような違いがあります。

宗教特徴
儒教道徳や礼儀を重視し、社会秩序を守る
道教自然との調和、個人の幸福を追求
儒教と道教の違い

分かりやすく現代に例えると、出世して高収入を目指すのが「儒教」、そこそこの収入で自分の時間を大切にするのが「道教」というイメージです。

道教の教えの中には、「質素な生活の中に幸せを見出せばよい」という「侘び寂び」の考え方が含まれています。頑張って立身出世するよりも、人生を大事にすることの方が重要とする道教は、しばしば儒教の反対と位置付けられます。

侘び寂びと「ミニマリスト」「もののあはれ」

日本の歴史や文化の中には、「侘び寂び」と似た様な概念や考え方がいくつかありますので、ここではそれらとの違いを見ていってみましょう。

「侘び寂び」と「ミニマリスト」

近年では、生活に最低限必要なものだけで生活する「ミニマリスト」という生き方が注目を浴びています。殺風景で物の少ない部屋に住んでいる人の様子などを、動画などで見た事がある人もいるのではないでしょうか。

ミニマリスト

ミニマリストの考え方は、物だけでなく時間、情報、人間関係なども厳選し、質の高い生活を追求します。物事を取捨選択する「明確な判断基準」を設けて実行していくため、とても合理的な手法ともいえるでしょう。

「侘び寂び」と「ミニマリスト」は、最小限の価値を大事にするという点では共通している点もあり、無駄を排する考え方も同じともいえます。

「侘び寂び」と「ミニマリスト」の違い

侘び寂びとミニマリストは似ているように感じるかもしれませんが、根本的な概念に大きな違いがあります。

「ミニマリスト」が合理的な価値を取捨選択するのに対し、「侘び寂び」は元々ない価値や美しさを「見出す」概念です。

「侘び寂び」や基になっている「道教」の考え方を論じる際には、必ず特徴的な表現である「見出す」という言葉が使われます。

分かりやすく、現代での例を挙げてみましょう。

質素な生活の中で、「カップラーメンでいい」と合理的な判断をするのがミニマリスト、「カップラーメンがおいしい」と幸せを見出すのが道教や侘び寂びの精神といえます。

令和時代は物価高騰の影響でカップラーメンも徐々に贅沢品になりつつあるため、適切な例かどうかは議論の余地がありそうですが、要は、贅沢な生活を質素にすること自体が目的のミニマリストと違い、侘び寂びでは質素な生活の中に楽しさや幸せを見出し、心豊かに過ごすというイメージです。

「侘び寂び」と「もののあはれ」の違い

「もののあはれ」は、国学者の本居宣長の提唱した日本の美的理念です。

本居宣長は、現代では「古事記伝」の著者として義務教育で習いますが、彼は江戸時代の人々の苦しい日々を憂い、平安時代頃の華やかだった時代の日本を研究した人です。

「もののあはれ」とは、盛んなものが廃れて行くことを惜しむ思いを表しています。

「侘び寂び」が物質的な概念なのに対し、「もののあはれ」は自然や人間関係に触れて生じる「しみじみとした思い」のような精神的な概念という違いがあります。

日本人から失われた「もののあはれ」

「もののあはれ」というのは、現代の日本では耳にすることもない言葉となってしまいましたが、日本に興味を持っている外国人の方の中には、知っている人もいるようです。インターネットの普及が進み、世界中どこからでも様々な情報を得られる時代となったことで、日本の事を知ってもらえる機会が増えたことは、日本人としては嬉しく思うものです。

私の場合、自分の方が外国人よりも日本の事を知らない事は恥ずかしい事だと感じてしまい、こういった話を聞くと、もっと自国の事を学ばなければと改めて思うのです。

侘び寂びを失い、回帰する日本

侘び寂びは、日本の歴史上の文化的な作品に多く見られ、現代の人たちからも「日本らしい」として親しまれますが、日々の生活や人生の考え方には「侘び寂び」の精神は失われています。

自分や国家のために「頑張ってきた」日本人

江戸時代に、国をあげて積極的に儒教(儒学)を教育したことで、日本の識字率も向上し、明治維新後には国家のために粉骨砕身働き、戦後には高度経済成長を果たすに至りました。人々は頑張った分だけ裕福となり、日々向上する生活に満足していたことでしょう。

しかしその一方で、競争に負けた挫折などで人生を諦めてしまうことからか、儒教国家である日本や韓国の自殺率は世界的に見ても異常に高い傾向にあります。近年の日本では、小中学生の自殺率増加が社会的な問題にもなっています。韓国では受験戦争が人生を左右してしまうため、学生時代は「牢獄のよう」だとも言われることがあります。

「頑張らない」生き方が広がる現代

現代では「昇進を望まない若者」のような見出しの報道を目にすることもあります。儒教道徳に染まった昭和世代には理解し難い考え方かもしれません。

この考え方の変化は、日本人の中で儒教からの脱却が始まり、道教的な生き方が広まりつつあるとも捉えることが出来ます。

「侘び寂び」の道教は、儒教に染まった現代の日本人の息苦しさを取り除き、ゆったりとした時間を過ごす新しい人生を見出させてくれるのかもしれません。