「政治屋の一層」、石丸伸二氏がそう啖呵を切った東京都知事選はまだ記憶に新しいです。政治屋の定義を問う声や石丸氏も政治屋なのではといった批判など、様々な波紋を呼んだこの言葉は、良い意味でも悪い意味でも日本国民の目を政治へと向けた効果があったと言えるのではないでしょうか。
執筆時点の2024年は、石丸氏が東京都知事選に出馬して以降、政治への興味関心が高まっている気配があり、その後に行われた自民党の総裁選や、石破新総裁と野党の党首討論などのYoutube動画などは再生数は例年の政治コンテンツに比べて多く、また度々XなどのSNSでは政治関連のトピックがトレンド入りを果たしています。
執筆時点の現在は衆議院総選挙の真っ最中で、裏金問題などで信頼が失墜している自民党が過半数が割れるのではないかとか、国民民主党が議席を伸ばすのではないかといったニュースが毎日のように聞こえてきます。
石丸氏が言う「政治屋」が蔓延る日本の政治ですが、日本の儒教的な風習を鑑みればある程度「仕方がない」と感じる部分もあります。しかし、本来政治というものは国民全体のために行われるべきで、一部支援者のためだけに行われるべきではないはずです。今回は、この腐敗しやすい日本の政治について改めて考えてみます。
恩には報いる人間性
日本は紛れもない儒教国家で、儒教の教えが日本国民の骨の髄まで染み付いています。年配を敬い弱者を助け、立身出世を求めて懸命に働く、日本人なら誰でも当たり前のように感じるこの考え方について、多くの日本人は「世界的な当たり前の価値観」と感じる事でしょう。しかしこれは儒教という宗教の教え以外の何物でもなく、近隣の中国や韓国などでは同じような価値観があるものの、世界的にはかなり少数派な倫理観であることを勘違いしないようにしなければなりません。
儒教では「修己治人」という考え方があります。修己治人は自信を高めるて世を治めるという意味の言葉ですが、これには自己の修養と共に他者へ貢献するという意味が含まれます。また、「恩をうけたら報いる」という考え方も多く説かれていて、特に恨みがある人にも恩で返すといった話は有名で、この考え方はキリスト教にも通じるようにも感じます。
日本では、幼少期などに「お礼を言う」ことを教育しますし、食事の時には犠牲となった生命や作ってくれた人への感謝を込めて「いただきます」と言う風習が根付いています。私も日本人なので「恩に対して(礼を言う)報いるのは当たり前」と感じます。この人間性は外国から来た人たちにとってはとても居心地が良い、良い風習と感じられることも多いようで、日本国民としては誇らしい気持ちがあります。
しかし、この恩に報いる人間性が故に、日本の政治は腐敗しやすい側面があると言えるでしょう。
日本をよくしたいと考えて政治家を志した人は、晴れて政治家になった暁には、その活動を支援してくれた支援者たちに報いようとします。また政治活動を支えてくれている協力者や協力企業の人たちには、日々の政治活動でその恩義に報いようともするでしょう。
この感情的な行動理由について、日本人の多くは共感するのではないでしょうか。それこそが、政治が腐敗する第一歩だとしても、恩を受けたら報いずにはいられないのです。
ビジネス化する日本の政治
高い志を持って政治家になった人も、先立つものは必要です。政治には活動するための資金が欠かせません。日本をよくするための政策を実現するために、支援者たちから支援を受け、その資金を基に政治活動を推し進めるのです。政治家としては、政治活動を支援をしてくれた企業や団体には感謝しかないでしょう。
政治家になった後でも社会情勢は変化していきます。変化した社会情勢の中で、支援してくれている団体に対して不利な政策がどうしても日本にとって必要となった場合はどうでしょうか。
その政治家は岐路に立たされます。日本のために必要な行動としてその政策に賛成するべきか、支援者への恩に報いて反対の立場を取るか、政治家生命をかけた選択になるでしょう。しかし、この答えは単純です。何故なら「支援がなければ政治活動を継続できない」ため、そもそも支援者に対して不義理を働けないのです。この構造は、株式会社の企業と株主の構造によく似ています。日本国全体ではなく、自分の活動を続けるために、政治家は支援者に有利な立場を表明せざるを得なくなります。
これが「政治のビジネス化」であって、本来の政治の役割からは完全に外れてしまっています。しかし、法令上は問題はなく、日本の恩に報いるという倫理にも則っています。日本の政治は、儒教の倫理観の影響もあって腐敗しやすく、それは政治家の中では当たり前の行動・常識となってしまっていると言えるでしょう。
政治家にとって選挙は就職活動や起業であって、政治家になった後は支援者に対して有利な政策を推し進める株式会社のような活動をするのが、日本では当たり前の光景であり、そういった古くからの風習を踏襲する人たちを「永田町臭」と揶揄することもあります。国民のための政治ではなく、政治家のための政治、政党のための政治が往々として行われているのです。
石丸さんサブウェイ注文できるかな
「政治屋の一掃」を掲げた石丸氏について少し触れておきます。2024年に行われた東京都知事選で165万票もの支持を得たものの、現職の小池氏に及ばず落選してしまいましたが、本来あるべき正しい政治の姿を求める姿勢は、ネットを通じて多くの日本国民に支持され、石丸旋風と表現されるほどの社会現象になりました。
その一方で、選挙後のインタビューの姿勢などから、批判的な声も多く上がり、石丸構文といったような石丸氏を貶めるようなネットミームが誕生したりもしていました。
特に話題になった、ふかわりょう氏の「石丸さんサブウェイ注文できるかな」というSNSでの発言については、世間一般的には石丸氏の「質問に対して質問する」といった受け答えについて指摘したものとして話題になっていましたが、個人的には違う見解をもって受け止めています。
ドトールの鳥羽会長への不義理
石丸氏は、東京都知事選で多くの支援者を得ましたが、特にニュースになった人として「ドトールの鳥羽会長」が挙げられます。ドトールと言えばコーヒーなどを提供する大手飲食店で、知っている人も多いでしょう。
ふかわりょう氏の真意は判りませんが、私はこの発言を知った時に、石丸氏の掲げる「政治屋の一層」とかけて、「石丸氏も政治屋になるのでは」と指摘したのではないかと感じ、なるほどと思ったものです。
つまり、ドトール会長の強力な支持を受けた石丸氏は、ドトール以外の飲食店、特に類似商品を提供するサブウェイの利用が難しくなるのではないかというのです。支援をしてくれた鳥羽会長に報いるためにも、できるだけドトールを利用するようにして、サブウェイをできるだけ利用しないようにする、それこそが日本人に求められる「恩に報いる」ということだからです。
しかし、それこそ石丸氏が批判する「政治屋」そのもので、石丸氏はその倫理観を打ち破ってでも「サブウェイ」を利用することができるのかと、ふかわりょう氏は問うたのではないかと思ったのです。
石丸氏がいくら政治屋の一掃を掲げていたとしても、日本では「支援者に対して報いず、ただ国のために活動する政治家は理想論」で、「支援者に報いる政治屋以外は生き残れないのが現実」なのではないかと、長く政治を見てきた人ほど不安に思う事でしょう。
社会保障制度の見直しが難しい理由
少し具体的な話をしてみましょう。
日本は世界一の長寿国で、どこよりも少子高齢化による影響が社会に大きくのしかかってきていますが、医療に関する制度の見直しは遅々として進みません。これは日本の政治がビジネス化してしまっていることに大きな要因があるため、解決が非常に難しい問題の一つでもあります。
日本の政治の歴史は自民党の歴史です。自民党は戦後から現代に至るまで、日本の政治を牽引してきた実績があり、日本国民の厚い信頼を得ています。日本には自民党を支援している企業や団体が数多くあり、そういった支援者からの金銭的な支援もあって、日本の政治が推し進められてきたという側面があります。
そんな自民党を支援する団体の一つには、日本医師会があります。
自民党は、日本の未来のためには医療制度の見直しとして高齢者の医療負担割合を見直したりなどの措置が必要と知りながらも、支援団体の医師会が反対する政策は推し進めることができないといった板挟み状態にあります。
これは前述の「政治のビジネス化」そのもので、株主が望まない活動は行うことができない状態であり、それを強行すれば自民党は資金源を失い、それは結果として議席を減らすことに繋がり、その他の政策を実行する力も失うことになります。
社会保障制度に限りませんが、今の自民党は多くの支援団体への恩に報いる糸で身動きが出来ない程に締め付けられてしまっており、本当に必要な事を実行することが難しい状況になっていると言えるでしょう。「政治は簡単じゃない」と政治家の人が言うかもしれませんが、それはこういった繋がりをそれぞれ考慮しながら進めなければならない状況にあるからです。本来支援者への配慮は政治にとっては不要な事ですが、支援者の金銭的な支援は政治を行うために必要、だから支援者への配慮が欠かせないという矛盾と妥協の産物が、今の政治の在り方となってしまっています。
上述の社会保障制度についての画像は、ネットメディアのReHacQにて提供されている石丸氏と吉村氏の対談から引用しています。とても興味深いお話を聞くことができるので、興味がある方は是非一度視聴されることをオススメします。
政治屋の一層は可能なのか
政治がビジネス化してしまっていて、党利党略、政治家のための政治が行われる現代の政治を修復し、本来あるべき政治の姿を取り戻すことはできるのでしょうか。
2024年は、自民党の裏金問題が問題視され、政治と金については国民全体の関心事となっています。
日本国民はまじめに働き納税をしていて、それでも日々の生活は苦しい状況が続いているにもかかわらず、本来日本全体の事を考えて政治を行っていくべき政治家は、不当にお金を得て飲食などに使っていて、それら収入については一切納税もしないという事実に、多くの国民が耳を疑い、怒りを露わにしました。
国民が節約しながら死に物狂いで生きている中で、政治家は自分たちに有利な法制度を作って優雅な生活を送っていた現状は、とても許容できるものではなかったのです。連日どの政治家がいくらのお金を使ったといった報道が絶えず、とうとう今回の衆議院選挙では一部の候補を自民党は非公認とする決定をしました。しかし、実際には非公認とした人にも政党から支援のお金は支払われており、事実上の公認であると指摘する声も上がっていて、本質的に自民党は変わっていないことが早々に露呈してしまっています。
現在まで日本の政治を支えてきた自民党として、これまでのお金・政治の動かし方こそが最善であって、その形を変えることは簡単ではないでしょう。そのため、政治資金規正法の改正案も10年後に公開するといった歪な形で成立することになってしまいました。とにかく不正なお金を使える余地を残しておかなければ、明日の活動にも支障が出てしまうという程に、とても根深い問題であることが伺えます。
政治家の中には、一般の国民と同じような価値観を持って、自分を律して国のために活動を続けている立派な人もいますが、代々政治家をしてきた家系の人の場合などは、一般の国民がどのような暮らしをしているのかを、人生の中で知ることもなく、自民党がこれまで行ってきたお金の流れこそが日本のあるべき姿と考えてしまう事でしょう。多くの一般的な日本人の価値観とは異なっていても、ルールは政治家が決める物であり、ルールに従っていれば罰せられることもないのです。
私たち国民が政治を監視し、正しい行動をとる人物を選挙で選ばなければ、日本の政治の腐敗を止めることはできないでしょう。しかしそれでも、支援をした個人や団体に報いようとする日本人の倫理観を止めることは難しく、政治が容易にビジネス化してしまう状況であることは変わりません。そういう意味では、「政治屋の一層は日本人には難しい」と言わざるを得ないでしょう。
政治家も国民も新しい倫理観が必要
恩を受けたら「ありがとう」と感謝の気持ちを伝え、その恩に報いましょう。
そんな国民性のある日本人にとっては、政治家と支援者がビジネス的な繋がりを持ちやすく、その結びつきによって捻じ曲がった政治が推し進められてしまうことを避けるのは難しいと考えられます。
本来政治は日本・日本国民のために執り行われるべきであって、特定の個人や団体に向けて行われるべきではありません。正しい政治を行うためには、政治家も国民も考え方をアップデートし、新しい倫理観を構築していく必要があるでしょう。
「見返りを求めない支援」というのは、言葉ほど簡単ではありません。しかし、2024年の東京都知事選では政治屋の一掃を掲げる石丸氏には3億円近い支援があったと、吉村氏との対談で明かしています。選挙期間中にも集まった支援金額をネットのライブ配信にて公開していたことが印象的でした。透明性のあるお金の動きに、都民だけでなく国民の多くが「ある種の期待感」を持ったと思われます。この支援者たちは、自分たちへの見返りを求めず、本当に日本国の未来を憂いている人たちと言えるでしょう。
「支援者に報いない政治家」は、実現可能なのでしょうか。どこの企業とも連携せず、孤高の一匹狼として成り上がったとして、その政治家は活動して政策を実現することができるのでしょうか。または、支援を受けて政治家になった後、その支援者に報いず、自分の信念を貫き通すことができるのでしょうか。これは、上述の「見返りを求めない支援」があって初めて成立する事なのかもしれません。
国民の大多数が、「本当に日本をよくしたい」と考えるようになって、見返りを求めずに信念のある政治家を選んで支援し、ビジネス化する政治を止めることができれば、物価も下がって生活は楽になり、豊かな日本を取り戻していけるのかもしれません。
今回の衆院選に限りませんが、投票に行くことで自分の望む未来を選択し、国民一人一人の意思を表明しましょう。少なくとも、給料が上がらないとか、年金が受け取れないかも、とただ嘆くよりも、選挙はよっぽど建設的な行動であることは間違いないでしょう。
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