💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。
江戸幕府が奨励した朱子学は、理を追究するほど「忠の正統性」を問いなおす学問でした。
その探究心は、やがて幕府の意図とは異なる尊王思想を育てていきます。
本記事では、朱子学から垂加神道・水戸学へと続く思想の流れから、この“皮肉な帰結”を読み解きます。
朱子学が江戸社会にもたらした“秩序”と“探究心”
朱子学は幕府が秩序維持のために奨励した学問でした。
しかし、その中心概念である「格物致知」は、学問を突き詰めれば突き詰めるほど、幕府が望まなかった“問い”を生み出す構造を秘めていました。
まずは、朱子学の特徴を見ていきます。
朱子学の基本:理を重視し、秩序を重んじる学問
朱子学は、万物の根源に「理」が存在すると考える学問です。人間社会にも理は貫かれており、人の道もまた理によって正されるべきだとされました。
ここで重要なのは、朱子学における「忠」が単なる服従を意味しないことです。
忠とは、あくまで理に適った対象に向けられるべきだとされ、主君であっても理に外れていれば批判しうるという、きわめて思想的な構造を持っていました。
幕府が朱子学を官学として採用したのは、理による秩序の観念が統治理念として都合が良かったためです。朱子学は、上下秩序や礼節を重んじるため、幕府の“安定”という目的と相性が良いと考えられました。
格物致知とは何か ― 探究を無限に要求する思考法
朱子学の中核にある「格物致知」は、物事の本質を極め、知を完成させるという姿勢を指します。形式的に学ぶのではなく、徹底して“理”を突き詰めることが求められました。
つまり、答えを与えられるのではなく、自ら問い続け、対象の本質に到達しようとする思考法です。
この思想は、学者に強い探究心を促しました。
しかしその一方で、この“探究の構造そのもの”が、後に尊王思想へとつながる火種にもなっていきます。
理に適うものを探求する過程で、学者たちは「誰に忠を向けるべきか」という根本的な問いに向き合わざるを得なくなったからです。
幕府の思惑を超える「学問の力」
朱子学が幕府の秩序維持に利用されたのは事実ですが、学問そのものは権力の都合以上に理の整合性を求める傾向を持っていました。
この性格が、後に“主君の正統性”を問い直す動きを生むことになります。
格物が問うた「忠の正統性」 ― 天皇か、将軍か
朱子学における忠は、「理に適った対象に従う」という思想です。
この概念を本気で突き詰めると、幕府が求めるような“将軍への絶対的忠誠”とは異なる結論が導かれていきます。
朱子学の忠:理に対する忠誠という概念
朱子学における忠は、主君に対する絶対服従ではありません。主君が理にかなっている場合にのみ、忠を尽くすことが正しいとされます。そのため、忠を尽くすべき相手が本当に理にかなった存在かどうかを検証することが、格物致知の一環として求められました。
つまり、朱子学を真剣に学ぶ者ほど「誰が最も理に適う主君なのか」という問いに向き合う必要が生じます。
この問いは、単に道徳の問題ではなく、政治的な正統性の問題へと必然的につながるものでした。
江戸体制の構造的矛盾:将軍は“天皇の臣下”
当時の日本において、将軍は形式上、天皇から統治権を委任された存在でした。つまり、制度的に見れば天皇が国家の最高権威であり、将軍はその臣下に位置づけられています。
この構造は、格物致知による探究において重大な意味を持ちました。「理にかなう忠」を追求するならば、果たして忠を尽くすべき相手は将軍なのか、それとも天皇なのかという問題が浮上してくるからです。ここに、幕府体制の内側に潜む矛盾が顕在化していきました。
“反幕府思想”には至っていない江戸初期の思想
この過程は、学者たちが幕府を批判しようとして行ったものではありません。
あくまで理に基づいた整合性を求める探究の結果、「天皇こそが忠の対象としてより正統なのではないか」という思想的な結論に至ることがあったのです。
垂加神道:朱子学と神道が結びつき、天皇を中心とする思想へ
こうした探究の結果、朱子学を深く研究した学者ほど「忠」を天皇へと再解釈するようになりました。
その代表例が、山崎闇斎(やまざきあんさい)による垂加神道(すいかしんとう)です。
山崎闇斎が再定義した「忠」と「天皇」
闇斎は朱子学の忠の概念を、日本の神道思想と結びつけることで再解釈しました。
彼にとって理に適う忠とは、天皇を中心とする秩序の維持を指しました。これにより、朱子学由来の忠が、日本固有の「天皇中心の思想」と融合することになります。
垂加神道は、朱子学の枠組みを保ちつつ、天皇への絶対的尊崇を強調しました。この思想が登場したことで、朱子学は幕府が意図した以上に天皇中心の論理を内包するようになっていきます。
垂加神道がもたらした影響
垂加神道はのちに多くの門人を輩出し、神道思想の中に強い尊王論を持ち込みました。また、後期水戸学や国学を学ぶ人々にも影響を与え、幕末の尊王攘夷運動における精神的土台の一つとなっていきます。
「幕府に仕える」と「天皇を正統と考える」が矛盾しない朱子学
興味深いのは、垂加神道を学んだ人物の中には幕府に仕えていた者も多い点です。彼らが尊王的な思想を持つようになったとしても、それは反幕府の思想を抱いたという意味ではありません。
朱子学には「名分」という倫理があり、人は社会秩序の中で与えられた役割を守るべきだとされました。名分を超えた行動は「僭越(せんえつ)」とされ、儒者が最も避けるべき非徳と位置づけられていました。
そのため、幕府の政治体制に公然と異議を唱えることは、彼らにとって「名分を超え、秩序を乱す行為」とみなされたと考えられます。
朱子学ではこれを「名教」と呼び、社会秩序と役割を乱さないことこそ徳の基本としました。
一見すると「尊王思想=反幕府」と思ってしまいがちですが、朱子学的な観点に立つと、幕府に仕えながら正統を天皇と考えることは矛盾しないという点は、公平に思想史を理解する上で非常に重要です。
垂加神道に関心のある方は、以下の記事もご覧ください。
思想的な背景や影響、山崎闇斎という人物についてなど、詳しく掘り下げて解説しています。
水戸学:歴史編纂が生んだ“天皇中心史観”
垂加神道とは別の方向から、朱子学的探究心が尊王思想を強化した例が水戸学です。
大日本史編纂と朱子学の歴史観
水戸学の中心となったのは、徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』です。この編纂事業には朱子学の理念が強く取り入れられ、歴代天皇の系譜や政治の正統性を整理する作業が行われました。
大日本史の編纂事業は江戸時代から明治時代まで続き、完成は1906年(日露戦争後)です。全402巻・別巻5巻という大規模な歴史書となっています。
朱子学では「道統」という考え方が重視されます。これは、人間社会において“正しい道”がどのように継承されてきたかを探る思想です。
光圀たちはこの道統の意識を歴史編纂に応用し、結果として天皇を中心とした歴史観が自然と形成されていきました。
この作業は光圀自身の政治的意図とは異なる方向に成熟し、江戸末期には水戸学が強い尊皇思想の拠点となるまでに発展します。
水戸学の尊王論と幕末への影響
水戸学は、(光圀の時代にはまだ穏健であったものの)後世になると「天皇の権威こそ国家の根本である」という尊王思想を明確に打ち出すようになりました。これはのちの尊王攘夷思想の中心的な理論基盤となり、多くの志士たちに影響を与えます。
幕府が奨励した朱子学の理念が、歴史編纂という形で天皇中心論を強化し、結果として幕末の政治的運動に深く影響した点は、思想史的な大きな皮肉と言えるでしょう。
思想的に変化していった「水戸学」
光圀の時代には倒幕の発想はなく、彼の意図はあくまで歴史を整理し、道統を明らかにすることでした。しかし、この歴史観が後世で成熟していく過程で、思いもよらない思想的エネルギーを生み出すようになります。
この変化の背景には、江戸中期以降に発展した国学や、行動を重視する陽明学といった「外部の学問・思想」の影響があり、さらに幕末期には海外勢力との緊張が拍車をかけました。こうした複合的な要因が、水戸学をより政治的・急進的な尊王思想へ押し上げていったと考えられています。
尊王攘夷運動や倒幕思想に結びつきやすい水戸学ですが、江戸初期の段階では穏健な朱子学的探求の延長線にありました。ただし、その時点で「天皇を正統とする」という視点を掲げていたことは確かであり、それが後世の思想的火種となった側面は否めません。
水戸学については、以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:水戸学とは何か?徳川光圀の『大日本史』から幕末の尊王攘夷まで
幕府が奨励した朱子学が、幕府を相対化させた“皮肉”
朱子学を奨励した幕府は、秩序維持と官僚養成を目的としていました。
しかし、その学問の本質にある探究心は、やがて幕府自身の正統性を問い直す理論的基盤となってしまいます。
政治目的と学問の論理のズレ
幕府が朱子学を導入したのは、社会秩序の維持が容易になると考えたためでした。しかし、学問としての朱子学は権威の正統性を常に問い直す性格を持っていました。
格物致知の精神に従うほど、“忠の正統性”を再検証する動きが強まったのです。
こうした構造的なズレは、朱子学を真剣に学ぶ知識人の間に、幕府の政治体制とは異なる“正統性”を考える余地を生み出しました。そのため、尊王論や尊王攘夷運動の思想的な源流は、庶民ではなく知識人層の間で育っていきます。
幕府が奨励した学問を真面目に学んだ者が、結果として幕府の正統性に疑問を抱く余地が生じるという、構造的な皮肉がここにあります。
世界にも見られる“学問の皮肉”
宗教改革や啓蒙思想のように、学問を突き詰めた結果、既存の秩序が揺らぐという現象は世界史でも繰り返されています。
ヨーロッパでは、ルネサンス期の文献学が教会の歴史的正統性を問い直しました。また、中国では、日本と同じく儒学を奨励した皇帝が、結果的に“理”を重んじる儒者から批判されるという構造が生まれています。
これらに共通するのは、次のような流れです。
- 権威が学問を奨励する
- 学問は“問い”を持ち、論理を純化する
- 論理の純化が“絶対の前提”を疑い始める
- 権威そのものが相対化される
朱子学と幕末に至る思想の変化も、この普遍的な構造の一例として理解することができます。
学びの先にあるもの
朱子学の格物致知は、対象を徹底的に探究し、本質を見極める姿勢を重んじます。この学問の探究心は、幕府の秩序維持という目的に適していましたが、同時に「忠の正統性」を問い直す契機をもたらしました。
垂加神道や水戸学は、この探究心がさまざまな形で具体化した例であり、それぞれが天皇中心思想の強化につながりました。幕府が奨励した朱子学が、結果として幕府そのものを相対化する思想を生み出したことは、歴史の皮肉として興味深い現象です。
本記事で示した流れは、一つの見方ではありますが、朱子学の思想構造を踏まえると充分に読み取りうるものです。江戸思想史を理解する際に、朱子学の探究心がどのように尊王思想へとつながったのかを整理する視点をもつことは、思想のつながりを立体的に捉える助けになります。
垂加神道、水戸学、陽明学、国学など、関連する学問への理解を深める際にも、本記事の視点が役立つはずです。
知的好奇心で紡がれる歴史
朱子学の格物致知は、現代の知的好奇心に通じる概念です。
物事を理解しようと学びを深めた先に、後の世で社会を揺るがすような思想に到達することがあると考えると、恐ろしくも感じるものです。しかしそれでも、人の探求心は止められません。
私やこの記事を読んでいる読者の方も、江戸時代の朱子学者のように学び、そして新しい考えを生み出して、歴史を紡いでいる一人なのかもしれません。
関連記事:江戸時代の学問・思想特集
この記事は、江戸時代の学問・思想特集の一部です。
江戸時代中期には、朱子学だけでは捉えきれない課題に向き合う中で、国学や陽明学といった新しい学問が発展しました。また、西洋科学を取り入れた蘭学も広まり、思想と学問の世界が大きく広がっていきます。
関心のある方は、ぜひ特集記事もご覧ください。

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