【年表】伴天連追放令の背景と実態 ― ザビエルから秀吉の死まで

日本にキリスト教が伝えられてから半世紀後、豊臣秀吉は「伴天連追放令」を発しました。
それは、信仰の問題にとどまらず、貿易・外交・国家のあり方をめぐる大きな決断でした。

ザビエルの来日から秀吉の死までの流れを、年表で整理します。

年表:ザビエルから秀吉の死まで

凡例:
赤色背景 ー 「イエズス会」関連
黄色背景 ー 「秀吉」関連

出来事備考
1549年フランシスコ・ザビエル、鹿児島に上陸日本にキリスト教が伝来。宣教師はポルトガル船で来航。
1550年ザビエル、山口で布教大内義隆の庇護を受ける。西日本で布教が広がる。
1551年大内義隆の死西国の布教拠点を失い、ザビエルは失意のうちに日本を離れる。
1552年ザビエル、航海中に病死中国広東島で死去。以後、日本布教はイエズス会士が継承。
1560年代九州でキリシタン大名が増加大村純忠・大友宗麟・有馬晴信らが改宗。布教と貿易が結びつく。
1563年大村純忠がキリスト教に改宗日本初のキリシタン大名。領内で教会建設を許可。
1565年頃平戸・口之津で南蛮貿易が活発化ポルトガル商人と宣教師が定期的に来航。
1570年イエズス会、長崎に注目安全な貿易港と布教拠点を求め、港建設を提案。
1571年大村純忠、長崎港を開港・寄進ポルトガル船が初入港。港湾管理権をイエズス会に寄進
長崎が南蛮貿易の中心に。
1575年長崎に司教館が設立日本布教の本部として機能。イエズス会の自治が拡大。
1578年大友宗麟、臼杵で布教を保護豊後がキリシタン文化の拠点に。教会学校や神学校も設立。
1582年天正遣欧少年使節が出発九州のキリシタン大名のもとからローマ教皇に派遣。
ヨーロッパとの宗教交流の象徴。
1582年本能寺の変織田信長が倒れ、豊臣秀吉が天下統一へと動き出す。
1585年秀吉、関白に就任政治権力を確立。全国統一を目前に、宗教勢力への統制を強化。
1586年ガスパル・コエリョ、秀吉と会見宣教師の活動報告を行う。
長崎に砦を築こうとする構想を漏らし、秀吉の不信を招く。
1587年(天正15年)秀吉、九州を平定島津氏を降伏させ、九州全土を支配下に置く。長崎を視察
1587年6月伴天連追放令を発布宣教師の国外追放・布教禁止を命じる。
同時に長崎を没収し直轄地化
1587年〜1588年秀吉、日本人奴隷貿易に抗議ローマ教皇宛に書簡を送り、奴隷売買の禁止を要求。
1588年秀吉、刀狩令を発布農民・宗教勢力の武装解除を進める。宗教統制政策の一環。
1590年全国統一がほぼ完了各地の宗教・貿易を豊臣政権の直轄支配に置き、禁教方針を継続。
1591年千利休が処刑宗教的・思想的権威への抑制を象徴する事件。
1592年文禄の役(朝鮮出兵)開始海外征服政策に転換。南蛮貿易の利用を継続。
1596年サン・フェリペ号事件土佐に漂着したスペイン船。
再びキリスト教への警戒を高める。
1597年二十六聖人殉教長崎で宣教師・信徒26名を処刑。禁教の方針が明確化。
1598年秀吉死去禁教政策はいったん停滞するが、後の徳川政権が継承。
ザビエルから秀吉の死までの歴史

関連記事:伴天連追放令の背景 ― 外国勢力に対する秀吉の決断

この年表に関連した出来事や動きについては、以下の記事で詳しく解説しています。