なぜオランダだけ?江戸時代の鎖国と日蘭関係の歴史

江戸時代の日蘭関係 歴史

1600年、九州の海岸に漂着した一隻のオランダ船リーフデ号。ここから、日本とオランダの長い交流の歴史が始まります。

キリスト教を警戒する江戸幕府のもとで、オランダは出島に商館を構え、医学や科学の知識を日本にもたらしました。そして幕末、ペリー来航の裏でオランダは日本に外交助言を与え、不平等条約の時代を迎えます。なぜ江戸時代の日本はオランダだけを選んだのか――その答えを探ります。

なぜオランダと鎖国日本が繋がったのか

江戸時代の「鎖国」という言葉には、日本が世界と完全に隔絶していたかのような響きがあります。

しかし、この表現は当時の幕府が使っていた公式用語ではありません。18世紀末、蘭学者・志筑忠雄がオランダ人ケンプフェルの『日本誌』を翻訳した際に「鎖国」という言葉をあてたのが始まりで、明治期の歴史教育を通じて定着した概念です。

実際の江戸時代は、長崎を通じたオランダ・中国との貿易だけでなく、薩摩を経由した琉球王国や対馬を介した朝鮮との外交、蝦夷地でのアイヌ交易など、多方面との交流を厳格に管理していました。その中で、オランダは唯一のヨーロッパの窓口として特別な位置を占めていたのです。

大航海時代とオランダのアジア進出

16世紀末から17世紀初頭、世界は大航海時代の只中にありました。

ポルトガルとスペインはアジアや南米で植民地帝国を築き、カトリック布教を積極的に進めていました。一方、オランダはスペインの支配下から独立を目指す新興国家で、宗教的にはプロテスタント。カトリック諸国との対立から、オランダはアジア貿易で新たな道を切り開こうとします。

ポルトガルとスペイン、オランダにはそれぞれの思惑がありました。

国名宗教国家状況アジア方面の戦略
ポルトガルカトリック海上貿易で繁栄
アジア各地に拠点
インド洋航路(東回り)を開拓し、
香辛料貿易を独占
スペインカトリック世界帝国
南米の銀で財力拡大
太平洋航路(西回り)を確立し、
フィリピンを拠点化
オランダプロテスタントスペインから独立戦争中
海運力で台頭
布教より貿易を重視し、
新たな権益を求め進出
ヨーロッパ諸国のアジア進出の違い

カトリック勢力であるスペイン・ポルトガルと敵対する中、東回りのインド洋航路は敵国の拠点が多く危険だったため、オランダは太平洋を横断する西回り航路に挑戦しました。

1595年には初めてジャワ島に艦隊を派遣し、アジア貿易の足がかりを作りますが、まだ恒久的な拠点はなく試行段階にすぎませんでした。そんな中、1598年には新たに5隻編成の艦隊が西回り航路で派遣されます。

リーフデ号の漂着

1598年にオランダを出港したこの艦隊は、スペインやポルトガルの勢力圏を避けつつ、東南アジアや南米沿岸での貿易権益を狙い、マゼラン海峡を越えて太平洋へと向かいました。しかし航海は過酷を極め、多くの船が失われてしまいます。

1600年、艦隊のうちただ一隻となったリーフデ号が九州・豊後の海岸に漂着しました。

ハウステンボスにて復元展示されているリーフデ号
ハウステンボスにて復元展示されているリーフデ号

リーフデ号はもともと日本を目指していたわけではありませんが、この出来事がきっかけとなり、日本とオランダの長い交流の歴史が始まったのです。

三浦按針と徳川家康

リーフデ号の乗組員の一人、航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)は徳川家康に重用され、西洋の航海術や造船技術を伝授しました。家康は彼らのもたらした知識や貿易の利益を理解し、オランダとの交流に道を開きます。

三浦按針(みうらあんじん)はイングランド出身で、当時はオランダの商船隊に雇われていました。

イギリスオランダはいずれもプロテスタント国家で、カトリック勢力に対抗するため協力関係を築いており、航海士が互いの国の船に乗ることは珍しくありませんでした。

リーフデ号の漂着と三浦按針の物語は、2024年公開のハリウッドドラマ『SHOGUN』でも描かれました。この作品は、当時の日本が直面していたキリスト教布教を伴う西洋勢力の進出をテーマにしており、宗教と政治が絡む国際情勢を世界中の視聴者に印象づけました。

ドラマ「SHOGUN」 : 真田広之 プロデュース/主演
ドラマ「SHOGUN」 : 真田広之 プロデュース/主演

画像引用 : 『SHOGUN 将軍』公式サイト|ディズニープラス公式

鎖国日本がオランダとは貿易をした理由

布教活動に熱心なポルトガル・スペインと異なり、オランダは宣教師を伴わず、貿易に徹していたことが信頼を得た最大の理由でした。

この方針の違いには、カトリック諸国が布教を国策の柱としたのに対し、プロテスタント国家であるオランダが商業利益を優先したという宗教観・国家政策の違いがありました。

出島商館の設置と貿易独占

1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、国家の後押しを受けた世界初の株式会社であり、香辛料や絹、陶磁器の貿易を武器に急速に勢力を拡大しました。

その後、島原の乱(1637〜38年)を契機に幕府はキリスト教を徹底的に禁圧し、ポルトガルを追放。1641年、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し、厳重な管理のもとで貿易を独占させました。

こうしてオランダは、鎖国時代の日本における唯一の西洋窓口となったのです。

オランダが日本との独占貿易を確立するまでの経緯を簡単な年表にまとめてます。

年代出来事ポイント
1600年リーフデ号、豊後に漂着。
ウィリアム・アダムス(三浦按針)が家康に仕える
日本とオランダの接触の始まり
1602年オランダ東インド会社(VOC)設立国家公認の貿易会社、アジア貿易を本格化
1609年徳川家康、オランダに通商許可平戸にオランダ商館設置
1614年キリスト教禁教令布教活動が幕府の警戒対象に
1624年スペイン船の来航禁止ポルトガル・スペイン排斥の動き強まる
1635年日本人の海外渡航禁止令海外貿易を幕府が統制下に置く
1637-38年島原・天草一揆キリシタン弾圧が決定的に強化される
1639年ポルトガル船の来航禁止日本はオランダと中国のみと貿易継続
1641年オランダ商館を平戸から長崎・出島へ移転厳格な管理のもとオランダとの独占貿易が確立
オランダが日本との独占貿易を確立するまで

キリスト教の排斥・弾圧が必要だった理由

1580年、大村純忠(キリシタン大名)が長崎をイエズス会に寄進し、港や町政の運営が教会の管轄下に置かれました。宣教師たちは港の管理や貿易利権にも影響力を持ち、実質的には教会が自治権を握る特異な都市となっていたのです。

幕府が介入し直轄地とするまで、この町は外国勢力の影響が色濃く、宗教が政治や経済にまで深く関与した例となりました。この事例は幕府に強い危機感を与え、キリスト教排斥政策を強化する大きな要因となったのです。

さらに、フィリピンなど世界各地で布教が植民地化の前段階となった前例があったため、幕府は「布教活動=侵略のきっかけ」と認識し、徹底した警戒と排斥に踏み切りました。

植民地政策において、土地の取得を行うことは珍しい事ではありません。以下の記事では、日本が満州地方で行った土地の取得や、現代において中国が日本の土地を購入している件についてまとめていますので、興味のある方は是非あわせてご覧ください。

江戸時代のオランダと日本

オランダとの交流は単なる貿易にとどまりませんでした。

出島商館を通じて幕府は西洋の最新情報を得ており、オランダ商館長は年に一度江戸に赴き将軍に謁見する「江戸参府」を行いました。この場では交易品の献上だけでなく、世界情勢科学技術に関する報告も行われ、日本は間接的に国際社会の動きを知ることができたのです。

蘭学の発展と幕府通詞の役割

こうした交流の中で育まれたのが蘭学です。

オランダ語通詞(通訳官)は幕府の命令で養成され、『解体新書』(1774年)の翻訳など、西洋医学や科学の知識が国内に広まりました。蘭学は単なる学問にとどまらず、日本の近代化への下地を作り、のちに明治期の西洋化をスムーズにする一因となりました。

出島の貿易や外交には通訳官の存在が不可欠で、幕府は長崎奉行のもとで通詞を世襲的に育成し、体系的なオランダ語教育を行っていました。佐賀藩など一部の藩でも西洋砲術や医術を取り入れるために蘭書翻訳や語学教育を進め、これらの取り組みが蘭学者の活動を下支えしました。

少し先の話ですが、幕末には長崎でのオランダ語教育がさらに実践的になり、1855年にはオランダ人教官を招いた海軍伝習所が設立されました。ここで勝海舟らがオランダ語と西洋航海術を習得し、日本初の近代海軍の基礎を築きました。このように、長崎は江戸期を通じて語学と技術のハブとなり、幕末の人材育成にも直結していたのです。

オランダの台湾植民地化と撤退

オランダは日本との関係を保ちながら、東アジアでも拠点を拡大していきました。1624年には台湾ゼーランディア城を築き、一時的に植民地支配を行います。

しかし、清に敗れた明朝の遺臣・鄭成功率いる軍が台湾に侵攻し、オランダはゼーランディア城で防衛戦を強いられました。鄭成功軍は約25,000人、オランダ側は約2,000人と圧倒的な兵力差があり、約9か月の籠城戦の末、1662年2月にオランダは降伏・撤退します。

降伏後、命や財産は保障され、オランダは報復戦や再侵攻を行わず、以降は東南アジアの貿易拠点に戦略を集中しました。この台湾の事例は、当時のアジア貿易の複雑さと、オランダが武力よりも貿易を重視した姿勢をよく示しています。

オランダの台湾植民地支配から撤退までについては、以下の台湾に関する記事でも扱っていますので、是非あわせて読んでみてください。

幕末の不平等条約と外交の転換

19世紀に入ると、世界情勢は大きく動き始めます。イギリスアメリカなど列強諸国が東アジアへの進出を強め、日本にも開国を迫る圧力が高まります。

イギリス・アメリカの東アジア進出が遅い理由

イギリスやアメリカの東アジア進出は、ポルトガルやオランダに比べてはるかに遅れました。

イギリスは17〜18世紀を通じてインドを中心にアジア戦略を展開しており、同時期はヨーロッパや北米でオランダやフランスとの戦争・植民地争いにも追われていました。そのため極東への進出は後回しになったのです。

1664年に、イギリスはオランダから北米都市ニューアムステルダムを獲得し、ニューヨークと改名しています。

一方アメリカは、江戸時代初期にはまだ存在していません。アメリカ独立戦争(1775〜1783年)を経て、合衆国が誕生したのは1776年のことです。

ペリー来航時のオランダからの情報提供

幕府はこの時代、オランダを通じて世界の情報を得ていました。

1844年にオランダ国王から幕府へ送られた「開国勧告書」は、武力での威圧ではなく、欧米列強の動きを踏まえて「自主的な開国を検討すべき」と助言した友好的な文書でした。日本との長年の関係を重視したオランダらしい慎重な姿勢が見て取れます。

「開国勧告書」を受け取ったのは、12代将軍・徳川家慶の時代でした。当時の幕府は天保の改革後の混乱期にあり、井伊直弼の登場やペリー来航よりも十年ほど前の出来事です。

1848年以降は『別段風説書』という詳細な海外情勢報告が毎年幕府に届けられるようになります。ペリー艦隊が来航する8年前の時点で、日本はすでに欧米列強の動きをオランダ経由で把握していたのです。

オランダとの安政の五か国条約

1853年、ペリー来航。幕府は外交交渉にオランダ語通訳を用い、オランダの助言を受けながら対応しました。

「ペリーとの交渉と言語」については、以下の記事で詳しくまとめていますので、是非あわせてご覧ください。

結果的に1858年、アメリカをはじめオランダ・ロシア・イギリス・フランスと安政の五か国条約を締結。条約は治外法権や関税自主権の喪失など、日本にとって不利なもの(不平等条約)でしたが、オランダは幕府に圧力をかけず、あくまで友好的な姿勢を貫いた点で特異な存在でした。

この時代、日本は「鎖国」を終わらせざるを得ない状況に追い込まれましたが、オランダとの長年の関係は、日本が世界と対話する基礎を築く大きな助けとなったといえます。

オランダと日本の軍事衝突 – 下関戦争への参戦

オランダと日本の歴史で、直接的な軍事衝突が起きたのは下関戦争(1864年)が初めてのことです。

それまでオランダは約250年にわたり、貿易と情報提供を通じて日本と友好関係を築いてきました。しかし攘夷令に基づく長州藩の砲撃で外国船が被害を受け、やむを得ず連合艦隊の一員として参戦することになったのです。

その後:明治以降のオランダと日本

幕末の混乱を経て明治維新が成立すると、日本は急速な近代化に舵を切ります。

江戸期以来の友好関係の継続

江戸時代以来のオランダとの友好関係は途切れることなく続き、技術や学術の面で交流が続きました。明治政府は列強との条約改正交渉を進め、20世紀初頭にはオランダも他国に倣って不平等条約を撤廃します。

しかし、やがて太平洋戦争の時代、日本はオランダ領東インド(現インドネシア)と戦火を交えることになります。その歴史や戦後の和解、インドネシア独立の動きなどは、江戸時代の友好関係と対照的な複雑さを見せる時代です。

鎖国時代を支えたオランダとの交流が残したもの

江戸時代の「鎖国」は、単なる閉鎖政策ではなく、外部の情報や技術を巧みに選択して取り入れる外交戦略でした。その象徴がオランダとの関係です。

リーフデ号漂着に始まり、出島を舞台にした貿易、蘭学の発展、幕末の外交支援――これらの交流は、のちの日本の近代化や国際社会への復帰に向けた重要な布石となりました。

オランダは日本に武力で迫ることなく、交易と知識で信頼を築いた稀有な存在でした。歴史を俯瞰すれば、この「小さな交流の窓口」がいかに大きな意味を持っていたのかが見えてきます。そして、明治・昭和・現代へと続く日蘭関係は、江戸時代に芽吹いた国際的な信頼の延長線上にあるのです。