「ますらおぶり」とは何か ― 国学の視座と賀茂真淵の結論

「ますらおぶり」とは何か 思想

💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。

「ますらおぶり」は、賀茂真淵が万葉集の歌風を評して用いた言葉です。
一般には、男性的で率直な表現を指す概念として紹介されます。

この言葉の背後には、古典をどう読むべきかという、江戸時代中期の国学の問題意識があります。
「色眼鏡を外せ」と語った賀茂真淵は、日本の古典をどのように見ようとしたのでしょうか。

本記事では、「ますらおぶり」の意味を確認しながら、それが国学の中でどのような位置を占めていたのかを考えます。

漢学と国学 ― 示された異なる視座

「ますらおぶり」を理解するためには、まずその前提となる国学という学問の立ち位置を確認する必要があります。

国学は単に漢学を批判するために生まれたのではありません。
学問が古典とどう向き合うのか、その“視座”を問い直す試みでした。

漢学が前提としていた古典の読み方

江戸時代の学問の中心にあったのは、いわゆる漢学でした。とくに儒教(朱子学)は、政治や倫理の基準として重視されていました。
中国の古典である四書五経は、朱子学の学びにおいて重要な教材とされていました。

そこでは古典は、

道徳や政治の在り方を学ぶための手本

として読まれます。

人はいかに生きるべきか。君臣や親子の関係はどうあるべきか。古典から「理」を引き出し、そこに普遍的な規範を見出そうとする読み方が、自然な前提となっていました。

この読み方は中国古典に限られたものではありません。
日本の古典である万葉集や古今和歌集もまた、そこから教訓や倫理的意味を引き出そうとする読み方の中で理解されることが少なくありませんでした。

古典は「教材」だったという前提

江戸時代において古典は、単なる文学作品ではありませんでした。
それは学びの源泉であり、人格形成や政治理念を支える土台でもあったのです。

だからこそ、「古典をどう読むか」という問題は、単なる文学論ではなく、学問そのものの在り方に関わる問題でした。

朱子学の教材であった四書五経には、現代日本でもよく知られる論語も含まれています。
論語という古典からは、孔子と弟子のやり取りを通して、普遍的な人間観が学ばれました。
💡関連記事:四書五経とは何か ― 論語の位置づけと朱子学の土台

国学が問い直したもの ― 読みの姿勢への疑問

こうした前提に対して、日本の古典を日本の言葉と感覚に即して読み直そうとする動きが現れます。それが国学と呼ばれる学問でした。

国学が批判したのは、儒教そのものや中国文化そのものではありません。
問題とされたのは、

後世の価値観や理屈をもって古典を裁く姿勢

でした。

古典を読むとき、私たちはいつのまにか「正しい意味」や「教訓」を探してしまう。
しかし日本の古典、とりわけ和歌には、人の感情や自然への感動がそのまま表現されているものが多いのではないか。

そのような気づきから、国学は「色眼鏡を外す」という姿勢を掲げます。

「外来思想の排除」ではないという点

ここで注意したいのは、国学が外来思想を全面的に否定したわけではないという点です。
彼らが問題にしたのは、中国の思想そのものではなく、それを唯一の基準としてしまう態度でした。

何を基準に古典を読むのか。
その立ち位置を問い直すことこそが、国学の核心でした。

なぜ日本の古典が焦点となったのか

では、なぜ国学はとくに日本の古典に目を向けたのでしょうか。

それは、日本の古典が、中国古典とは異なる性質を持っていると感じられたからです。
和歌には、道徳を説くよりも先に、人の心の動きや自然への感動が率直に表現されています。

もしそうであるならば、それを道徳や理屈の枠組みで読み解くことは、本来の姿を見失わせてしまうのではないか。
こうした問題意識が、日本古典の再評価へとつながりました。

ここから先で扱う「ますらおぶり」という概念も、まさにこの新しい視座の中から生まれたものです。

賀茂真淵は何を見たのか ― 日本古典の再評価

国学という視座のもとで、賀茂真淵は日本の古典をどのように見直したのでしょうか。

彼の関心は、単に古い書物を称賛することではありませんでした。日本の古典の中に、当時の一般的な評価とは異なる価値を見出そうとしたのです。

万葉集と「ますらおぶり」

賀茂真淵がとりわけ高く評価したのが『万葉集』でした。奈良時代に成立したこの歌集には、天皇や貴族だけでなく、防人や地方の人々の歌も収められています。

真淵がそこに見たのは、感情の率直さでした。

恋しさ、悲しみ、旅の不安、自然への感動。
それらが、技巧で包み隠されることなく、ほとんどそのままの形で言葉になっている。

真淵はその歌風を「ますらおぶり」と呼びます。

「ますらお」とは本来、勇ましい男子を指す言葉です。しかし真淵の用法は、単に男性的という意味ではありません。理屈で整えられる前の、力強くまっすぐな表現を指していました。

つまり「ますらおぶり」とは、感情が理によって加工される以前の、直接的な歌風を評価する言葉だったのです。

古今和歌集と「たをやめぶり」

一方で、平安時代初期に編纂された『古今和歌集』について、真淵は異なる印象を抱きます。

古今和歌集の歌は、優美で洗練されています。
自然の情景に心情を託し、言葉を選び、技巧を凝らして表現する。その完成度の高さこそが、長く高く評価されてきた理由でもありました。

しかし真淵は、そこに「作為」を感じ取ります。

感情がいったん整えられ、磨かれ、婉曲に表現されているのではないかと考えたのです。

彼はこの歌風を「たをやめぶり」と呼びました。

「たをやめ」は柔らかく優しい女性を指す語ですが、ここでも単純な性差の意味ではありません。感情を直接に表すのではなく、やわらかく包み、整えた表現様式を示す言葉でした。

「ますらおぶり」と「たをやめぶり」が示したもの

こうして真淵は、万葉集と古今和歌集の違いを、それぞれ「ますらおぶり」「たをやめぶり」という言葉で整理します。

ここで重要なのは、彼が単に好みを語ったのではないという点です。
当時の常識では、洗練された古今和歌集こそが完成された和歌と見なされることが多く、万葉集は素朴で未熟と評されることもありました。

真淵は、その評価の前提を問い直します。

技巧の洗練を基準にするのか。
それとも、感情の率直さを基準にするのか。

万葉集を「ますらおぶり」と名付けたことは、古典の優劣を逆転させる行為でもありました。
それは、古典を一つの価値基準で測るのではなく、どのような基準で見るのかを意識化する試みでもあったのです。

国学の中での「ますらおぶり」の位置付け

前節では、賀茂真淵が万葉集を「ますらおぶり」と名付け、高く評価したことを確認しました。

では、この「ますらおぶり」は、国学そのものを代表する思想だったのでしょうか。

賀茂真淵の結論 ― 万葉集を本源的とする評価

賀茂真淵は、万葉集の歌風を「ますらおぶり」と呼び、それを理想的な姿として位置付けました。率直で、力強く、感情が直接にあらわれる表現こそが、日本の古典の本源的な姿であると考えたのです。

これは単なる分類ではなく、明確な評価でした。

万葉集を本源的なものとし、古今和歌集以降の歌風を後世的なものとみなす。その意味で「ますらおぶり」は、真淵が到達した一つの結論でもありました。

しかし重要なのは、この評価がどこから導かれたのかという点です。
真淵は外来の価値基準で古典を裁くことに疑問を抱き、日本の言葉と感覚に即して読み直そうとしました。その結果として、万葉集が本源的に映ったのです。

本居宣長と「ますらおぶり」

国学者として知られる本居宣長は、賀茂真淵の影響を強く受けています。
しかし宣長は、真淵の「ますらおぶり」という評価軸をそのまま中心に据えたわけではありません。古今和歌集や源氏物語といった平安文学は、むしろ宣長にとって重要な研究対象であり、その読解の中から「もののあはれ」という古典理解の枠組みが形づくられました。

賀茂真淵と本居宣長の出した結論は異なります。

しかし、いずれも外来の理で裁くのではなく、日本の古典をその内側から理解しようとする姿勢に立っていました。

宣長にとって、日本の古典の核心は、感情の率直さというよりも、物事に触れたときに生じる繊細な心の動きでした。
💡関連記事:もののあはれとは?-侘び寂びとの違いと歴史に与えた影響

国学は方法であって結論ではない

この対比から見えてくるのは、国学が一つの結論を押し付ける学問ではなかったという点です。

国学の基本姿勢は、古典を後世の理屈や外来の価値観で裁かず、日本の言葉と感覚に即して読み直すことにありました。その方法を用いた結果として、賀茂真淵は「ますらおぶり」という評価に至り、本居宣長は「もののあはれ」という理解に至ったのです。

「ますらおぶり」は、国学そのものではありません。
それは、国学という視座から導き出された賀茂真淵の一つの結論でした。

この整理を踏まえると、国学とは固定された思想体系というよりも、古典との向き合い方を問い直す方法論であったと考えることができます。

そしてその方法は、読む人によって異なる結論へと開かれていたのです。


国学の方法は、後の水戸学や復古神道へも影響を与えていきます。


本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。

江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。