法や民主主義、人権の理念があっても、暴力の前では簡単に崩れ去る――歴史はその現実を何度も示してきました。特に女性リーダーは、社会の象徴として希望を集める一方、保守的な価値観や権力層からの強い反発を招きやすい存在です。
この記事では、暗殺や弾圧に直面した女性指導者たちの歴史を振り返り、現代や日本にも続く男性優位社会の構造について考えます。
暗殺された女性リーダー
歴史の中で、女性が国家や組織のトップに立つことは、しばしば象徴的な意味を持ちました。
改革や民主化の象徴であるがゆえに、人々の希望を集める一方、保守的な価値観や既得権益を脅かす存在とも見なされてしまうのです。その象徴性が女性リーダーを攻撃の標的にしてきた事例は少なくありません。
ここでは、暗殺という最も苛烈な手段で命を奪われた女性たちの歴史を振り返ります。
ベナジル・ブット ― 暗殺されたイスラム圏初の女性首相
パキスタンの元首相ベナジル・ブットは、イスラム圏で初めて女性として国家のトップに立った指導者でした。その象徴性は人々の希望であると同時に、保守的な価値観や権力層からの強い反発を呼び、彼女の人生を過酷な運命へと導いていきます。

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ここでは、ブットの歩みを時系列でたどります。
父の死と象徴の始まり
ベナジル・ブットは1953年、パキスタンの名門政治家一族に生まれました。
父のズルフィカール・アリー・ブットはパキスタン人民党(PPP)の創設者であり、首相として国民的な人気を誇っていました。しかし1977年、軍事クーデターで政権を奪われ、後に軍事政権によって処刑されます。
ベナジル自身も政治活動を理由に度々自宅軟禁や投獄を経験し、その後国外へ亡命しました。父の死と自身の亡命生活を経て、彼女は軍事独裁と対峙する「民主化の象徴」として国際的な注目を集める存在となっていきます。
民主化の旗手から首相へ
1986年、ブットはロンドンでの亡命生活を経てパキスタンに帰国。帰国時には空港や街頭に数十万人規模の群衆が押し寄せ、彼女を歓迎しました。軍事政権下で自由を制限されてきた国民にとって、ブットは父の遺志を継ぐ民主化の象徴であり、若い女性リーダーの登場は国全体に強いインパクトを与えたのです。
1988年、軍事政権のトップであったジア=ウル=ハク大統領が事故死すると民主化の機運が高まり、総選挙でPPPが勝利。ブットはイスラム圏初の女性首相として歴史を動かしました。
首相就任後、ブットは女性教育の拡充や母子保健の改善など社会福祉政策を積極的に推進しました。また、言論の自由を一部回復し、国際社会からは民主化の象徴として高い評価を受けます。
しかし、こうした政策は国内の保守派や宗教勢力から「伝統に反する」との批判を浴び、彼女の存在はますます強烈な政治的・文化的対立の象徴となっていきました。
男性優位社会と宗教的価値観がもたらした反発
ブットは女性としてイスラム圏で初めて首相に就任したことで、国内外の注目を浴びましたが、その象徴性は彼女に強烈な敵意も向けることになりました。
パキスタンはイスラム教を国教とし、伝統的に男性が政治・社会の主導権を握る文化が根強く残る社会です。「女性が国を率いる」という事実そのものが、保守的な宗教指導者や男性中心の権力層には受け入れ難いものでした。彼女は演説や政策で民主化や女性の権利拡大を訴える一方、宗教保守派からは「イスラムの価値観に反する」と批判され続けたのです。
さらに、軍部や保守勢力の中には、ブットの家系を「世襲的で西洋志向のエリート」とみなし敵視する動きもありました。二度の首相就任期はいずれも短命に終わり、汚職疑惑や政治的圧力によって失脚に追い込まれます。
亡命を余儀なくされた彼女の歩みは、単なる政治の混迷ではなく、男性優位社会の中で女性リーダーが強烈な反発の矢面に立たされた歴史そのものでした。
帰国と暗殺
2007年、軍政下のパキスタンで再び民主化を求める声が高まる中、ブットは亡命先のロンドンから帰国し、選挙活動を再開しました。帰国直後から彼女の演説や移動には常に爆弾テロや暗殺の脅威がつきまとい、警備は厳重を極めます。
しかし同年12月、総選挙に向けた集会で彼女は銃撃を受け、その後車列近くで自爆テロが発生し命を落としました。事件の背後にはイスラム過激派や政府・軍部の関与が噂され、真相は今もはっきりしていません。
ブットの死はパキスタンだけでなく世界に衝撃を与え、女性の政治参加と民主化運動の象徴が暴力によって奪われた歴史的事件として記憶されることとなりました。
インディラ・ガンディー ― 強権政策の代償
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インド初代首相ネルーの娘であるインディラ・ガンディーは、党内の長老政治家たちに「操りやすい人物」として抜擢され、1966年に首相に就任しました。当初は「操り人形」「口のきけない人形(Gungi Gudiya)」と揶揄され、女性だからこそ軽視される存在として権力闘争の道具と見られていました。
しかしその評価はやがて一変します。彼女は第三次印パ戦争(バングラデシュ独立戦争)を指導し、インドを地域大国へと押し上げる強力なリーダーとなり、1974年にはインド初の核実験を実施しました。強権的な政策決断で存在感を示した一方、今度は「女性らしくない」「独裁的だ」という批判が集中しました。
これは、男性政治家であれば当然とされる強い指導力が、彼女の場合は否定的に捉えられたということであり、女性リーダーに対する社会の偏見を映し出すものでした。
1984年、シク教徒過激派の拠点であった黄金寺院を軍事制圧したことが引き金となり、護衛のシク教徒警備員によって射殺されました。彼女の死は宗教対立の緊張を一層高めると同時に、男性中心の社会で女性リーダーが直面した反発の激しさを物語っています。
インディラ・ガンディーのように、歴史の中では女性リーダーが強権的で苛烈な決断を下すことがあります。その背景(Glass Cliff理論など)について、下記の記事で詳しく紹介していますので、ぜひあわせてご覧ください。
💡関連記事:女性リーダーは平和主義者?―強硬な選択をした歴史的指導者たち
男性優位社会の現実
女性リーダーが命を狙われた歴史は過去の出来事に見えますが、男性中心の価値観や構造は現代社会にも色濃く残っています。
暴力による抑圧が今も続く国がある一方で、日本のように表立った暴力はなくても、文化や慣習が女性の声を抑え込む現実が存在します。ここでは、世界と日本の両方で続く男性優位社会の姿を見ていきます。
アフガニスタンのタリバン政権
2021年にアフガニスタンでタリバン政権が復活すると、女性の教育・就労の権利は一瞬で奪われました。女性は学校や職場から追い出され、公共の場での行動にも厳しい制限が課せられています。
20世紀後半から世界中で推進されてきた男女平等の理念も、武力による政権掌握の前では簡単に無効化されるという現実が、改めて突き付けられたのです。
タリバン政権後の女性抑圧についてまとめられた動画を一つ紹介します。(日テレNEWS)
権利を虐げられていても、力で敵わない女性たちは、国際社会からの支援を求め続けています。
📺YouTube :【“タリバン復権”から3年】権利抑圧続く…アフガン女性の現状は
日本の事例 ― 男性から女性への反発
日本でも、女性が声を上げて権利を求めることは、歴史的に男性中心の価値観や社会秩序との衝突を避けられませんでした。
暴力で命を奪うような事例は少なかったものの、女性の政治参加や社会進出を求める動きは、たびたび男性側から強い反発や揶揄の対象となりました。
家父長制廃止
明治民法(1898年施行)では、家長が家族の財産や身分を一手に支配する家制度が法制化されました。この制度のもとで女性は家庭内で従属する存在と位置づけられ、「女性が外に出て活動するのは恥ずかしい」という価値観が社会全体に浸透します。
戦後の1947年民法改正により家制度は廃止され、男女平等が法の下で明確に定められましたが、価値観の変化には長い時間を要しました。形式的には平等が確立しても、社会の根底には男性優位の意識が色濃く残っていたのです。
女性参政権
女性参政権の獲得運動もまた、男性社会からの反発を強く受けました。
明治期には女性が政治集会に参加することすら禁じられ、大正デモクラシー期に市川房枝らが参政権を訴え始めると、「女性は家庭に専念すべきだ」「女性に政治を任せるのは危険」といった声が国会や新聞社から相次ぎました。
戦後、GHQの指導のもと1945年に女性参政権が付与されましたが、当時の議論記録には「女性に政治能力があるのか疑問」という男性議員の発言が数多く残っています。1946年の選挙で初めて当選した女性議員39名は「装飾品」と揶揄され、女性の政治参加は冷ややかに受け止められました。
法律が変わっても価値観は一夜にして変わらず、「女性が声を上げること」そのものが日本でも歴史的に挑戦であったことがわかります。
高度経済成長から現代まで
1950~70年代は「女性は寿退社」「男性が家計を担う」という文化が強固で、キャリア志向の女性は「男の仕事に口を出すな」といった抵抗や嫌がらせを受けることが多くありました。
また、1985年に制定された男女雇用機会均等法により形式上は性差別が禁止されましたが、管理職女性への嫌味やセクハラは社会問題化し、現代でも議論が続いています。
法律や制度の整備は進んでも、価値観や文化の変化は時間を要し、「女性が声を上げる」ことが容易ではない構造は、今も社会の中に根強く存在しているのです。
世界は「暴力以外の新秩序」の模索中
ベナジル・ブットやインディラ・ガンディーの死は、女性が権力の座に立つという行為そのものが「社会秩序を揺るがす脅威」とみなされることを示しました。タリバン政権の例が証明するように、暴力や軍事力の前では、法や理念、民主主義は驚くほど簡単に崩れ去ります。日本の歴史の中でも、「男の立場が脅かされる」という心理的な反発は様々な形で表面化しています。
現代の社会は「平和で安全」なように見えても、権利や自由は意識しなければ簡単に失われる可能性があります。
女性を脅したいわけでも、男性を責めたいわけでもありません。ただ、歴史が示すのは、暴力や権力の前に理想が崩れ去る瞬間が何度も繰り返されてきたという現実です。それでも、女性参政権の実現や法制度の改革がそうであったように、人々の行動や声が社会を少しずつ変えてきたことも事実です。
暴力の構造を理解し、その上で新しい秩序を模索することが、未来を作る第一歩ではないでしょうか。