英語の canon と cannon。
発音は同じでも、意味はまったく違います。
もとは別々の言葉が、フランス語で一度ひとつになり、
英語で再び分かれることになりました。
本記事では、言葉の不思議な“分かれ道”を、歴史の流れから辿ります。
英語の「canon」と「cannon」― 意味と発音
日本人にとって、“canon”と“cannon”はまったく別の単語に感じられるかもしれません。
“canon”は「カノン」、音楽や宗教でよく聞く言葉。
“cannon”は「キャノン」、大砲や火力を連想させる単語です。
ところが、英語ではこの二つの発音は同じなのです。(話者や文脈によって異なる場合もあり)
canonとcannonの比較 ― 同音異義語
実際に比べてみましょう。
単語 | 発音(IPA) | カタカナ読み | 意味 |
---|---|---|---|
canon | /ˈkænən/ | カナン(カノン) | 正典・規範・ルール |
cannon | /ˈkænən/ | カナン(キャノン) | 大砲・砲身 |
このように、英語では同音異義語(homophone)の関係にあります。
どちらも「カナン」と発音され、耳だけでは区別がつきません。
フランス語では同じ単語だった「canon」と「cannon」
英語の canon と cannon は、どちらももともとフランス語の canon(カノン) から入ってきた言葉です。
フランス語では、「正典」と「大砲」という二つの意味を、一つの単語 canon が兼ねています。
この状態は現代フランス語でも同じで、文脈によって自然に使い分けられています。
フランス語の「canon」 ― 同形異源
フランス語の canon は、中世の時代には「銃身」「砲身」といった武器の部品を意味する一方で、宗教の世界では「教会法」「聖書の正典」という全く異なる意味でも使われていました。
別の語源を持つ二つの言葉が、フランス語の中で偶然同じ形になってしまったのです。
このように、一見無関係な意味が一つの単語に集約される現象を、言語学では「同形異源(homonymie d’origine différente)」と呼びます。
フランス語での使われ方
現代フランス語での「canon」の代表的な使われ方には、次のようなものが挙げられます。
意味の分類 | 例 | 説明 |
---|---|---|
物理的な意味 | le canon d’un fusil(銃の銃身) | 「筒状のもの」から転じた意味 |
宗教的な意味 | le canon biblique(聖書正典) | 「基準・正典」の意味 |
比喩的な意味 | le canon de la beauté(美の基準) | 「理想・模範」へと拡張 |
口語・スラング | Elle est canon !(彼女、超かわいい!) | 「理想的な存在」という現代的用法 |
こうした「同じ形で異なる意味を持つ言葉」は、日本語の「はし(橋・箸・端)」のような現象に近いといえます。フランス語話者も、文脈の中で自然に意味を判断しているのです。
canonとcannonの出発点 ― 二つの語源
フランス語で「正典」と「大砲」が同じ canon という単語に集約された背景には、さらに深い歴史があります。
canon という言葉の背後には、まったく異なる二つの語源が存在しています。

俗ラテン語は、いわば庶民が使っていた“話し言葉のラテン語”で、後のフランス語やイタリア語の源になりました。
ギリシャ語 kanōn ― 「定規」から「規範」へ
“canon”の宗教的な意味は、ギリシャ語の κανών (kanōn) に由来します。
この言葉はもともと「竹や葦で作った定規」「測るための棒」を意味していました。
そこから転じて「基準」「規範」「ルール」といった抽象的な意味を持つようになり、やがてラテン語 canon を経て「正典」「教会法」という宗教的語彙に発展しました。
たとえば「聖書の正典(the biblical canon)」という表現は、「正しいと認められた書物のリスト」――つまり“基準に沿った文書群”という原義をそのまま受け継いでいます。
ラテン語 canna ― 「葦」から「筒」「砲身」へ
一方、“cannon”の語源はラテン語の canna(葦・管) です。
この単語は「中が空洞の植物」を指しており、のちに「管」「筒」を意味するようになりました。
その延長で、「筒状のもの=銃身」や「砲身」を表すようになり、中世フランス語で canon(カノン)という形に変化しました。
やがて火薬を使った兵器が登場すると、この「筒」が「大砲」の意味を担うようになったのです。
二つの源流がフランス語で合流する
こうして、
- ギリシャ語 kanōn から来た「基準・規範」の canon
- ラテン語 canna から来た「管・筒」の canon
という別々の言葉が、フランス語の中で偶然同じ形に重なったのです。
その結果、フランス語では「大砲」も「正典」も同じ canon という単語になりました。
そしてこの“同形異源”の状態のまま、英語へと受け継がれていきます。
英語で“再び分けられた”「canon」と「cannon」
14世紀ごろ、フランス語から両方の単語が英語に入ってきた当初、どちらも canon と綴られていました。
つまりフランス語と同様に、英語でも「正典」も「大砲」も同じ canon で書かれ、意味は文脈で判断していたのです。
発音と意味でスペルが整理された英語
15〜16世紀になって、印刷技術(グーテンベルクの印刷機)が登場し、印刷物が大量に流通するようになると、英語では多くの単語で発音や意味の違いに応じてスペルが整理されていきます。
- later(後で)と latter(後者)
- plane(平面)と plain(明白な)
- canon(正典)と cannon(大砲)
この過程で、“canon” と “cannon” も 自然発生的に分化したと考えられています。
“n”を二つにした“cannon”を「大砲」に割り当て、“canon”を「正典」に限定したのです。
これは、英語の合理的で実用的な進化の一例といえるでしょう。
英語で”n”が重ねられた理由
“cannon” の “n” が2つになったのも、以下のような自然な理由によると考えられています。
- 「大砲(cannon)」の方が物理的・力強いイメージを持つため、
綴りでも“重さ”を感じさせる形に変化した。 - 音声的にも、語中の /n/ が強く発音される傾向があったため、
書き手がそれを視覚的に表そうとした。
印刷業者・文筆家・辞書編纂者が「どちらの綴りを採用するか」を選ぶようになり、18世紀までには現代の形――canon(正典)と cannon(大砲)――が確立しました。
フランス語では整理されない理由
英語が印刷や出版の普及とともに、自然に綴りを整理していったのに対し、フランス語では「言葉の統一」を国家が主導する形で進めました。
文化の伝統を重んじるフランス語
17世紀に設立されたフランス学士院(Académie française)は、フランス語を「明晰で優美な言語」として整える使命を掲げ、語彙や文法を体系的に整理しようとしました。
ところが、フランス語の世界では「言葉は文化そのもの」という意識が強く、古い表現や二重の意味を“削る”よりも、“残す”ことに価値が置かれました。
そのため、同じ単語が複数の意味を持つことは「不備」ではなく、文脈によって柔軟に使い分けられる豊かさとして受け入れられたのです。
実際、1990年代にも「綴りの簡略化(réforme de l’orthographe)」が試みられましたが、人々の間では「古い綴りのほうが美しい」「文学の伝統を壊す」と反発も多く、最終的にはどちらの表記も“正しい”とされる曖昧なまま終わりました。
言語哲学にも見られる「革新」と「保守」
英語が「現場で必要に応じて変わっていく」言語であるのに対し、
フランス語は「文化を守るために変えすぎない」言語。
言葉への姿勢の違いは、まるで現代社会における「革新」と「保守」の対立にも重なります。
どちらが正しいというよりも、言葉の扱い方にはその国の文化的な哲学が映し出されているのです。
現代に生きる“カノン”の言葉たち
現代の日本でも、このカノンに由来した言葉が使われています。
音楽のカノンは“原義”に近い使われ方
音楽の「カノン(canon)」は、宗教的な「正典」よりもさらに原義に近い、「ルール・規則」という意味で使われています。
一つの旋律を他の声部が一定の規則に従って追いかける――それがカノン形式です。
つまり「規範に従う音楽」、これこそ言葉の語源そのものなのです。
たとえばパッヘルベルの「カノン」は、「規則的な模倣によって構成された曲」という意味。
「かえるの合唱」も、実は立派なカノン(輪唱)に分類されます。
ここでは“canon”が「ルール」「秩序」として機能し、芸術的な形式に昇華しているのです。
企業名「Canon」に込められた意味
日本のキヤノン株式会社の“Canon”は、「大砲(cannon)」ではなく「正典(canon)」の方に由来します。
1934年、創業時の試作カメラは「KWANON(観音)」という名前でした。観音菩薩のように「慈悲の眼で世界を見つめるカメラ」を象徴していたのです。
その後、国際的な展開を考慮して“Canon”に改められました。
英語の“canon(正典・理想・基準)”に重ねて、「真実と正しさを追求する企業でありたい」という理念が込められています。
フランス語圏では“canon”が「大砲」も意味するため、初期には「ちょっと物騒な名前」と感じた人もいたそうです。しかし現在では完全にブランド名として定着しており、むしろ「完璧」「理想的」といったポジティブな印象を与えています。
言葉の多義性が、ここでは企業ブランドの豊かさに変わった好例といえるでしょう。
言葉は混ざり、また分かれる ― カノンに見る言語の循環
“canon”と“cannon”は、まるで川のように、別々の源流から流れ出し、途中で一度交わり、そして再び分かれていった言葉です。
- “canon”は「規範・正典」、ギリシャ語 kanōn(定規)由来。
- “cannon”は「大砲・砲身」、ラテン語 canna(葦・管)由来。
- フランス語で一度同じ形に融合し、英語で再び分離した。
ギリシャ語、ラテン語、フランス語、そして英語。
それぞれの時代の文化や思考の流れが、たった一文字の違いの中に刻み込まれています。
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