💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。
江戸時代の学問・思想を追っていくと、たびたび「朱子学」という言葉が出てきます。広く学ばれていたことは知られていますが、「実際に何を学んでいたのか」までは意識されにくいかもしれません。
その中心にあったのが「四書五経:ししょごきょう」です。
論語を含む複数の古典から成り、江戸時代の武士たちが教科書として学んだ思想の土台でした。
| 分類 | 書の構成 | 内容 | 位置付け |
|---|---|---|---|
| 四書 | 大学、論語、孟子、中庸 | 思想構造 | 学びの入口 |
| 五経 | 易経、書経、詩経、礼記、春秋 | 分野 | 伝統的権威 |
本記事では、四書五経の内容をざっくり整理しながら、「論語はどこに位置づくのか」「朱子学はどのような構造を持っていたのか」を俯瞰します。
四書五経の輪郭を知ることで、江戸思想の地盤が少し見えやすくなるはずです。
四書 ― 朱子学の中心テキスト
四書は、朱子学の学びにおいて中心となった古典群です。
江戸時代の武士教育や藩校教育では、四書を基礎として理解し、その上で世界や政治、人間をどう捉えるかを組み立てていく、という学び方が広まりました。
| 書名 | 書名よみ | 学び | 概要 |
|---|---|---|---|
| 大学 | だいがく | 修養 | 身を修めて国を治める論理 |
| 論語 | ろんご | 人間 | 孔子の言行録と君子像 |
| 孟子 | もうし | 政治 | 性善説と為政者批判 |
| 中庸 | ちゅうよう | 哲学 | 天と人をつなぐ均衡思想 |
四書は「人はどう生きるべきか」「社会や政治をどう整えるべきか」を、比較的コンパクトに提示してくれる枠組みでもあります。
大学 ― 身を修めて天下を治める
『大学』は、「個人の修養」から「政治・社会の安定」へと論理を接続していく書です。
有名なのが、修身・斉家・治国・平天下という流れです。
まず自分を整え、家を整え、国を治め、天下を平らかにする。乱暴に言えば、社会の秩序は個人の心の持ち方や行いに根を持つ、という発想です。
👉修身・忠孝・名分の基礎
👉格物致知は修養の基本姿勢(学び)
秩序を保つには制度だけでなく、人の内面や道徳が要る。為政者にも徳が要る。こうした「徳と秩序の接続」を、教科書として提示しやすいのが『大学』の特徴です。
朱子学では、「格物致知」が学問の出発点とされました。物事の理を究めることが、やがて忠孝や名分といった秩序の徳へとつながると考えられたのです。
同じ儒学でも、朱子学と陽明学では格物致知の解釈が異なります。
💡関連記事:朱子学と陽明学の「学ぶ」とは何か ― 江戸時代の「知」の思想
論語 ― 孔子の言葉から学ぶ人間論
『論語』は、孔子と弟子たちの言行録、あるいは対話集のように読める書です。
内容は断章的で、長大な理論書というよりも、短い言葉の積み重ねで人間像を形作っていきます。そこで繰り返し問われるのは、仁とは何か、君子とは何か、政治とは何か、といったテーマです。
👉 忠・仁・君子像。名分論(役割秩序)の根拠
現代では『論語』が人生訓として読まれることも多いですが、江戸時代の朱子学学習の中では、それは「個人の処世術」にとどまらず、統治や秩序を支える人間観の教材でもありました。
つまり、論語を読むことは、単に「良い言葉を集める」ことではなく、「人間とはこうあるべきだ」という規範の輪郭を手に入れることでもあった、という見方ができます。
志学・而立・不惑 ― 年齢を表す言葉の出典
論語には、志学・而立・不惑など、年齢を表す言葉として有名な一節も含まれます。
こうした表現は、いまでも人生の節目を語る言葉として引用されますが、背景に「学ぶこと」「自分を立てること」「迷いが減っていくこと」といった成長の筋道が含まれている点が興味深いところです。
論語が生活者の言葉として残った一方で、朱子学の教育体系の中にも組み込まれていた、という二重の位置づけが見えてきます。
論語の年齢を表す言葉と意味については、以下の記事でまとめています。
💡関連記事:「論語」の「年齢を表す言葉」 ― 意味の解説と覚え方紹介
孟子 ― 民を重んじる政治思想
『孟子』は、政治思想が前面に出やすい書です。
性善説という人間観が有名ですが、それだけではなく、為政者のあるべき姿を強く問い、場合によっては為政者を厳しく批判する論理も持っています。ここには、統治の正当性を徳と結びつける発想がはっきり見えます。
👉 徳治・為政者の正統性
江戸の思想史を見ていくと、政治的な緊張が高まる局面で、人々が「為政者の徳」「政治の正統性」を問い直す場面があります。孟子をどう読むかは、単なる学問の問題を越えて、現実の政治観にも影響しうる性格を持っていたはずです。
中庸 ― 天と人をつなぐ哲学
『中庸』は、四書の中でも抽象度が高く、哲学的な議論が中心になります。
中とは何か、偏らないとはどういうことか、天(天理)と人の心はどう結びつくのか。こうしたテーマは、具体的な日常の作法や政治の作り方というより、世界の仕組みや人間の根本を捉える視点に近いです。
👉 理(ことわり)・天理・世界秩序
朱子学を「道徳の学問」としてだけ捉えると薄く見えるのですが、中庸的な層を意識すると、朱子学が「世界の理(ことわり)」を扱う学として組み立てられていたことも見えやすくなります。
理の探求を進める中で、京都の山崎闇斎は神道にも天理が現れていると考え、朱子学的な枠組みで再解釈していきます。
💡関連記事:垂加神道とは何か ― 朱子学と神道を結びつけた江戸前期の思想
五経 ― 古代から伝わる権威ある経典
四書が朱子学の中心教材だとすると、五経はより古い伝統的権威として、その背後を支える古典群です。領域は広く、政治文書、詩、礼、歴史、宇宙論まで含みます。
| 書名 | 書名よみ | 学び | 概要 |
|---|---|---|---|
| 易経 | えききょう | 宇宙 | 陰陽と変化の理を説く書 |
| 書経 | しょきょう | 政治 | 古代王朝の政治文書集 |
| 詩経 | しきょう | 詩歌 | 民衆と宮廷の歌を集めた詩集 |
| 礼記 | らいき | 秩序 | 社会を支える礼と規範の思想 |
| 春秋 | しゅんじゅう | 歴史 | 価値判断を含む年代記 |
江戸時代の学習の現場でも、四書ほど「入口の教科書」として一律に扱われるというより、基礎を踏まえた上で古典の権威へ接続していく層として意識されやすかったかもしれません。
易経 ― 変化の理を説く書
『易経』は占いの書として知られますが、同時に「世界は変化する」「変化には法則がある」という宇宙観の書としても読まれてきました。
👉理気二元論(りきにげんろん)の背景
理気二元論というのは、世界は「理(ことわり)」と「気(エネルギー・素材)」から成り立っているという、朱子学の基本的な世界観です。
元気や気力といった「気」を含む言葉は朱子学よりも前から使われていたもので、朱子学の「気」はその延長線上にある“哲学的な精密化”です。日本で古くからある漢語由来の表現に、朱子学は理論的な枠組みを与えた、と見ることもできるでしょう。
陰陽や変化の捉え方は、思想の下地としては非常に強力です。ただ、現代人がいきなり手に取って理解しやすい類の本ではなく、入口としては難所になりがちです。
書経 ― 理想の政治を語る記録
『書経』は古代の政治文書や言説を集めたものとされ、為政者の徳や理想の政治のあり方が語られます。
👉 王道政治
政治が「力の技術」だけでなく「徳の実践」として語られるとき、その権威づけの根拠として参照されやすい性格があります。
詩経 ― 人々の歌と感情
『詩経』は古代の詩集です。
民衆の歌のようなものから宮廷詩まで含み、当時の生活感情や価値観が反映されます。
👉 徳目の情緒的体験(人格形成の文化的素養)
儒学が道徳や政治だけでなく、人間の情や社会の空気まで含む学として存在したことを示す素材でもあります。
礼記 ― 秩序と儀礼の思想
『礼記』は、礼(儀礼・規範・秩序)を扱う書です。
礼は単なる作法ではなく、社会の安定や上下関係の調整に直結する概念です。
👉 名分論・身分秩序
江戸時代の身分秩序や統治の現実を考えると、礼記的な秩序観が学問の側から支えになりやすかったことは想像しやすいところです。
春秋 ― 歴史に込められた価値判断
『春秋』は歴史書ですが、ただの年表ではなく、書き方そのものに価値判断を含ませるという独特の性格が語られます。
👉 正統論・歴史観
歴史は中立な記録ではなく、正統や道徳を示す場にもなる。こうした歴史観は、後世の「正しさ」をめぐる議論と相性が良く、思想史の外縁を固める材料になり得ます。
水戸学の歴史編纂姿勢は、春秋に見られる「歴史によって正統を示す」という儒学的態度の影響を受けていると考えられます。
💡関連記事:水戸学とは何か?徳川光圀の『大日本史』から幕末の尊王攘夷まで
まとめ:四書五経と朱子学の概念整理
四書五経と朱子学の中心的な概念の「構造的な関係」は、以下のように整理できます。
| 人間倫理層 | 秩序制度層 | 宇宙哲学層 |
|---|---|---|
| 大学 論語 孟子 | 礼記 春秋 書経 | 中庸 易経 |
| → 忠孝・徳治 | → 名分論・正統論 | → 理・天理 |
詩経は朱子学の中心概念(理・格物致知・名分論など)を直接支える書ではありません。
ただし、徳治・教化・感情の統制という面で、重要な役割を持っています。
なぜ江戸幕府は四書五経を採用したのか
ここまで見てきた四書五経は、単に古い本の集まりではありませんでした。
江戸時代の政治や社会を支える「秩序の理屈」と結びつきやすい点が重要です。
朱子学が重んじられた背景には、武士の統治を安定させるために、徳や礼を軸にした価値体系が必要だった、という事情があったと考えると整理しやすくなります。
朱子学の官学化と学びの標準化
朱子学は、学問としての優劣だけでなく、統治のための「共通言語」としても機能しやすい側面がありました。
共通の教科書があり、共通の規範があり、それを武士教育に組み込める。
四書五経は、その共通言語の核となる教材として位置づけられました。
武士教育と統治思想の接続
四書五経が提示するのは、乱暴に言えば「秩序は徳と礼で支える」という筋道です。
個人の修養と社会の安定を接続し、為政者の徳を強調し、礼によって関係性を整える。
これらは江戸社会の安定化にとって便利なだけでなく、理屈としての説得力も持ちえます。だからこそ「学ぶべきもの」として制度の中へ入り込みやすかったのでしょう。
朱子学は江戸社会の中に溶け込み、世間や道徳の形成に影響していきます。
💡関連記事:朱子学で読み解く江戸社会 ― 忠義と秩序の時代
朱子学と江戸社会
朱子学は、長い戦乱の時代を終えた後の日本において、安定した秩序を支える理論となりました。
礼節を大切にし、学び・努力することが善い事とされる価値観は、現代にも通じる部分があるようにも感じられます。
朱子学の先へ
しかし、そんな朱子学も完ぺきではありませんでした。
人は正しいと分かっていても、その通りに行動するとは限りません。
朱子学が広がった社会の中でも、苦しい生活をする人や、腐敗した政治は在り続けました。
正しさは外にある理ではなく、人の内面にあると考える陽明学が注目されるようになります。
💡関連記事:江戸中期の陽明学 ― なぜ社会は良くならないのか
また、中国古典を中心とした価値観で日本の古典と向き合うことに違和感を感じる思想も生まれます。国学は、仏教や儒教の姿勢を「漢意(からごころ)」として批判します。
朱子学が四書五経を核とするなら、国学は古事記や日本書紀、万葉集などへ向かいます。
日本の古典を道徳的教訓として読む姿勢そのものに疑問を投げかけます。
💡関連記事:江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか
朱子学は社会を安定化させる基礎となり、四書五経はその土台であり根拠といえるものでした。
長い江戸時代の中で部分的な見直しや批判はありましたが、朱子学は社会の骨格として存在感を示し続けました。
幕末以降、日本の古典や神道が見直される中でも、教育体系を持つ儒教は重視され、明治時代の価値観にも大きな影響を与えていきます。
本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。
江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。
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