本特集では、日本の「キリスト教の禁教」についての歴史を学べます。
現代では「信仰の自由」が保証されるのが「当たり前」となっています。個人が何を信仰するかは自由であるべきでしょう。しかし、信仰が国家を脅かす状況ではどうでしょうか。
キリスト教禁教史を学ぶ意味
令和時代の現代では、多文化共生という言葉が盛んに使われ、不法外国人や移民推進を巡って様々な議論が行われています。
この特集では、日本のキリスト教禁止の歴史を通じて、現代を考える新しい視点を見出します。
叶わなかった共生 ― 禁止・弾圧に至った経緯
江戸時代のキリスト教禁教の歴史には、現代との共通点が多く見られます。
ポルトガルやスペインの船が訪れるようになった17世紀。交易によって南蛮の珍しい品物や武器が手に入ることは、日本にとっても大きな利益に繋がっていました。
しかし、日本の国益を考えて受け入れていた外国人との共生は叶わず、日本は苛烈な弾圧に舵を切ります。
なぜかつての日本が外国人を追い出し、キリスト教を禁止する決断に至ったのかを学ぶことは、現代の多文化共生時代を見つめ直すことにも役立つでしょう。
キリスト教禁止の始まり ― 秀吉の「伴天連追放令」
秀吉の時代、ポルトガルとの交易に制限はありませんでした。
しかし、九州を平定した秀吉は、外国勢力の現状を目の当たりにし、国防のために動き始めます。
「伴天連追放令(ばてれんついほうれい)」は、日本の国土・国民を守るために発布された、日本で最初の「キリスト教禁止」に関する法令です。
秀吉の伴天連追放令は、キリスト教の「宗教としての教義」を否定はしていません。
日本の土地を占拠し、日本国民を奴隷として売り払う「キリスト教宣教師」を止めるための国防的な措置でした。
寛容から禁止へ ― 家康の「合理的な見極め」
秀吉の死後、伴天連追放令は形骸化し、宣教師たちは徐々に布教を再開します。その後天下を治めた家康は、キリスト教を危険視せず、交易によって得られる国益を重視します。
しかし、家康はスペインとの外交や、長崎でのトラブル(有馬事件)などを経て、寛容から禁止へと方針を転換していきます。
家康の特別外交顧問になっていたイギリス人「三浦按針」やスペインの使節「ビスカイノ」との歴史を確認すると、江戸幕府の「キリスト教禁教」の全貌が見えてきます。
キリスト教は、「全国禁教令」によって完全に禁止されましたが、キリスト教(プロテスタント)国のオランダとは、その後長い友好関係が続きます。
日本とオランダの歴史は、「宗教を禁止しても、国際的な協調関係を築くことができる」ことを示しているともいえるでしょう。
禁止から弾圧へ ― 家光の「制度化」と庶民の「反乱」
家康・秀忠の時代に「全国禁教令」が出されましたが、宣教師や日本人キリシタンはその法令に従いませんでした。
「日本の法」よりも「神の法」を優先する行為は、国家秩序を乱す「政治犯」とみなされ、残虐な刑罰(火刑、磔など)が執行されることになります。(殉教の時代)
家光の時代になると、宗門改や寺請制度といった「キリスト教禁止」の制度化が進み、国民一人一人が管理される社会になっていきます。(戸籍制度の前身)
特に弾圧が厳しかった九州地方の一地方・島原藩では、重税の取り立てにより庶民は貧困に苦しんでいました。彼らはキリスト教を掲げ、大規模な反乱を起こすに至ります。(島原の乱)
島原の乱を受けて、江戸幕府は全国的に寺請制度を実施。国内秩序の安定を強化しつつ、スペインに続いてポルトガル人も追放します。いわゆる「鎖国体制」が完成します。