「いただきます」は宗教? ― 日本と西洋の「食前の祈り」の違い

いただきます 思想

食事の前に言う「いただきます」。
その一言には、神への祈りとは異なる、日本人独自の“感謝の心”が込められています。

西洋の祈りとの違いから、その文化的な意味を探ります。

日本と西洋の「食前の祈り」の違い

人が食事を前に「感謝」や「祈り」を捧げる行為は、宗教を問わず世界各地で見られます。
まずは、「食前の祈り」がどのような意味を持ってきたのかを見ていきましょう。

キリスト教における「神への感謝」

ヨーロッパやアメリカでは、食事の前に手を組み、神に感謝を捧げる「食前の祈り(grace before meals)」という習慣があります。

これはキリスト教に由来する伝統で、食卓に並ぶ食べ物を「神から与えられた恵み(gift, bounty)」として受け取るものです。

祈りの定型文として有名なのが、次の言葉です。

Bless us, O Lord, and these thy gifts,
which we are about to receive from thy bounty,
through Christ our Lord. Amen.
(主よ、この食事とあなたの恵みに感謝します。キリストを通して。アーメン。)

このように、キリスト教の祈りでは「食物は神の恵みであり、神に感謝していただく」という信仰が前提になっています。
この文化は、古代ユダヤ教の食事祈祷(ベラカ―)に由来しており、イエス・キリスト自身も「最後の晩餐」で同様に祈りを捧げたと伝えられています。

つまり、食前の祈りは単なるマナーではなく、神とのつながりを再確認する宗教的行為なのです。

日本における「命をいただくこと」への感謝

一方、日本では食事前に「いただきます」と言う習慣がありますが、
その感謝の対象は神というよりも「命」や「自然」に向けられています。

神道では、あらゆるものにカミ(霊性)が宿るとされ、人間は自然界の命を「いただいて」生きている存在と考えられます。

同時に、仏教にも「五観の偈(ごかんのげ)」という食前の祈りの伝統があります。
これは食事の前に「食材に感謝し、自らの行いを省みる」ことを説くものです。

つまり日本では、神道の自然観と仏教の倫理観が重なり、宗教というより“命への感謝”としての祈りが生まれたといえます。

言葉としての「いただく」の由来

「いただく」という言葉は、もともと「頭上に掲げる」という意味の動詞でした。

身分の高い人や神仏から物を賜るとき、両手で頭より上に掲げて受け取る動作が「いただく」です。そこから転じて、「尊いものをありがたく受け取る」行為全般を表すようになりました。

食べ物に対して「いただきます」というのは、まさにこの敬意の表現なのです。

「食前の祈り」の違いまとめ

日本と西洋の「食前の祈り」の違いを表にまとめると以下のようになります。

比較項目海外(キリスト教圏)日本(神道・仏教文化)
対象神(唯一神)への感謝自然・命・作り手への感謝
起源宗教儀式・聖書的伝統宗教・民俗的信仰・倫理
意味合い神の恵みを受ける許し命をいただく謙虚さ
現代の形家庭や教会では継続、一部世俗化教育・習慣として全国的に定着
「食前の祈り」の違いまとめ

一見すると同じように見える食事前の光景でも、その意味合いには大きな違いがあることが分かります。

「いただきます」が食前の挨拶となった背景

西洋の祈りが宗教儀式として続いたのに対し、日本では「いただきます」が宗教色を離れ、日常的な習慣として広まっていきました。

江戸時代以前:「いただく」は謙譲語だった

中世から江戸時代にかけて、「いただく」はもっぱら謙譲語として使われていました。
身分の高い者や神仏から何かをもらうときに「いただく」と言い、特に食に限られた表現ではありませんでした。

農村社会では、自然の恵みを「命」として受け取る感覚がすでに存在しており、
「食べる=命をいただく」という意識が生活の中に根づいていたと考えられます。

ただしこの時代には、まだ食前に一斉に唱える定型句としての「いただきます」は一般的ではありませんでした。

明治〜昭和初期:家庭と学校で広まり始める

明治時代に入り、西洋の生活習慣や教育制度が導入されると、「食事のマナー」や「感謝の心」を家庭教育で教えるようになります。

このころから、食事の前に「いただきます」と声に出す習慣が広まり始めました。

ただし、当時はまだ地域や家庭によって違いがあり、全国的な統一的習慣ではありませんでした。

戦後:道徳教育と給食制度が全国へ広げた

第二次世界大戦後、日本の教育はGHQの指導のもとで大きく変わりました。

国家神道的な教育を排除するために「修身科(道徳教育)」は一時廃止されますが、
1950年代に入ると「心の教育」の必要性が再認識され、1958年には正式に「道徳の時間」が復活します。

このとき、宗教色を避けながらも感謝や思いやりを育てる生活習慣として、
「いただきます」と「ごちそうさま」が教育の一部に位置づけられました。

同時期に全国で学校給食が整備され、食事の前に教師の号令で「いただきます」を唱える形式が定着しました。

こうして「いただきます」は宗教儀式ではなく、道徳的・社会的な礼儀として全国に広まったのです。

給食指導の中の「いただきます」

学校では「食材を作った人・運んだ人・料理した人への感謝」を教えることが重視されました。
そのため、「いただきます」は信仰とは切り離された“感謝の言葉”として扱われ、
手を合わせる動作も「礼儀作法」として説明されるようになります。

使い分けられるようになった「いただく」と「頂戴する」

もともと「いただく」は、物や言葉などを敬って受け取る際にも使われていました。

しかし戦後、「いただきます」が食事前の挨拶として定着したことで、言葉の印象が「食べる」場面に限定されていきます。

そのため、贈り物などを受け取る場面では「いただきます」を避け、より改まった表現である「頂戴いたします」が使われるようになりました。

現代では、「いただきます」は食卓の言葉、「頂戴します」は贈答や敬語表現として、自然に棲み分けられています。

用途自然な表現備考
食前いただきます挨拶として固定化(宗教色なし)
物品受領頂戴いたします/ありがたく頂戴します敬語・ビジネス向け
名詞形頂き物古い敬語の名残で定着
「いただく」と「頂戴する」の変化

つまり現代では、動詞としての「いただきます」は食事限定の習慣語、名詞としての「頂き物」は 敬意を込めた受領語という、同じ語源から意味が分化した状態になっているのです。

歴史の中で意味が変化していった「かわいい」という日本の言葉は、今や世界的にも”Kawaii”として広まりました。言葉の変遷をたどった以下の記事も、是非ご覧ください。
💡関連記事:“かわいい”って何? ― 言葉の変遷に見る日本人の感性

現代の「いただきます」は宗教か、道徳か

現代社会では、「いただきます」を宗教的行為とみなすかどうかが、ときどき議論になります。

特に学校などで「手を合わせるのは宗教的だ」との意見が出ることがあります。

宗教行為とみなす声

一部の立場からは、「手を合わせる」行為自体が宗教的な所作であるとして、
信仰を持たない子どもに強制すべきではないという意見があります。

このような議論は「政教分離」や「信教の自由」といった憲法上の価値とも関わります。

日本の政教分離の法的根拠や、実際の裁判例などについては、以下の記事でまとめています。

文部科学省の公式見解

文部科学省は明確に、「いただきます」は宗教的行為ではないとしています。

『いただきます』は命や労働に感謝する生活上のあいさつであり、
宗教的儀式とは異なる。

という立場をとっており、教育現場でもそのように指導されています。

つまり、「神に祈る」行為ではなく、「命や人に感謝する」行為として説明されているのです。

「感謝」と「祈り」の境界線

西洋の食前の祈りが「神への祈り」であるのに対し、日本の「いただきます」は「命への感謝」です。

どちらも“目に見えない存在”への敬意を表すという点では共通していますが、
その対象と意図が異なります。

日本では、信仰よりも倫理・道徳としての祈りが形を変えて残ったのです。

大切にしたい「感謝」の気持ち

食前の祈りは、宗教でも文化でも、突き詰めれば「感謝の心」を表す行為です。

神に感謝する西洋と、命に感謝する日本。

その違いは、「何に感謝するか」という文化の方向性の違いにあります。

宗教かどうかや、お金を払っているかどうかに関わらず、自分の人生を支えてくれている全てに対して、謙虚に感謝の気持ちを持って過ごしたいものです。

関連記事:正しい参拝の作法とは?

初詣などで神社に参拝する際の作法「二礼二拍手一礼」には、それぞれの動作に意味があり、その中には、「いただきます」と同じように、敬意や感謝といった気持ちが含まれます。

以下の記事で詳しく紹介していますので、是非ご覧ください。