江戸後期の国学 ― なぜ学問から「神の国」の思想が生まれたのか

江戸後期の国学 思想

💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。

江戸時代の国学は、単なる古典研究にとどまらず、時代が下るにつれて思想としての性格を強めていきました。

とくに江戸後期に現れた国学は、「学問」という枠を越え、「この国はいかなる国なのか」「人はどのように生き、死ぬのか」といった、より根源的な問いに踏み込んでいきます。

なぜ国学は、最終的に「神の国」という思想へと至ったのでしょうか。
その背景を、江戸中期国学の成果から順を追って見ていきます。

江戸中期国学がもたらした視座の転換

江戸後期国学を理解するためには、その直前に成立した江戸中期国学が、何を成し遂げたのかを確認する必要があります。

古典を「正しく読む」という学問の成立

江戸中期の国学は、賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)らによって体系化されました。

彼らの最大の功績は、万葉集や古事記といった古典を、後世の解釈や先入観から切り離し、言葉そのものに即して読み直そうとした点にあります。

この時点の国学は、神道や政治思想ではありませんでした。
あくまで「古典をどう読むか」という、純粋な学問として成立していたのです。

朱子学的理屈を相対化する視座

同時に、この古典読解の姿勢は、当時の支配的な学問であった朱子学的世界観を、
結果として相対化しました。

朱子学の理屈を否定することが目的だったわけではありません。

しかし「後世の理屈をいったん脇に置く」という態度そのものが、日本固有の感覚や価値観を見直す視座を生み出しました。

ここで重要なのは、江戸中期国学が結論ではなく、方法論を提示した学問だったという点です。

江戸中期の国学については、以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:江戸中期の国学 ― 全てを理屈で説明できるのか

江戸後期という時代背景

思想化した国学の成立には、江戸後期特有の時代状況が深く関わっています。

外圧が可視化し始めた社会

19世紀初頭、日本はすでに外圧の兆候に晒されていました。
文化露寇フェートン号事件など、外国勢力の存在は幕府中枢にとって現実的な脅威となり、海防や国防への関心が高まっていきます。

また、伊能忠敬による全国測量事業も進められ、「国土」という概念が具体的に意識され始めた時期でもありました。

江戸後期の国学は、本居宣長の古事記伝からペリー来航までの間の期間、つまり「日本が外圧に直面した時代の直後」に広められていきます。

西暦出来事概要
1760年代〜1798年古事記伝本居宣長による古事記注釈書。江戸中期国学を学問として完成させ、日本固有の世界観を学問的に再構築した。
1806〜1807年文化露寇ロシア船が択捉・樺太などに来航。
北方からの軍事的外圧が現実問題として意識され始める。
(文化露寇後の1808年以降、伊能忠敬による蝦夷地測量が本格化)
1808年フェートン号事件イギリス軍艦が長崎に侵入。
鎖国体制の脆弱さが露呈し、幕府の海防意識が急速に高まる。
1810年代〜1840年代江戸後期国学(平田国学)の広がり平田篤胤の思想が書簡・門弟ネットワークを通じて全国に拡散。
学問を越え、世界観・死生観として受け取られていく。
1853年ペリー来航アメリカ艦隊が浦賀に来航。
外圧が誰の目にも明らかな形となり、日本社会は決定的な転換点を迎える。
江戸後期国学の広がった時代

ペリー来航以前の外圧の経緯や、伊能忠敬による測量事業の意味については、以下の記事で詳しく解説しています。

庶民が感じていた不安の正体

もっとも、庶民が国際情勢を具体的に理解していたわけではありません。
外国船を目にする機会は限られており、情報も断片的でした。

しかし、「世の中がどこかおかしくなりつつある」という感覚は、噂や風聞を通じて共有されていました。
不安は政治問題としてではなく、生活や生死の感覚として受け止められていたのです。

江戸後期の国学と平田篤胤 ― 「神の国」という思想の誕生

こうした時代の中で、江戸後期国学を象徴する人物が現れます。
それが平田篤胤(ひらたあつたね)です。

平田篤胤の思想の概要

平田篤胤の思想は、きわめて明確で断定的でした。

  • 神は実在する
  • 人の霊魂は死後も存続する
  • 日本は神々と結びついた特別な国である

これらは仮説や比喩ではなく、「そうである」と言い切られる世界観でした。

思想の源泉 ― 古典と民間信仰

平田の思想は、古事記日本書紀といった古典に正統性を置いています。
ただし、その姿勢は本居宣長のような精密な文献注釈とは異なります。

彼は、古典に描かれた神や死の感覚を、祖霊信仰怪異譚など、民間に残る感覚と結びつけて再構成しました。

江戸中期国学が打ち立てた方法論を踏まえ、古典の読み直しに留まらず、民間信仰についても「後世の迷信」と切り捨てるのではなく、「上代の世界観が生き残ったもの」と捉え直したのです。

ここまで見ると、平田篤胤は宗教家のようにも見えます。
それでも彼が国学者とされるのは、出発点が一貫して古典と上代観念に置かれているからです。

江戸後期国学は平田国学だけではない

江戸後期においても、国学のすべてが平田国学のように思想化したわけではありません。

本居宣長の方針を引き継ぎ、古事記や和歌、語学を中心に、学問として古典研究を続けた国学者も多く存在しました。そうした国学は、政治や信仰から距離を保ち、精密な読解を重んじる姿勢を維持していました。

その中で平田国学は、国学内部では決して主流ではなかったものの、学問の枠を越えて世界観や生死観を提示した、ひときわ異色の存在だったと言えるでしょう。

平田国学は、当時の国学の中で「唯一」でも「正統」でもありませんでした。
それにもかかわらず、結果として“最も社会に浸透した国学”の一つになっていきます。

平田国学はなぜ広まったのか

平田国学の特徴は、学問的評価以上に、その広がり方にあります。

普及活動の性格

平田篤胤は、書簡や門弟ネットワークを通じて、全国的に思想を広めました。
そこに金銭的利益や名声を求めた形跡はほとんど見られません。

彼自身が「これは正しい」「伝えなければならない」と信じていたことが、行動の原動力でした。

分かりやすさと実用性

宣長系国学が高度な文献読解を要求したのに対し、平田国学は直感的に理解できる世界観を提示しました。

生、死、祖先、国――
誰にとっても切実な問題に、直接答える思想だったことが、庶民層への浸透を後押しします。

外圧初期段階との相性

古事記伝の完成後、ペリー来航以前という時期は、外圧の兆しはあるものの、具体像が見えない「宙ぶらりんの不安な時代」でした。

平田国学は、この不安を理屈で分析するのではなく、「この国は神に守られている」という物語で包み込みました。
それは荒唐無稽な主張でありながら、現実感を持って受け止められたのです。

平田国学が与えた影響

平田国学の影響は、国学内部にとどまりませんでした。

庶民文化への影響 ― 怪談の受け取り方の変化

江戸前期・中期の怪談は、娯楽や教訓として語られる存在でした。
しかし江戸後期になると、怪異や霊の存在が、死後世界の証拠として受け止められる傾向が強まります。

怪談は「作り話」ではなく、「あり得るかもしれない話」へと変化していきました。

知識人思想への影響

一方で、知識人層では水戸学などに、平田国学の思想が部分的に吸収されていきます。

影響を与えたのは、国学の方法論ではありません。
「神国観」「天皇を中心とする世界観」といった、平田国学の思想部分でした。

学問を越えて、行動原理として利用可能な思想資源となった点に、その影響力があります。

水戸学については以下の記事で詳しく解説しています。

学問から思想へ ― 平田国学の射程と限界

最後に、江戸後期国学の意味を整理します。

国学史における平田国学

国学史の中での、平田国学の位置付けを整理してみます。

  1. 賀茂真淵・本居宣長
     → 国学を「学問」として完成させた
  2. 平田篤胤
     → 国学を「世界観・死生観の領域」へ押し広げた
  3. 幕末・明治
     → それを「政治・国家」に接続した

平田国学の「断定」 ― 学問から思想へ

平田国学の最大の特徴は、学問が避けてきた断定を行った点にあります。

  • 神は実在する
  • 死後の世界はある
  • 日本は特別である

その結果、世界観としての強さを獲得しました。

平田国学は、国学が「学問」であり続けることのできた最後の地点であり、同時に宗教的領域へと踏み込み始めた最初期の存在だったとも言えるでしょう。

理屈を外すことの功罪

常識や既成理論を疑うことで、新しい視点が得られるのは確かです。
国学は、当時の常識とされた朱子学的な世界観に縛られず、新しい価値観に辿り着きました。

しかし平田はその方法論によって、朱子学的な秩序感で遠ざけられていた迷信的な伝承までをも問い直しました。それは結果として宗教的な思想を生み出すことに繋がります。

理屈や常識に縛られない考え方が新しい常識や価値観を生み出すこともありますが、平田国学の歴史は、理屈や常識の歯止めも大切であることを伝えているのかもしれません。


本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。

江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。