💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。
国学というと、尊王思想や愛国主義を思い浮かべる人も多いかもしれません。
しかし、江戸中期に生まれた国学は、もっと静かで、人の心の動きに寄り添う学びでした。
本記事では、国学が思想へと変わっていく過程を、三人の学者の歩みから読み解きます。
導入:全てを理屈で説明できるのか
現代社会では、説明責任や合理性、言語化が強く求められています。
仕事においても、人間関係においても、「なぜそうしたのか」「どういう意味があるのか」を問われる場面は少なくありません。
しかし一方で、説明しようとした瞬間に、どこか違和感を覚えるものもあります。
美しさに心を打たれたとき、理由の分からない哀しみを覚えたとき、それを理屈で説明しようとすると、かえって何かが失われてしまう感覚です。
こうした「理屈で説明できないものへの居心地の悪さ」は、実は現代特有のものではありません。
江戸中期にも、同じような違和感が、学問の世界の中で静かに芽生えていました。
国学の原点:分からないものと分かるもの
現在「国学」と聞くと、日本人の精神や思想を語る学問という印象を持つ人も多いかもしれません。しかし、国学は最初から思想として構想された学問ではありませんでした。
その出発点にいたのは、
思想家というより、きわめて地味な仕事に従事していた一人の僧侶でした。
契沖 ― 読むための作業としての学問
契沖(けいちゅう)が行っていたのは、万葉集をはじめとする古典の注釈を見直す作業でした。
語句の意味を一つひとつ確認し、用例を集め、誤った注釈があれば修正する。
派手さはありませんが、正確に「読む」ためには欠かせない仕事です。
当時の古典は、語句の意味が曖昧なまま、当時の倫理観に即した解釈による注釈が施され、現代とは違って、道徳的な教訓を読み取るための書物として扱われることも少なくなかったと考えられています。
契沖は、そうした解釈に対して強い不満や反発を示したわけではありません。
ただ、目の前の文献に真剣に向き合い、語や表現の誤読や混乱を、
一つひとつ静かに正していきました。
重要なのは、契沖がそこから何かの思想や教訓を引き出そうとしなかった点です。
彼にとって大切だったのは、正しさを主張することではなく、誤りを混入させないことでした。
「分からない」を分からないまま置くという態度
契沖の仕事の中で、特に特徴的なのは、「分からないもの」を無理に説明しなかった点です。
語義が確定できない場合、無理に意味を当てはめることはしませんでした。
当時の学問世界では、調べた以上は何らかの結論に至ることが当然とされがちでした。
しかし契沖は、
到達点を設定せず、分からないものは分からないままにしておくことができました。
これは反抗的な態度ではなく、注釈者としての職分意識から自然に生まれた姿勢だったと考えられます。
国学の感性:分からないことに意味がある
契沖の仕事は、本人の意図とは別のところで、大きな意味を持ち始めます。
その仕事に強い衝撃を受け、「ここには理屈では割り切れない何かがある」と感じ取った人物が現れたからです。
賀茂真淵 ― 理屈では割り切れない感性への気づき
賀茂真淵(かものまぶち)は、契沖の文献作業を通じて、万葉集に独特の力を感じ取りました。
それは、道徳や教訓として説明できるものではなく、もっと率直で、力強い感性でした。
真淵はこれを「ますらをぶり」と呼び、後世の理屈が古代の歌の世界を歪めているのではないかと直感します。
契沖によって正された万葉集には、
それでもなお、語義や解釈が確定しない「空白」が残されていました。
賀茂真淵は、その空白そのものに価値を見出します。
それは、すべてを理屈で説明しようとするのではなく、
美しいものは、美しいものとして受け取るという感覚でした。
ここで国学は、まだ体系を持たないままですが、はっきりとした方向性を帯び始めます。
「国学」という旗印
契沖が黙々と行っていた作業は、江戸時代の中期に入り、賀茂真淵らによってその価値が言語化され始めました。
賀茂真淵は、中国由来の学問(漢学・儒学)と区別するために、日本古代の歌・言葉・精神を学ぶことを国学(こくがく・くにのまなび)と称しました。
しかしこの国学は、後世に知られている国学とは性格が異なります。
この時点の国学は、学問としての体系や理論・教義といったものは存在せず、ただ「漢学ではない、日本の学を志している」という態度・方向性としての名前でした。
しかし「国学」という名前を与えたことや、後述する本居宣長を指導した点などを踏まえ、
賀茂真淵は、後世において「国学史の中核的な人物」として位置づけられるようになりました。
国学の理論:分からない感性を言葉にする
真淵の直感的な気づきは、次の世代で体系化されます。
国学が学問から思想へと姿を変えるのは、この段階です。
本居宣長 ― 感性を理論に変えた人物
本居宣長(もとおりのりなが)は、古事記の研究を通じて、人間の感受性そのものに目を向けました。
彼が提示した「やまとごころ」という概念は、漢学や儒学といった後世の理屈(からごころ)を持ち込む前に、人が物事に触れたときに生じる、率直な心の動きを指しています。
宣長は、理屈を否定したわけではありません。
むしろ、理屈がどこで使われるべきか、その位置を明確に定めました。
賀茂真淵との出会いを通じて、その考えに影響を受けながら、
本居宣長は「なぜ、人は理屈を超えて感じてしまうのか」を考えました。
そして宣長は、その理由を理屈によって説明しようとします。
ただしそれは、感性を理屈で置き換えるためではなく、
理屈は決して万能ではないことを示すための説明でした。
宣長は、理屈を超えた感性を守ろうとしながら、それを説明せずにはいられませんでした。
本居宣長の提唱した美的理念「もののあはれ」については、現代でも有名な「侘び寂び」との違いも含めて、以下の記事で詳しく紹介しています。
💡関連記事:もののあはれとは?-侘び寂びとの違いと歴史に与えた影響
国学が「説明できてしまった」ことの意味
宣長によって国学は、学問として非常に強い説得力を持つようになります。
同時にそれは、思想として広がっていく条件が整ったことも意味していました。
感じることが理論として説明できてしまった瞬間、国学は多くの人にとって「答え」に見えるようになったのです。
尊王思想との共鳴 ― 江戸後期の変化
国学が尊王思想を生んだのではありません。
尊王思想が、国学の一部を“利用できてしまった”ことで、やがて政治思想として機能するようになっていきます。
国学は、
- 後世の理屈(漢学)より
- 古代の感性の方が純粋
としました。これは感性や認識の話でした。
しかし、政治の文脈では、
「古代こそ正しい」
「原初に立ち返れ」
というスローガンとして読み替えられやすかったのです。
この変化は、最初から意図されたものではありません。
むしろ、意図されていなかったからこそ、防ぎようのない広がり方をしたとも言えます。
尊王思想が生まれた背景については、以下の記事で詳しく解説しています。
理屈という常識の殻
理屈で説明されていると、物事を理解できた気がして安心します。
しかしその理屈は本当に正しいことなのでしょうか。
実生活の中で、そのような疑問を持つことは少ないかもしれません。
国学では、理屈に疑問を持って見直した結果、その空白に新たな理屈が見出されました。それはやがて大きな変革の精神的支柱にもなりました。
本記事では江戸中期の国学を評価することはありませんが、理屈という常識の殻を破ったことが、結果として大きな変化をもたらしたとは言えるでしょう。
常識も疑い、公平な視点を
本サイトでは、常識や当たり前とされる物事にも疑問を持ち、その由来を解き明かすことで、より公平な視点に役立てられる「視点」を提供することを心がけています。
「なぜ自分はそう考えるのか」という疑問とその記事化の作業は、宣長の試み(思想の言語化)に近いものを感じます。
理屈という常識の殻を破り、新しい見方や理屈を紹介していますが、それは一つの視点であり、「答え」ではありません。しかし読者の捉え方は一定ではないでしょう。
そういう意味では、一人の情報発信者として、国学史には怖さも感じずにはいられません。
本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。
江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。

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