「やまとごころ」と「からごころ」 ― 本居宣長は何を批判したのか

「やまとごころ」と「からごころ」 思想

💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。

「やまとごころ」という言葉は、日本の心や伝統を表す言葉として使われることがあります。
しかし本居宣長が用いた意味は、そうしたイメージとは少し異なります。

本記事では、「からごころ」との対比から、宣長の思想とその批判の射程を読み解いていきます。

導入:誤解されやすい宣長の「批判」

国学、とくに本居宣長の思想は、後世においてさまざまな文脈で語られてきました。その過程で、「やまとごころ」や「からごころ」という言葉は、日本礼賛排外的な思想と結びつけて理解されることも少なくありません。

しかし、こうした理解は、宣長自身が生きた江戸中期の思想状況とは必ずしも一致していません。

宣長の言葉は、幕末や明治以降の国学、さらには国家や政治と結びついた思想とは、切り分けて読む必要があります。

本記事では、江戸中期の本居宣長自身の議論に立ち返り、「やまとごころ」と「からごころ」が何を意味していたのか、そして宣長の批判がどこに向けられていたのかを整理していきます。

「やまとごころ」と「からごころ」

ここでは、宣長の議論の出発点となる「からごころ」から確認し、その対抗概念として「やまとごころ」を位置づけていきます。

「からごころ」とは何か

「からごころ」という言葉は、しばしば中国思想や仏教といった外来思想そのものを指す言葉として理解されがちです。しかし、宣長が問題にしたのは、特定の国や文化ではありません。

宣長の言う「からごころ」とは、善悪や理非といった理屈を先に立て、それを基準に物事を理解しようとする思考の姿勢そのものを指しています。

古典を読む際に、本文よりも教訓や意味づけを優先し、あらかじめ用意された価値観を重ねてしまう態度が、「からごころ」と呼ばれました。

理屈を先に置く「読み方」への違和感

宣長が違和感を覚えたのは、儒学的な倫理や仏教的な価値観を前提に、日本の古典を解釈する読み方でした。そのような読み方では、言葉の響きや感情の動きが、理屈によって整理され、削ぎ落とされてしまいます。

宣長にとって問題だったのは、思想の正しさそのものではなく、「理屈で分かったつもりになること」でした。

理解を急ぐあまり、言葉や物語が本来持っていた感情の揺れや曖昧さが見えなくなることを、宣長は強く警戒していたのです。

「からごころ」は、江戸中期国学の思想的な背景とあわせて読むことで、その位置づけが分かりやすくなります。
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対抗概念としての「やまとごころ」

こうした「からごころ」に対して示されたのが、「やまとごころ」という言葉です。ただし、これは日本人に固有の精神を称揚するための概念ではありません。

宣長にとっての「やまとごころ」とは、理屈や価値判断をいったん脇に置き、言葉や出来事をそのまま受け取ろうとする、素直な心のあり方を指していました。

「からごころ」による解釈を退けたときに、結果として立ち現れる心の状態を指す、相対的な名称だったと言えるでしょう。

日本礼賛の言葉ではなかったという点

後世では、「やまとごころ」という言葉が、日本の優越性精神的独自性を示す言葉として使われるようになります。

しかし、少なくとも宣長の段階では、そのような意味合いは前面に出ていません。
宣長が問題にしていたのは、日本であるか外国であるかではなく、「どう読むか」「どう感じるか」という解釈の姿勢でした。

「やまとごころ」は、日本を持ち上げるためのスローガンではなく、「からごころ」による過剰な解釈から距離を取るための概念だったのです。

本居宣長は何を批判したのか

ここで改めて、宣長の批判が向けられていた対象と、そうではないものを整理してみましょう。

宣長が批判したもの

宣長が批判したのは、特定の思想や学問体系そのものではありません。

批判の対象となったのは、次のような「考え方」や「態度」でした。

  • 善悪や理非を先に決め、それに当てはめて読む姿勢
  • 本文よりも解釈や教訓を優先する読み方
  • 感情や感受性を理屈で裁断しようとする思考

これらはすべて、「からごころ」としてまとめられる解釈の態度です。
宣長の批判は、人や国を否定するものではなく、読みの姿勢に向けられていました。

批判に含まれないもの

一方で、宣長の批判は、中国や仏教、儒学といった学問全体を否定するものではありません。
また、国家や民族といった枠組みを批判の対象にすることもありませんでした。

宣長は、外来思想を排除しようとしたのではなく、それを前提として日本の古典を読むことに違和感を覚えていたのです。

この点を見落とすと、「からごころ批判」は排外主義的な主張として誤解されやすくなります。

排外主義と誤解されてきた理由

宣長の言葉が排外的に読まれるようになった背景には、国学が江戸後期から幕末、明治へと変質していった歴史があります。

思想が政治や国家と結びつく中で、「やまとごころ」は日本礼賛的な意味を帯びるようになりました。

しかし、その変化は宣長自身の思想というより、後世の解釈と利用の問題として捉えるべきでしょう。

現代に読み直す「やまとごころ」と「からごころ」

多文化共生や価値観の違いが日常的に議論される現代において、「やまとごころ」と「からごころ」は、排他性ではなく、むしろ解釈の姿勢を問い直す概念として読み直すことができます。

宣長の批判が示すもの

宣長が問題にしたのは、他者や異文化そのものではなく、「分かったつもりになること」でした。理屈で全てを説明しようとする姿勢への違和感は、現代にも通じるものがあります。

後世の解釈と切り分けて考える

「やまとごころ」を国家や政治と結びつけたのは、宣長の時代ではなく後世の思想的展開です。

日本の伝統や価値観を守ろうとする意識を、日本の心という意味で「やまとごころ」と表現したくなることもあるでしょう。
しかしそれは、本居宣長の用いた「やまとごころ」とは異なるものです。

後世の解釈とは切り分けて、改めて本居宣長の「やまとごころ」という概念を確認すると、そこには「理屈ではない人の感動」を大切にしようとする思いが見えてくるのではないでしょうか。


本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。

江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。