ペリーっていい人じゃないの?

ペリーっていい人じゃないの? 雑学

日本の過去の歴史について話をしている際に、「ペリーっていい人じゃないの?」と、突然聞かれたことがあります。もう数年前の出来事ですが、あまりの衝撃に今も忘れることが出来ずにいます。

日本人の歴史観は、主に学校教育や各種メディア・報道などで形作られている部分があり、その過程ではペリーという人を悪者にするような扱いがないのでしょう。そういえば私も歴史に興味がなかったころは日本にやってきたペリーという人と、キリスト教を日本に伝えたフランシスコザビエルをよく間違えていたような気がします。

今回は、ペリー提督というアメリカの軍人が何をしに日本に来て、それは日本にとって良かったことなのか、彼はいい人だったのかを改めて考えてみたいと思います。

ペリー来航

ペリーという人は、1853年という江戸末期に突如として浦賀に現れたアメリカの軍艦・通称黒船に乗っていた提督です。

ペリー提督

ペリーの目的は日本の港を開港させることにありました。この当時のアメリカは、日本の近海まで鯨などの漁をしに来ていましたが、その際に遭難する事故などもあり、運良く日本人に救われたりもしていました。そのため、アメリカとしては日本の港を利用することが出来れば、事故の予防や遠征地での補給など、多くのメリットがありました。

アメリカは日本に対して開港を迫るわけですが、それは「お願い」ではなく「強制」であったことを忘れてはなりません。彼らは黒船から大砲を放って威嚇し、強大な軍事力を喧伝することで、日本に対して開港の承諾を迫りました。

当時の日本は江戸時代で質素倹約の時代です。武器は主に刀や槍で、遠隔武器は弓と火縄銃といった時代です。対して欧米諸国は産業革命を終えて急速に発展している文明社会で、工場で大量に製品が生み出されていた時代です。丁度この頃アメリカで電気の発電や活用が進められ始め、まさに新世界と呼べるほどに別次元の文明へと進化しつつありました。日本は強大な道の文明の前に成す術もなく、選択の余地はありませんでした。

翌年(1854年)に再度訪れたペリーとの間には、日本のいくつかの港を開港するという内容が含まれた、表向き平和な日米和親条約という約束を交わすことになります。

日本の外は欧米諸国の植民地だらけ

この頃の欧米諸国は、大航海時代~産業革命を終えた後で、大量に作られるようになった製品を売りつける海外市場を求めて、植民地の獲得競争が行われていた時代です。幸いな事に私たちの国日本は、植民地政策を行っていた欧米諸国とは、ユーラシア大陸を挟んで対極に位置し、侵略の魔の手が伸びてくるのが最も遅い時期でした。

この時代のアジア諸国の地図をまとめた地図として、私が大好きな画像があるのでここで紹介しておきます。

アジア植民地

この地図は、当時のアジアの各国のほとんどが、欧米諸国の植民地とされていた状況が、分かりやすく図示されていると思います。日本から見て、ヨーロッパ諸国は西から、アメリカは海を渡って東から駒を進めてきている状況です。

この地図で注目すべき点はいくつかありますが、今も存在するアジアの国家としては、日本とタイしか記されていないことが最も衝撃的なのではないでしょうか。タイは、東にフランス、西にイギリスという挟まれた状態になっており、両国の緩衝地として植民地化されずにいました。つまり、どちらかが奪おうとすると、ヨーロッパ諸国間での衝突になるため、お互いが奪わないようにしていたという状況です。

この地図は明治時代に入ってからのものなので、日本は台湾と韓国を領有しています。よく海外の動画などで「日本が何故植民地化されなかったのか」という趣旨について語られていますが、その答えの一つとして「日本も植民地化する側だった」と解説されることがあります。

ペリー来航後に危機感を感じた日本は、欧米諸国から身を守るために国を作り替え、彼らと同じような戦略を取り始めます。つまり、威圧外交による植民地政策を推し進めていくのです。特に韓国(朝鮮)に対して日本が行った外交は、江戸時代に日本が受けた外交と酷似しています。

ペリー来航後の日本

ペリーが日本に来航した後の日本は激動の時代を迎えていきます。

何故なら、強大な軍事力を持って脅された結果、日本政府がそれに屈したことで、国民の中に「日本の将来への不安」や「外国勢力の排除」という感情が芽生えたからです。それと同時に、未知なる文明に対する興味や関心も大きかったようです。

たった15年

ペリーが日本の浦賀に来たのが1853年で、日本が江戸幕府を倒して明治政府を樹立したのが1868年です。その間たったの15年しか歳月が流れていません。

義務教育過程などで歴史を学んだ際には、記号的にこの年号を覚えたものですが、大人になってから改めてこの15年の歳月の事を考えると、非常に短いと感じるのです。日本政府である江戸幕府を武力で打倒して、新しい国を作ろうというのですから、これは一般的にはクーデターと呼ばれる行為ですが、その後に国の制度自体を完全に作り替えたことから、明治維新は一般的には「軍事革命」に分類されることが多いようです。

現代に置き換えてみて考えると、外国との交渉結果に不満を持った国民が、武器を持って立ち上がって日本政府を倒して国を乗っ取るなんて、簡単には想像ができません。

急速な発展と戦争の連鎖

日本は欧米諸国に負けないように、富国強兵政策を推し進め、急速な発展と軍事拡張を行っていきます。この急速な発展ぶりは、海外の歴史を学ぶ人たちからは驚かれることがあるようです。特に、明治時代に行った「鉄道の敷設」については、日本を縦断する勢いで異常な距離で鉄道網を敷いたことが、クレイジー(狂っている)と表現されることがある程です。

上の地図から分かるように、1868年の明治維新から30年~40年の間に、日本全国の広い範囲に鉄道が敷設されています。忘れてはならないのは、「鉄道技術は明治時代に入ってから」日本に伝わっていることです。それまで見たことも聞いたこともない新しい技術を、国として率先して取り入れて、莫大なお金をつぎ込んで国中に張り巡らせたことは、とんでもない決断力と行動力と言えるのではないでしょうか。

急速な発展をしていく日本国内では、朝鮮半島への進出について政府内で意見が割れてしまい、その結果分断・内乱になってしまいました。最終的には日本が受けた様な「威圧的な外交」によって、「朝鮮の(清からの)独立」を画策していきます。独立していないと何をするにも話が始まらなかったからですが、この事が清国の不興を買い、結果として日清戦争という軍事衝突を招きました。

日清戦争の結果が日露戦争へ、日露戦争の結果が日中戦争へ、そして長引く日中戦争が国際的な非難を受けるようになり国際連盟脱退~大東亜戦争(アジア太平洋戦争)へと戦争が連鎖していくことになりました。

ペリーを連れてこい!

敗戦した日本では、戦争犯罪者を裁くための「東京裁判」が行われました。この裁判では、日本の戦争を指導した政治家や軍人が多く裁かれたことが知られており、特にこの裁判で使われたA級戦犯のような単語は日本人も聞き覚えがあるのではないでしょうか。

東京裁判では色々な人が裁かれましたが、事実関係を明らかにするために、多くの人が証言をしています。中でも印象的なのは、満州国の溥儀(ふぎ)や日本の軍人である石原莞爾(いしわらかんじ)が証言台にたっていたことです。

東京裁判について、本件とも関連していて、とても分かりやすくまとめられている動画を一本紹介します。

この動画では、東京裁判で戦犯とされた各区分の解説や、裁判の内容、そして犯罪者とされた人たちのその後などが詳しく、そして分かりやすく解説されています。サムネイルにもありますが、石原莞爾が証言台に立った際に、戦争犯罪を遡って裁くのであればペリーを連れてこいと証言したことが紹介されています。

ペリーが日本に来航していなければ、日本は戦争へ歩んでいくことはなかったかもしれません。

ペリー来航前の対外意識

ペリーが来航していなかった場合、日本は外国に対してどのような感情を持っていたのかは、とても興味深い事です。この点において個人的に重要だと思うのは、本居宣長の古事記伝とイギリス・中国のアヘン戦争あたりではないかと思います。

本居宣長は、ペリーが来航するよりも50~60年くらい前に活躍した人で、古事記伝を書いたことで知られています。彼の思想は「外来の思想の排斥」と呼べるようなもので、日本従来の文化や思想を大切にし、取り戻そうと考える物でした。儒教や仏教など、日本に伝えられた外国の思想が、江戸時代の日本を貧しく苦しい社会にしているとして、日本古来の豊かさのためにも排除すべきだとしたのです。

この思想は「国学」という学問として体系化され、ペリー来航から敗戦までの間、日本人の中心的案思想でもあり、学校教育で教える程になりましたが、戦後の日本では国学の授業はGHQの指導で禁止されたために、今の日本人は存在すら知らない程になっています。この国学が基になり、有名な尊王攘夷思想へと変遷していったのは言うまでもありません。

そして、アヘン戦争についてですが、この戦争は1840-1842年にイギリスと清(中国)との間で起きた戦争です。結果は近代兵器を持っているイギリスの圧勝でしたが、日本は特に関与していません。

しかし、当時の日本からすると、お隣の巨大国家である清国がヨーロッパの国に成す術もなくやられたという報せは衝撃的だったでしょう。ペリーが日本に来航する約10年前の出来事です。日本の未来を考える有識者(吉田松陰など)の中には、この報せを聞いて「日本も将来危ないかも」と危機感を募らせたと言います。

ペリーの来航とそれに準ずる一連の外交が、最終的に日本の革命~戦争の歴史の要因となったと述べましたが、ペリーが日本に来る以前から、日本国内では「外国勢力に対する懸念」というものが存在していたことは間違いありません。ペリー来航以降、国内でその感情が高ぶり、突き動かされていったとも言えるでしょう。

ペリーがいい人な訳がない

張り詰めた風船に尖った針を刺したように、ペリーが日本に訪れた結果、日本は国を作り替えた後、泥沼の戦争へと転がり落ちていきました。

ペリーがいい人なのであれば、文明的に劣っていた日本に対して、威圧的に振舞うのではなく、友好的で協力的な外交をしてくれていたことでしょう。ただ、ペリーという個人の判断ではなく、アメリカという国、そしてそれはヨーロッパ諸国やロシアも同じで、国として「威圧して植民地(奴隷国家)化する」というのが常識だったことによるものではあるでしょう。

学校教育ではアメリカと「日米和親条約」を結んだ事、そしてその後不平等条約と言われる「日米修好通商条約」を締結したことを習う訳ですが、そのことが日本としてどれほど重大な危機であったかが正しく伝えられていないようにも思います。幼かったために理解できていなかっただけかもしれませんが、日本政府が転覆するほどの重大な事件だったことを改めて認識しておかなければなりません。

これら一連の歴史の経緯を踏まえて考えると、とてもではないですが「ペリーがいい人」といったような発想には至れないと思うのです。

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