「どっこいしょ」の語源は? – 仏教用語が変化した掛け声

六根清浄の意味や雑学 言語

日常生活の中で私たちが使っている「言語」にも歴史があります。「言語」は長い時間の流れの中で様々な変化を続けて今の形になっています。

日々の生活の中で不意に発することがある「どっこいしょ」という言葉は、掛け声のようですが、よく考えると意味が分からない言葉ではないでしょうか。今回はこの「どっこいしょ」の語源について紹介しつつ、意味やニュアンスを理解しやすいように語源の言葉が使われているアニメ作品も紹介します。

「どっこいしょ」の語源

私たちが日常生活をする中で、何か重たいものを持ち上げたり、疲れて腰を下ろす際などに、「どっこいしょ」という言葉を発することがあります。

どっこいしょ

「どっこいしょ」という掛け声の語源は、仏教用語の「六根清浄 : ろっこんしょうじょう」が訛った形だとする説があります。

この語源説の真偽は定かではありませんが、山登りなどで使われていた「ろっこんしょうじょう」の掛け声を聞いた人が、よく分からなかったために聞き間違えたのだとか、疲れて徐々に訛っていったのだという説には、妙な説得力があります。

この「どっこいしょ」の語源として、他には「どこへ」が変化・なまったものという説も唱えられているようです。

仏教用語 – 六根清浄とは

六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは、仏教の用語で「六根から起こる欲望を断ち切って、心身が清らかになること。」とされています。略して「六根浄」とも呼ばれます。

六根というのは、私欲や煩悩、迷いといったことを引き起こす原因となる、「目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官」のことを指します。

清浄は、煩悩や迷いを遠ざけて、清らかで汚れのない境地(こころもち)の事です。

日々の生活の中で、悩みが増えていく原因は、目や耳などの器官の汚れにあるので、その汚れを落として清めましょうという考え方です。

意訳すると、悪口を聴いて嫌な気持ちになったり、変な事ばかり考えてしまうのを止めるために、一度心身リフレッシュしましょうという事です。

六根清浄が使われるシーン – 登山の際の掛け声

昔は多くの山に神仏が祀られており、山全体も信仰の対象となっていました。これは仏教だけでなく神道などでも同じで、女人禁制の神山などは聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

仏教の修行などで山に登る際には、衣服や心身を清めた上で、登山の安全を祈願しながら「六根清浄」の掛け声をかける風習があります。六根(目や口などの器官)を清浄(清める)ことにより、人間性を高めるという修行で、真言宗などでよく行われているようです。

登山

過酷な登山を通して「煩悩を鎮め、心身清らかになる」という気持ちは、仏教を信仰していない登山愛好家の方々にも理解されやすい気持ちなのではないでしょうか。

人知を超えた壮大な自然の美しさの前に立つと、人は言葉を失い、自身の悩みの小ささに気付いて前向きな心持ちになるといった話もよく耳にします。

宗教を「活用する」考え方

宗教というのは、現世に生きる人々を支え、前向きに生きていく活力を与えるためのサポート役でもあります。特に仏教では、現世は悩みや苦しみが多いという世界観の中で、迷い苦しむ現世の人々を救う(助ける)ために、様々な考え方や行動を示しています。山登りの修行もその一つと言えるでしょう。

宗教(神や仏)を全く信じていない人でも、心身をリフレッシュしたり、悩みを解消するヒントを得るなど、宗教から得られる「学び」は多いです。

神様や仏様を信じない人でも、宗教を活用して生活を向上させることもできるでしょう。

また、宗教は道徳や倫理観(常識)と繋がっており、「宗教 = 教養」として扱われることが多いです。自分の信じていない宗教も学んで理解することは、外国人など他の宗教圏の人とのコミュニケーションにも役立ちます。これは「相手の立場になって考える」という日本人の精神のはずですが、日本人は宗教が絡むと途端に逃げ腰になりがちです。(日本人は歴史的な背景から、国民全体が「宗教恐怖症」という状態にあるといえるかもしれません)

私の個人的な宗教観については、以下の記事に少しまとめていますので、興味のある方はご覧ください。

六根清浄が使われるアニメ作品 – 「甲鉄上のカバネリ」

仏教用語である「六根清浄」は、日常生活で耳にする機会はそれ程多くありませんが、アニメ作品の中で台詞として使われているものがあります。

六根清浄が使われいたアニメ作品は、「甲鉄城のカバネリ」です。

甲鉄城のカバネリ

物語は蒸気機関が発達した極東の島国・日ノ本(ひのもと)を舞台に、装甲蒸気機関車・甲鉄城に乗る人々と、不死の怪物・カバネとの戦いを描く。「スチームパンク」「時代劇」「バトルアクション」「ゾンビ」「ロードムービー」といった要素が込められている。
(from Wikipedia)

出典 : 甲鉄城のカバネリ – 公式サイト

世界観については上記引用にある通りで、時代劇風なのにスチームパンクな道具や乗り物などが登場するという独特な雰囲気のアニメです。

時代劇でスチームパンクなゾンビ作品

主人公はゾンビ(同作品ではカバネと呼ばれる)ものにありがちな、「感染したけど克服して能力を得る」というパターンではありますが、物語冒頭で、「感染したことにより人に恐れられるも、信頼を得ていく」という過程が丁寧に描かれており、登場人物たちの色々な立場に共感できます。

アニメOPの冒頭にある台詞「貴様、人かカバネか?」「どちらでもない。俺はカバネリだ!」からも、人の猜疑心や信念のような、作品で描かれる魅力が詰まっています。

また、物語全編にわたって派手なアクションも多く、過度なグロ表現もないため、いわゆるゾンビ作品の「鬱蒼とした感じ」は少なく、どちらかというと爽快な作品の部類です。カバネの心臓が固い膜に覆われているという設定のため、戦闘シーンは中・近距離戦が主体となっていて、見ごたえがあるのも特徴でしょう。

映画 – 「甲鉄城のカバネリ 海門決戦」について

作品は2016年にアニメ放送(全12話)されており、2019年には映画「甲鉄城のカバネリ 海門(うなと)決戦」という作品が公開されています。2025年3月には同映画がAmazon Primeで配信されていたので、アニメ本編に続けて視聴することができました。

アニメ本編のその後が描かれており、映像も内容もとても楽しめました。本編で描かれていた猜疑心や信念のようなものに加え、信頼やほんの少しのロマンスが描かれており、殺伐とした世界の中での安らぎという対比は心地よく、視聴後の満足度は非常に高い作品でしょう。

作中に登場する女性キャラクター「無名 : むめい」は、かわいくてカッコいい魅力的なキャラクターで、作品のレビューやネット上でも高い人気があるようです。

上記シーンはアニメ本編の引用ですが、海門決戦では主人公との共闘アクションや信頼・恋愛などの会話などが多いため、彼女が主人公と言っても良い程です。無名の活躍シーンをもっと見たいという人は、海門決戦も観た方が良いでしょう。そうでない人も、観終わったころには無名ファンになってしまう程に、彼女が大活躍する内容になっています。

甲鉄城のカバネリでの「六根清浄」

アニメ「甲鉄城のカバネリ」では、「六根清浄」という台詞だけでなく、仏教式のお葬式、死者を弔って手を合わせるといった宗教的な描写が所々に見られます。歴史的な考証と共に宗教的にも入念な調査研究を行っていることが伺えます。

アニメ内での「六根清浄」は、決戦に勝利した時などの「勝ち鬨」や、これから死地に赴く際の「掛け声」として登場します。

カバネと呼ばれる汚れ(穢れ)を打ち払った、または打ち払い清めるという思いが、六根清浄という言葉に込められているようです。

宗教的な言葉が選ばれていることで、キャラクター達の心情に「深みを感じる」ようになっているように思います。ただ単純に「行くぞ」とか「勝った」という気持ちだけでなく、そこには不浄なるものを打ち払う覚悟や信念、勝ち取った清浄や安寧といったものを感じます。

全体では宗教色が強い作品ではないのですが、こうして一部に宗教的な要素が散りばめられていることで、世界観としても深みがでているようにも思います。隠し味的に盛り込まれているので、分からなくても作品理解を妨げるものではなく、理解を深めていくと味が深まる作品ともいえるでしょう。

パチスロや「六根清浄」グッズ展開も

最近では映像作品を基にしたゲームやパチンコ・パチスロといった展開も多く見られますが、甲鉄城のカバネリも同じような展開作品がリリースされています。2022年にはパチスロがリリースされており、スロットの演出の盛り上がる場面で「六根清浄」が使われているようです。

また面白いことに、同作品では「六根清浄グッズ」というものも販売されているようです。

六根清浄グッズ

グッズには、目覚まし時計やTシャツ、アクリルキーホルダーなどがあるようです。アニメ作品のファンの人向けなのか、それとも宗教的なグッズなのか、ターゲット層が正直ちょっと分からないのですが、そういう部分も含めてとても興味深い商品だと感じました。

グッズは、アニメのノイタミナショップやパチスロのサミー商店の他、Amazonなどでも販売されているようなので、気になる人はチェックしてみてください。

アニメからも「学び」はある

幼い時分には、アニメばかり見ていると馬鹿になるといった事を言われることもありますが、大人になるとアニメや映画といった娯楽作品からも多くの学びを得ていることに気付きます。

アニメを作っている原作者の方たちは、本当に色々な事を学び、知識を作品に活かしていると感じます。作品中に登場する台詞だけでなく、描き出される料理や小物のような細部にまでこだわって作られている作品も少なくありません。自身で資料などを読み解くことなく、娯楽を楽しみながらそういった知識と触れ合うことが出来ることには感謝しかありません。

しかし、娯楽を「娯楽としてしか受け止めない」こともあるでしょう。人にもよりますし、娯楽を楽しむ状況にもよるでしょう。結局のところ、学びを得られるかどうかは、その人自身の向上心や興味関心といった「気持ち」が大事という事でしょう。関心のない人にいくら知識を教えようとしても難しく、関心のある人は教えられなくとも学びを得ていくものです。

どんなものからでも学びを得ようとする、貪欲なまでの知的探求心と、自身の知識に驕らない謙虚さを、常日頃から忘れないようにしたいものです。

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