地図は、私たちにとってとても身近な存在です。
スマートフォンを開けば現在地が表示され、目的地までの道筋も瞬時に示されます。
しかし、その地図が「国家」と深く結びついていると、普段から意識することはあまりありません。
伊能忠敬と聞くと、多くの人は「日本地図を作った人」という印象を持つでしょう。
正確な地図を完成させた偉人――その理解は、決して間違いではありません。
ただ、ひとつ疑問が残ります。
なぜ江戸幕府は、一人の町人に、日本全土を測らせたのでしょうか。
本記事では、「伊能忠敬はなぜ幕府に必要とされたのか」という問いを手がかりに、
地理という知が、学問から国家の基盤へと組み込まれていく過程を辿っていきます。
江戸時代の地図 ― 正確さが求められていなかった時代
現代の感覚では、「地図は正確であることが前提」です。
しかし江戸時代において、地図は必ずしもそうした役割を担っていませんでした。
絵図としての地図
江戸時代にも、日本各地を描いた地図は存在していました。
国絵図(くにえず)や城下町図(じょうかまちえず)などがその代表例です。

出典:Wikimedia Commons(天保国絵図 河内国、Public Domain)
ただし、これらの地図は、距離や角度を正確に測ったものではありません。
重要視されたのは、土地の配置関係や支配の範囲を示すことでした。
ここで、「国絵図」という言葉を少し分解してみます。
- 「国(くに)」 = 律令制・近世行政区画としての国
- 「絵図」 = 測量図ではなく、視覚的・象徴的な地図
この言葉が示している通り、国絵図は「測った地図」ではなく、「描かれた地図」でした。
地理が「学問」ではなかった理由
江戸時代の人々にとって、生活圏は限られていました。
多くの庶民は生涯を通じて、遠方へ移動することがありませんでした。
そのため、日本列島全体を、ひとつの空間として正確に把握する必要性は高くありませんでした。
国家運営においても、各地域を把握できていれば十分だったのです。
国絵図と支配の可視化
国絵図は、人々が遠方へ移動するためのものではありませんでした。
多くの庶民にとって、地図を手に旅をする必要はほとんどなかったからです。
しかし、それは「地図が不要だった」という意味ではありません。
国絵図は、幕府や諸藩が支配する領域を把握し、
年貢の徴収や行政を行うために不可欠な資料でした。
正確な距離や角度よりも、
「どこに村があり、どこまでが支配の範囲なのか」を示すこと。
それこそが、国絵図に求められていた役割だったのです。
なぜ「測る」必要が生まれたのか
18世紀後半になると、日本社会を取り巻く環境は静かに変化していきます。
それまで意識されてこなかった「正確に測る」という発想が、少しずつ必要とされ始めました。
海外情勢と海防意識の高まり
最大の要因のひとつが、海外情勢の変化です。
ロシアの南下などにより、日本近海への外国勢力の接近が現実的な問題となりました。
このとき、日本は初めて、
「自分たちの国は、どこまでが日本なのか」
という問いに直面することになります。
伊能忠敬の全国地図作成・測量は、1800年に蝦夷地から開始されます。
これは、1792年にロシア使節ラクスマンが蝦夷に来航して間もない時期でした。
幕府が北方の地理把握を急いでいたことは、伊能測量の出発点からも読み取れます。
💡関連記事:ペリー来航前夜 ― ロシア・イギリスとの衝突から見える江戸日本の転機
西洋科学との接触
同時期、日本には蘭学を通じて西洋の科学知識が流入していました。
天文学や測量学は、その代表例です。
緯度や経度という概念は、
土地を感覚的に捉えるのではなく、数値として把握する視点をもたらしました。
こうして、地理は次第に「測るべき対象」へと変わっていきます。
蘭学については以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:蘭学とは ― 西洋科学に揺れた江戸社会の「警戒」と「受容」
伊能忠敬という人物 ― なぜ彼だったのか
こうした時代の変化の中で登場するのが、伊能忠敬(いのうただたか)です。
ただし、彼は典型的な幕府官僚でも、専門の学者でもありませんでした。
商人としての人生と経済的基盤
伊能忠敬は、商人として成功した人物です。
経済的な基盤を築いた後、隠居し、本格的に学問へと向かいました。
この点は重要です。
彼は生活のために学問をする必要がなく、
純粋な探究として天文学や測量に取り組むことができました。
天文学との出会い
伊能忠敬が測量へと向かう背景には、天文学との出会いがあります。
彼は下総国(現在の千葉県)の商人として過ごす中で、教養としてさまざまな学問と触れ合い、特に天文学に強い関心を持つようになりました。商家を隠居した後、本格的に天文学を学ぶため江戸へ出ます。
この時点での伊能忠敬の動機は、国家的な要請ではなく、私的な学問的関心に基づくものでした。
西洋天文学と江戸幕府 ― なぜ伊能は江戸に向かったのか
当時、蘭学の入口は長崎でしたが、天文学は例外的に、江戸で体系的に研究されていた分野でもありました。
当時の暦は太陰太陽暦が採用されており、時間の経過とともに徐々にズレが生じるという問題を抱えていました。そのため暦の作成と改正は国家事業とされ、幕府は西洋天文学の知識を積極的に取り入れていました。
現代の暦は「在るもの」ですが、当時は天体観測と計算によって「作って配るもの」でした。それを行うことは、支配の正統性を示す行為でもありました。庶民は配られた暦を基準にしつつ、地域の慣行や経験と合わせて、田植えや収穫の時期を判断していたのです。
伊能忠敬が天文学を学んでいた時期も、寛政暦の制定を控え、天文学が特に重視されていた時代にあたります。
政治と学問 ― なぜ元商人が幕府関係者に師事できたか
伊能忠敬は、幕府天文方の高橋至時(たかはし よしとき)に師事し、天体観測や暦学を学びました。幕府天文方は国家事業を担う役職でしたが、同時に学問の最前線でもありました。
天文学や暦学は、高度な計算と実測を要する分野であり、身分よりも実力が重視されていました。
商人として社会的信用と基礎的な学力を備えていた伊能忠敬は、
「官僚としての高橋至時」ではなく、「学者としての高橋至時」に私的に学ぶ機会を得たのです。
私的研究から国家事業へ ― 幕府が目を向けた理由
伊能忠敬の測量が、単なる個人研究で終わらなかった理由はどこにあったのでしょうか。
天文学から測量へ
伊能忠敬にとって、天文学と測量は切り離された学問ではありませんでした。
天体の位置を観測し、数値で捉える天文学の手法は、そのまま地上の測量にも応用できるものだったからです。
天文学を学んだ伊能忠敬にとって、測量の実施は、
理論を現実の世界で確かめる行為だったと言えるでしょう。
現代的に言えば、研究者が理論を実験によって検証する姿勢に近いものです。
伊能忠敬は、天体観測によって緯度を求め、歩測や方位測定を組み合わせることで、
従来の絵図とは異なる、実測に基づいた地図作りを始めました。
この段階では、測量はあくまで私的な試みであり、幕府の命令によるものではありませんでした。
しかし、その成果は、次第に無視できない精度を持つようになります。
なぜ幕府は支援したのか
幕府が伊能忠敬に注目した理由は、彼が天文学を学んでいたからではありません。
すでに測量を実施し、その成果を示していたからです。
正確な地図は、沿岸防備や領域把握といった国家的課題と直結します。
伊能忠敬の測量は、学問的探究であると同時に、
国家にとって実用的な価値を持つものと判断されました。
こうして、私的な研究として始まった測量は、幕府の支援を受け、国家事業へと組み込まれていきます。
幕府支援で完成した伊能図
幕府の支援を受けたことで、伊能忠敬の測量は私的な研究の枠を超えていきます。
公的な名目が与えられたことで、各地での通行や調整が円滑になり、広範囲にわたる継続的な測量が可能になりました。個人の力だけでは難しかった全国規模の実測も、幕府の後ろ盾があったからこそ実現したものです。
こうして、長年にわたる測量の積み重ねの末、
日本列島全体を網羅する伊能図が完成しました。(1821年)

出典:Wikimedia Commons(伊能図全体図、Public Domain)
伊能図は、ひとりの研究者の成果であると同時に、
幕府の支援によって成立した国家的な地図でもあったのです。
伊能図がもたらした変化
伊能忠敬が完成させた地図は、単なる成果物ではありませんでした。
それは、日本人の空間認識そのものを変えるものでした。
日本列島の再認識 ― 伊能図の革新性
伊能図以前にも、日本列島全体を描いた地図は存在していました。
しかし、それらは各地の絵図や伝統的な図法を組み合わせたものであり、
全国を同一の基準で実測した地図ではありませんでした。
従来の地図と異なり、日本列島全体をひとつの連続した空間として示したこの視点は、極めて現代的なものです。
伊能図の革新性は、次の点に表れています。
- 全国を同一の測量基準で測った
- 天体観測による緯度測定を全域で実施した
- 海岸線を連続した線として捉えた
地理と国家の結びつき ― 強まる領土・国境意識
正確な地図は、領土意識や国境意識を育てます。
このため、地理は国家を成り立たせる基盤のひとつとなりました。
幕府の支援を受けて作成された伊能図は、伊能忠敬個人の成果であると同時に、幕府に収められ、国家の管理下に置かれる地図でもありました。
秘匿された伊能図
伊能図は、完成後すぐに広く公開されたわけではありません。
それは、地図が国家の安全保障と直結する情報だったからです。
正確な地理情報は、海防や統治と密接に関わります。
そのため伊能図は、幕府の管理下に置かれ、国家資料として扱われました。
その価値が広く認識されるのは、幕末から明治以降のことです。
幕末の外交交渉においても、幕府はこの地理情報を容易に外部へ開示することはありませんでした。
通商や布教を目的として来航した列強は、航海や拠点形成のため、日本の地理に強い関心を寄せていました。
江戸時代の初期(鎖国前)には、スペインが日本沿岸の測量を行った例もあります。
宗教に寛容だった家康が禁教に舵を切った背景については、以下の記事で解説しています。
💡関連記事:江戸幕府初期のキリスト教禁止の背景 ― 家康とプロテスタント
学問と国家と私たち
伊能忠敬の事例は、学問と国家の関係について考えさせられます。
科学は中立でいられるのか
科学的な知識は、本来中立的なものです。
しかし、その知が実用性を持った瞬間、政治や国家と無縁ではいられなくなります。
戦国時代であれば、こうした事業は軍事目的に直結していたでしょう。
しかし、泰平の世だったからこそ、学問としての測量が国家事業へと転化したとも言えます。
個人の探究が社会を動かすとき
伊能忠敬の測量は、最初から国家のために行われたものではありませんでした。
それは、ひとりの人間の知的好奇心から始まったものでした。
しかし、その探究は、時代の要請と結びつき、やがて国家を支える基盤へと変わっていきます。
個人の学びや研究が、思わぬ形で社会や国家と接続することがある――
伊能忠敬の生涯は、その一例と言えるでしょう。
私たちが歴史上の出来事や人物について関心を持って学んだ先にも、同じようなことが起こるのかもしれません。
関連記事:学びと行動 ― 朱子学と陽明学の比較
伊能忠敬の事例では、個人の知的探求心だけではなく、測量という「行動」があったことで幕府に注目され、結果として大きな成果に繋がりました。
江戸時代中期に広がった学問のひとつ、行動することを重要視した「陽明学」は、幕府に異学として警戒され、遠ざけられました。
幕府が奨励した朱子学と、同じ儒学の一派である陽明学は何が違ったのでしょうか。
朱子学と陽明学の解釈の違いについては、以下の記事で詳しく解説しています。
「学ぶとは何なのか」を改めて考えさせられます。


