💡この記事は、「江戸時代の学問・思想特集」の一部です。
江戸時代、社会の秩序を支えた朱子学は「正しさ」を示す学問でした。
しかし、正しさが分かっているはずなのに、社会は思うように良くならない。
この違和感の中で注目されたのが、心と行動を重視する陽明学です。
本記事では、江戸中期に陽明学がどのように受け止められていったのかを、思想の流れから読み解いていきます。
朱子学社会の中で生まれた違和感
江戸時代、日本社会は長い泰平の時代にありました。大きな戦乱はなく、秩序は保たれ、人々は安定した生活を営んでいました。
その社会を支える思想として広く浸透していたのが、幕府の正学である朱子学です。
朱子学が社会に行き渡った時代
朱子学は、人の生き方や社会の在り方を理論的に整理し、秩序と道徳を重んじる学問でした。
上下関係や役割分担を明確にし、それぞれが自らの立場に応じた行いをすることで、社会全体が安定すると考えます。
江戸時代中期になると、こうした考え方は武士階級だけでなく、社会全体に広く共有されるようになっていました。
学ぶことは善とされ、正しさはすでに「知識」として多くの人に行き渡っていたのです。
学んでも良くならないという実感
しかし、現実の社会を見渡すと、必ずしもすべてが理想通りに進んでいたわけではありません。
貧困に苦しむ人々は存在し、不正や腐敗も後を絶ちませんでした。政治の停滞や、為政者への不満も静かに蓄積していきます。
朱子学の理屈は理解されているはずなのに、なぜ社会は良くならないのか。
この疑問は、朱子学を否定するものではなく、むしろ「正しいはずの学問が、現実を動かしていない」という違和感として意識されていきました。
朱子学を問い続けた末に見えてきた陽明学
この違和感に向き合ったのは、朱子学を軽く学んだ人々ではありませんでした。
むしろ、朱子学を真剣に学び、その理論を信じていた人々こそが、問いを深めていきます。
朱子学の限界ではなく「接続不全」
江戸中期に問題とされたのは、朱子学が誤っているという点ではありません。
理論としては整っており、秩序を支える思想としても十分に機能していました。
しかし、理を知ることと、実際に行動することの間に、埋めがたい隔たりがあるように感じられるようになります。
「分かっているのに、行われない」
この状態こそが、当時の知識人にとって最大の問題でした。
問いが向かった先としての陽明学
そこで浮かび上がったのが、正しさを外の理や制度だけに求めるのではなく、人の心の内側に見出そうとする、陽明学の考え方です。
陽明学は朱子学と同じ儒学の一派で、王陽明によって体系化された、朱子学を問い直す中から生まれた中国由来の学問です。
江戸中期の日本では、朱子学が社会に深く定着したことで、中国とよく似た問いが自然と立ち上がり、その問いに最もよく噛み合う思想として陽明学が研究され始めます。
朱子学の内側から問い直した人々
陽明学に向かう思索は、特定の一人によって生まれたものではありません。朱子学を真剣に受け止めた人々が、それぞれの立場から問いを深めた結果として形づくられていきます。
中江藤樹 ― 人が救われないのはなぜか
中江藤樹(なかえ とうじゅ)の関心は、個々人の生き方や心の問題にありました。
- 道徳を学び、正しさを理解しているはずの人が、なぜ善く生きられないのか。
- なぜ救われない人がいるのか。
藤樹は、人が正しい行いをしない理由を、知識の不足ではなく、心の在り方に求めました。
理を知っているだけでは不十分であり、行いとして現れなければ、その知は本当の意味で身についていないのではないか。
こうした問いが、彼を人の内面へと深く向かわせていきます。
熊沢蕃山 ― 政治が腐敗するのはなぜか
熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)の問いは、より社会的・政治的な現実から生まれました。
- 正しい学問を学んだはずの為政者が、なぜ政治を誤り、民を苦しめるのか。
- 制度や理屈が整っていても、現実が改善されない理由は何なのか。
蕃山は、制度を動かすのは結局のところ人であり、その人が正しく行動しなければ、どれほど理論が整っていても政治は善くならないと考えます。
彼の思索もまた、行動する人間の内面へと向かっていきました。
補足:出発点は異なり、行き着く先は重なる
藤樹は人の心から、蕃山は政治の現実から問いを立てましたが、両者は最終的に「行動する人間」に正しさの鍵があるという点で重なっていきます。
陽明学が示した「内なる正しさ」
こうした問いの積み重ねの中で、陽明学の核心が形を成していきます。
良知と知行合一という考え方
陽明学は、人の心の中に生まれながらに備わった正しさを「良知(りょうち)」と呼びます。
正しさは外から与えられるものではなく、すでに内側にあるという考え方です。
また、知っていることと行うことを切り離さず、行いとして現れて初めて知が完成すると考えます。これが「知行合一(ちこうごういつ)」です。
これは内面に閉じこもる思想ではなく、むしろ行動を強く求める考え方でした。
なぜ江戸中期に必要とされたのか
江戸中期の社会では、正しさはすでに「知」として共有されていました。
その中で問題となったのは、知が行動につながらないという現実です。
陽明学は、この断絶を埋めようとする思索として、当時の知識人に受け止められていきました。
補足:朱子学と陽明学の「学ぶ」の違い
朱子学は理を理解することを重視し、陽明学は行うことで知が完成すると考えました。
💡関連記事:朱子学と陽明学の「学ぶ」とは何か ― 江戸時代の「知」の思想
江戸中期における陽明学の広がり
陽明学は官学として採用されることはありませんでしたが、静かに影響力を持ち始めます。
私的学問としての受容
中江藤樹や熊沢蕃山といった、日本の陽明学の先駆者たちは江戸時代初期の人物です。
- 中江藤樹(1608–1648)
- 熊沢蕃山(1619–1691)
朱子学教育が始まって間もない時代に中江は人の心に注目し、朱子学の浸透した時代に熊沢は政治や社会に問題意識を持ちました。彼らが陽明学に答えを見出そうとしたその悩みは、江戸中期には社会全体で共有された違和感として広く意識されるようになります。
知識人層の間では、私塾や個人の学びを通じて、
陽明学は朱子学を補完・批判する思想として読まれていきました。
為政者から見た警戒の芽
正しさを個人の内面に置き、行動を重視する思想は、秩序を前提とする統治の側から見ると扱いづらいものでした。
社会の構造そのものを問い直す可能性を含んでいた点が、徐々に意識されていきます。
江戸時代中期には、陽明学そのものが直ちに禁じられたわけではありませんが、
学問を根拠に行動や批判を行う姿勢は、次第に警戒されるようになります。
その中で、改めて朱子学を中心に据える動きも見られるようになりました。
この動きは、後に寛政異学の禁(1790)として表面化していくことになります。
現代社会で考える朱子学と陽明学
「なぜ社会は良くならないのか」という問いは、江戸中期に限ったものではありません。
現代においても、ルールや規範を守ることは、社会を安定させるために欠かせません。これは、正しさを外に求め、秩序を維持する朱子学的な価値観と言えるでしょう。
一方で、ルールや規範を改善するために、自分の考えを主張し、声を上げる場面もあります。これは、正しさを内に求め、それを行動で示す陽明学的な価値観と見ることができます。
秩序か正しさか
与えられた職責や役目を超えて、組織や社会全体の構造についてまで改革(正しさ)を主張する行為は、たとえルールの範囲内であったとしても、その度合いによっては秩序を乱すことにもなりかねません。また、批判的な言動を繰り返せば、立場が危うくなるリスクもあるでしょう。
それでも、黙って従っているだけでは何も変わりません。
江戸時代中期に陽明学が学ばれた背景には、そうした硬直した空気を何とか打破したいという、切実な思いがあったのではないでしょうか。
本記事は江戸時代の学問・思想特集の一部です。
江戸時代の学問・思想について、「時代の変化」と「学問の系統」という二つの視点から整理し、思想がどのように広がり、相互に影響し合ったのかを分かりやすくまとめていますので、関心のある方は是非ご覧ください。
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