なぜ塩を「まく」のか ― 清めとしての塩と、日本人の境界感覚

なぜ塩をまくのか 思想

葬儀の後、家に入る前に塩をまく。
相撲の土俵に塩がまかれる。
玄関先に塩が置かれているのを見かけることもあります。

こうした光景は日本では珍しいものではありませんが、
「なぜ塩なのか」「なぜまくのか」と問われると、
はっきり答えられる人は多くないかもしれません。

本記事では、この身近な風習を手がかりに、塩が特別視されてきた理由と、
「まく」という行為が持つ意味を辿っていきます。

「塩をまく」という日本の風習

日本では古くより「塩をまく」という風習があり、それは現代でも見られます。

葬儀の後に渡される塩

葬儀や通夜の後、帰り際に小さな塩の包みを渡されることがあります。
そして家に入る前に、それを体に振りかけます。

大切な人を葬送した後に、このように塩をまくという行為に対して、
どこか割り切れなさや違和感を覚える人もいるのではないでしょうか。

相撲の土俵や玄関先にまかれる塩

相撲の土俵にまかれる塩は、力士の安全祈願や場の清めとして知られています。

また、飲食店や住宅の玄関先に塩が置かれている光景も、日本では特別なものではありません。


こういった塩にはどのような力があると考えられていたのでしょうか。

なぜ「塩」が特別視されてきたのか

塩が清めに用いられてきた背景には、
一つの理由ではなく、いくつもの要素が重なっています。

色としての塩 ― 白が持つ意味

塩は白く、目に見えて不純物が少ない物質です。

白という色は、日本では古くから「何も付いていない状態」や「元の状態」を象徴してきました。

そのため、塩の白さは清浄区切りを表すものとして受け取られやすかったと考えられます。

性質としての塩 ― 腐敗を防ぐ力

塩には、食材の腐敗を防ぐ性質があります。
この性質は、日常生活の中で誰もが実感できるものでした。

変質を抑え、状態を保つ。
この働きが、乱れた状態を整えるという意味合いに結びついていきます。

生活の中の塩 ― 身近で不可欠な存在

塩は嗜好品ではなく、生活に欠かせない必需品でした。
食事はもちろん、保存や調理にも用いられ、人の暮らしと切り離せない存在だったのです。

身近でありながら欠かせない。

その立ち位置が、塩を特別なものとして受け止めさせる土台になっていました。

世界観としての塩 ― 生命と海のイメージ

日本では、生命の源に重ねて捉える感覚がありました。
塩は、その海から生まれる存在です。

直接的な信仰というよりも、生命や海に対して抱かれてきたイメージが、清めや再生のイメージと重なり合っていったと考えられます。

なぜ塩を「まく」のか

塩を使うのであれば、置いておくこともできたはずです。
それでも「まく」という行為が選ばれてきた理由を、いくつかの観点から見ていきます。

まくという行為 ― 清めとしての役割

塩をまくことで、人や場に付着した「非日常性」を振り落とす。

ここでいう清めとは、
悪を排除することではなく、元の状態へと戻す行為です。

葬儀の後に塩をまく行為は、死を穢れとして忌避する感覚を前提としつつも、死を否定するためではなく、非日常として区切り、日常へ戻るための切り替えだったと考えられます。

穢れという概念 ― 死穢と触穢

このように、日本における「穢れ」は、死そのものを否定する概念ではなく、日常とは切り離して扱うべき状態を指していました。
神道における穢れの考え方や、それがどのように生活習慣として定着していったのかについては、以下の記事で詳しく整理しています。

まくという行為 ― 境界をつくる役割

塩をまくのは、家に入る前や、場に入る前といった「境目」です。

塩をまくことで、ここから先は別の領域である、という区切りが可視化されます。

この区切りがあることで、日常と非日常は混ざらずに共存します。

葬儀の後に塩をまく行為も、非日常である葬儀の場から離れ、再び日常の生活へ戻るための区切りとして位置づけることができます。

なぜ「置く」のではなく「まく」のか

塩を使って場を整えるのであれば、盛り塩のように「置く」という方法も考えられます。
それでもなお、「まく」という行為が選ばれてきた理由は、その一時性にあります。

塩をまく行為は、その場その時に生じた非日常性を、
一度きりで切り替えるための所作でした。

つまり、

  • まく:動的な区切り
  • 置く:静的な区切り

といった役割の違いが見えてきます。

盛り塩という「置く」行為が担った役割

盛り塩は、空間そのものに境界を与え、その状態を保つことを期待された行為です。

塩をまく行為が「切り替え」であるのに対し、
盛り塩は「維持」や「継続」を目的としています。

たとえば、住宅や店の玄関に置かれる盛り塩は、人の出入りが続く場所において、外と内の境界を安定させる役割を担っていました。また、商売の場や長く使われる建物では、一時的な清めよりも、状態を維持し続けることが求められます。

盛り塩は、
そうした「続く場所」に対して、静かな区切りを与えるための方法だったと考えられます。

関連記事:神道の「結界」 ― 紙垂としめ飾り

静的な境界としては、盛り塩だけでなく、
お祭りの時などに見かける白い紙(紙垂)や、しめ飾りも知られています。

盛り塩が日常の場を安定させるための静かな区切りであるのに対し、
紙垂やしめ飾りは、日常の中に特別な領域を設け、
神様との関わりを示すための境界として用いられてきました。

神道における結界の考え方について関心のある方は、是非以下の記事もご覧ください。

日本人の「境界感覚」と清めの思想

ここまで、塩が特別視されてきた理由や、「まく」という行為が持つ意味について見てきました。

それらを踏まえると、日本における「清め」と「境界」は、別々の概念として存在してきたのではなく、互いに深く結びついた一つの考え方として捉えられてきたことが分かります。

清めは「取り除く」ことではなかった

現代の感覚では、「清め」という言葉から、汚れを除去する行為や、悪いものを排除するイメージを抱きがちです。
しかし、神道的な世界観において、清めは必ずしもそうした意味に限られていませんでした。

穢れは罪や悪ではなく、日常とは異なる状態を指します。

そのため清めとは、何かを否定したり消し去ったりする行為というよりも、状態を整え、元の秩序に戻すための働きだったと考えられます。

境界をつくることが、清めになる

この清めの考え方は、「境界」という発想と密接に結びついています。

日常と非日常を混ぜないこと。
それぞれを適切な場所に置き、区切りをつけること。
その区切りがあるからこそ、日常も非日常も、どちらも損なわれずに保たれます。

境界をつくることは、

穢れという特別な状態を日常から切り分ける行為であると同時に、
その切り分けによって日常の状態を整え、清めることそのものでもありました。

塩をまく行為に込められた二つの意味

塩をまくという行為は、こうした考え方を具体的な所作として表したものです。

塩をまくことで、日常と非日常の境界が示されます。
そしてその区切りによって、状態が整えられ、清めがなされていきます。

ここでは、「境界をつくる」と「清める」という二つの意味が、別々に存在しているのではなく、一つの行為の中で同時に成り立っています。

伝統的価値観と私たち

塩をまく行為には、清浄や境界のような様々な意味がありました。

現代的な役立て方 ― 心の整理

伝統的な価値観を大事にするのもよいでしょう。
しかし、それは絶対的な価値観ではなく、意味がないと感じる人もいるかもしれません。

そういった穢れや神道を特別深く信じていない人も、「塩をまく」行為によって葬儀などの特別な状態を「区切る」と考えてみると、意外と心の整理に役立つものです。

そうした視点で捉えてみると、同じ行為であっても、違う気持ちで感じられるかもしれません。

価値観を大切にする思い

伝統的な価値観を大事にする思いが強すぎると、理解していない人に苛立ったり、注意したくなる気持ちが沸き起こることがあります。

人の思想や信仰は自由なものです。

伝統的な価値観は、他者に押し付けるものではない、という点には注意が必要でしょう。

理解していない人を蔑んだり、伝統を大切にしない人に怒るのではなく、冷静にそういった伝統があることや、それを自分は大切にしている事を伝えましょう。同じように大切にしてもらえるかどうかは分かりませんが、少なくともあなたの考えを尊重してもらえるようにはなるはずです。

伝統を大切にしながら、現代をよりよい社会にしていくために、私たちはどのような関わり方ができるのか――。
そうした問いを持ち帰ることも、この風習を見直す一つの意味なのかもしれません。


塩をまくという行為もそうですが、日本の風習の中には、神道的な価値観や考え方と重なり合うものが少なくありません。

神道については以下の特集記事で詳しく扱っています。
穢れや祓いといった概念や、神の使いや巫女の由来・歴史など、神道に関する事柄に関心のある方は、こちらも参照してみてください。