【年表】幕末から明治のキリスト教禁教と解除 ― 「信教の自由」に至るまで

幕末、日本は開国と外国との条約締結によって、長く続いた禁教体制に変化を迫られました。
潜伏キリシタンの発見、浦上事件五榜の掲示、そして明治政府の宗教改革。
激動の時代の中で、キリスト教政策は弾圧から容認へと大きく転換していきます。

ペリー来航から禁教解除、「信教の自由」に至るまでの流れを、年表で整理します。

年表:幕末から明治の禁教解除まで

凡例:
赤色背景 ー 「外交・国際」関連
黄色背景 ー 「国内状況」関連

出来事備考
1853ペリー艦隊が浦賀に来航キリスト教宣教師の同乗。
宗教条項を含む外交交渉の始まり
1854日米和親条約締結宗教条項は明記されず。開国の第一歩
1856〜57ハリス来日、通商交渉開始以後アメリカ主導で
「宗教に関する条項」を含む条約交渉へ
1858安政の五カ国条約(日米修好通商条約を含む)
アメリカを含めた五か国との不平等条約
外国人の「居留地内における礼拝の自由」を日本が承認
禁教体制の崩れ始め
1859横浜・長崎・箱館が開港外国人礼拝堂が建設され、
国内でキリスト教施設が登場する契機に
1862頃長崎・大浦天主堂の建設開始
(〜64年に完成)
居留地内の教会建設。
浦上村の信徒たちが接近し始める
1865(2月)大浦天主堂で「潜伏キリシタンの信仰告白」有名な「信徒発見」。
禁教下に潜伏していた信徒が数百人規模で姿を見せ始める
1867(冬)幕府、浦上村への弾圧を本格化幕府末期にも関わらず、禁教政策の維持を優先
1868(1月)明治新政府成立(明治維新)幕府滅亡により宗教政策は新政府へ移行
1868(3月)五榜の掲示 公布第五条に「邪宗門の禁制」を明記。
新政府もキリスト教禁止を継承
1868〜69浦上信徒の大量逮捕・移送浦上四番崩れ全国約20藩へ信徒約3,000人を強制移送。
死者も多数発生
1869(明治2)浦上流配政策が継続新政府の宗教政策は混乱しつつも「禁教」を維持
1870(明治3)政府、教部省を設置し「神仏分離」を継続神道中心の宗教再編が進む
1871(明治4)外国公使らが日本の
キリスト教弾圧(浦上事件)を国際問題化
欧米からの強い抗議。
外交圧力が急増
1872(明治5)初頭新政府、浦上信徒への処罰を緩和へ転換国際世論を受け、弾圧姿勢が弱まる
1872(明治5)12月浦上信徒の釈放・帰郷が開始3000人規模の帰郷。禁教政策は事実上の転換点
1873(明治6)2月キリスト教禁制の高札撤去(禁教の公式解除)信教の自由」が徐々に整備され始める
1873〜1879ミッション学校設立・教会建設が進展禁教解除後の「民間主導」の宗教復興期
1889(明治22)大日本帝国憲法発布第28条で「信教の自由」を規定(ただし法律の範囲内)
1890(明治23)制度としての「信教の自由」が確定的に近代国家として宗教を法制度へ組み込み、
禁教時代は完全に終結
幕末(ペリー来航)から禁教解除(大日本帝国憲法での信教の自由)まで

関連記事:幕末から明治にかけてのキリスト教禁止・解除の解説記事

この年表に関連した出来事や動きについては、以下の記事で詳しく解説しています。

幕末期

不平等条約締結から明治維新までの期間、江戸幕府による禁教政策の実態について。

キリスト教禁教の崩壊序章 ― ペリー来航と不平等条約の宗教条項
ペリー来航後、日本は不平等条約で外国人の「信教の自由」を認めさせられました。 200年続いたキリスト教禁教体制が崩れ始めた時代を、宗教条項の原文と共に紐解きます。
幕末のキリスト教弾圧 ― 教会に現れた隠れキリシタンの行く末(浦上事件)
ペリー来航後の日本で起きた「浦上事件」。大浦天主堂に現れた隠れキリシタンと、幕府の弾圧政策。条約で外国人の信教が認められた一方、日本人はなお禁教下にあった――幕末の宗教と国家の矛盾をたどります。

明治期

江戸幕府の方針を引き継いだ明治新政府のキリスト教禁教政策と、その解除に至るまで。

明治新政府によるキリスト教の禁止 ― 五榜の掲示と宗教再編
明治新政府は、近代国家の建設を掲げながらも、五榜の掲示でキリスト教の禁止を継続しました。幕末から明治初期にかけての宗教再編と、国家が秩序維持のために選んだ道を解説します。
明治のキリスト教禁教解除 ― 『信教の自由』を認めた背景と影響
明治政府はなぜキリスト教の禁教を解いたのか。その背後には、欧米列強との外交圧力と、新しい国家理念「信教の自由」がありました。禁教解除の背景と社会への影響をたどります。