江戸時代の引っ越し ― 刑罰にもなりえた転居

江戸時代の引っ越し 歴史

江戸時代にも転居はありました。
しかしそれは、私たちが思い浮かべる「引っ越し」とは大きく異なる行為でした。
当時の社会構造をたどることで、転居がときに刑罰として成立しえた理由が見えてきます。

江戸時代の転居という行為

現代の私たちは、「引っ越し」という言葉に、生活の継続や再構築を自然に思い浮かべます。

しかし江戸時代の転居は、同じ言葉で呼ばれていても、まったく異なる性質を持っていました。

転居は日常的な行為ではなかった

江戸時代、多くの人々は生まれた土地で一生を過ごしました。

農民にとっては、田畑と生活が一体化しており、土地を離れることは生計の基盤を失うことを意味しました。村は年貢を共同で負担する単位でもあり、個人の判断で自由に移動できるものではありませんでした。

そのため、転居は人生の中で何度も行う行為ではなく、例外的な出来事でした。

移動は、進学や転職のような前向きな変化というより、生活環境そのものが大きく変わる「転機」として受け止められていました。

移動できる人、できない人

江戸時代の社会では、すべての人が同じ条件で移動できたわけではありません。

転居の可否やその規模は、身分や職業によって大きく異なっていました。

身分と職業によって異なる移動の自由度

武士は主君に仕える存在であり、転封や参勤交代に伴って国を越えて移動することもありました。商人職人も、奉公や商いの拡大を理由に都市へ移動する例が見られます。

一方、農民の移動は厳しく制限されていました。

無断で村を離れることは原則として禁じられており、転居には特別な事情と許可が必要でした。この違いは、江戸時代の転居が「自由な選択」ではなく、「身分秩序の中で管理された行為」だったことを示しています。

「動ける人」が持っていた条件

それでも移動できた人々には、いくつかの共通点がありました。

  • 奉公先が決まっている
  • 同郷者や縁故がある
  • 最低限の資金や技能を持っている

といった条件です。

転居とは、行き先がある状態で行うものであり、
行き先も当てもないまま動くことは、非常に危険な賭けでした。

江戸時代の転居が抱えていた現実的な困難

たとえ転居が許されていたとしても、それは決して簡単な行為ではありませんでした。

移動そのものが、さまざまな困難を伴っていたからです。

荷物を運ぶという問題

江戸時代、荷物の運搬には人足や牛馬、船などを利用する必要がありましたが、これらはすべて有料の手段でした。

十分な資金を持たない人は、背負えるだけの荷物を持って徒歩で移動するしかありませんでした。

家具や布団、農具や生活道具の多くは持ち運べず、転居先で新たに調達する必要がありました。
転居とは、家財道具を運ぶ行為ではなく、生活の蓄積を一度手放す行為でもありました。

家と仕事を同時に探さなければならない

現代のように不動産情報が流通していたわけではありません。

家は事前に決めておくものではなく、現地に着いてから人づてに探すのが一般的でした。

住まい探しは、条件を比較して選ぶ作業ではありません。素性が分かるか、信用できるかといった人間関係が何より重視されました。仕事と住まいは切り離せない関係にあり、どちらか一方だけを確保することは難しかったのです。

寺請制度と転居

江戸時代の転居は、単なる移動ではなく、社会的な所属の変更を伴う行為でした。

その中心にあったのが寺請制度です。

寺への所属が意味していたもの

寺は信仰の場であると同時に、人々の身元を証明する役割を担っていました。どの寺に属しているかは、「その土地に属する人間である」という証明でもありました。

転居に際しては、旧住地の寺からの証明を得て、新たな土地で寺に所属し直す必要がありました。寺に受け入れられることは、その地域社会に参加するための前提条件でした。

現代の戸籍の原型になったとも言われる寺請制度については、以下の記事で触れています。
💡関連記事:江戸幕府によるキリスト教弾圧の背景 ― 家光の制度化とその目的

所属を失うことの重さ

寺に所属できない人は、社会的に不安定な存在となります。住民として正式に認められず、仕事や住まいを得ることも難しくなりました。

転居とは、場所を変えるだけでなく、共同体との関係を一度断ち切り、新たに結び直す行為だったのです。

自発的な転居ですら「再出発」だった

ここまで見てきたように、江戸時代の転居は、本人の意思によるものであっても、大きな負担を伴うものでした。

転居とは生活の再構築だった

住居、仕事、人間関係を一から作り直す必要があり、転居は「環境を少し変える」ことではありませんでした。それは、「これまでの生活を終え、新たに生き直す」ことに近い行為でした。

自発的な転居であっても、十分な準備と支えがなければ、生活が立ち行かなくなる危険を常に伴っていました。

転居が「強制された」とき

では、これが本人の意思ではなく、強制された場合はどうなるのでしょうか。

強制転居が意味するもの

強制的な転居では、移動の準備をする時間がありません。行き先で受け入れてくれる人間関係もなく、仕事や住まいの当てもない状態で移されることになります。

生活を再建するために必要な条件が、最初から奪われた状態での移動でした。

転居が刑罰として機能する社会

このような社会構造の中では、転居は身体的な拘束を伴わなくても、十分に重い処罰となり得ました。生活基盤を断ち切り、共同体から切り離すこと自体が、強い制裁だったからです。

代表的な転居の刑罰には以下のようなものがあります。

追放・所払い(ところばらい)

これは、一般庶民にも適用された、かなり一般的な刑罰です。

  • 村・町からの追放
  • 再立ち入り禁止
  • 行き先は原則として与えられない

つまり、

「ここでは生きるな」

という処分です。

これは転居というより、

  • 転居を強制されたうえで
  • 生活再建の条件を与えない

という点で、非常に重い刑でした。

寺請・共同体・仕事を同時に失うため、
実質的には無宿人化を意味します。

遠島・流罪

流罪というと武士のイメージが強いですが、
一般庶民にも普通に適用されていました。

  • 佐渡
  • 三宅島
  • 八丈島

などへの遠島は、

  • 強制移動
  • 生活基盤の断絶
  • 家族との分離

を伴います。

ここで重要なのは、

流罪は「移動刑」であり、
その中核は転居そのものにある

という点です。

肉体刑や死刑でなくとも、
場所を奪うだけで十分な刑罰になる社会だったのです。

百姓の「村替え」「村外し」

百姓に対しては、

  • 村から外す
  • 他村への編入を命じる

といった処分もありました。

これは、

  • 年貢責任の単位から外される
  • 土地との結びつきを断たれる

という意味で、
生活の破壊に近い処罰です。

浦上事件における「転居」の意味

ここまで見てきたように、江戸時代の転居は、それ自体が生活の再構築を伴う重い行為でした。

その前提を踏まえたとき、江戸時代末期に起きた浦上事件における「転居」は、まったく異なる性質を帯びていたことが分かります。

浦上事件の概要

浦上事件とは、江戸時代末期、長崎近郊の浦上村を中心に起きた、キリスト教信仰を理由とする摘発・処罰の一連の出来事を指します。禁教政策が続く中で、信仰を守り続けていた人びとが発覚し、取り調べと処分の対象となりました。(潜伏キリシタンの発見)

この事件では、信仰の放棄を迫るだけでなく、家族単位・集団単位で人びとを各地へ移送する措置が取られました。処罰の一環として行われたこの移送は、当時の制度上は「転居」という形を取っています。

事件の詳しい経緯や背景については、禁教史特集として以下の記事でまとめています。

強制転居させられた浦上の人々

浦上事件における転居は、本人の意思によるものではありませんでした。移動の時期も行き先も選べず、準備の時間もほとんど与えられないまま、人びとは村を離れることになります。

これまで見てきた江戸時代の自発的な転居では、たとえ困難が伴ったとしても、奉公先や縁故、最低限の見通しがある状態で移動するのが一般的でした。

しかし浦上の人びとの転居は、そうした前提条件を欠いています。

家や土地、共同体とのつながりを断ち切られたうえで、受け入れ先との関係も築けないまま移送される。これは、生活を別の場所に移す行為ではなく、生活そのものを分断する行為でした。

浦上事件では3000人規模の強制転居が行われ、約600名程の方が亡くなられたと言われています。浦上事件で亡くなった人びとの死因は一様ではありませんが、取り調べや拘束による直接的な影響に加え、強制移動や配流先での生活困難が重なった結果であったと考えられます。

高齢者や体の弱い人にとって、強制的な転居は、生き延びられるかどうか分からない処分でした。形式上は死刑ではありませんが、当時の生活条件を考えれば、その危険性は極めて高かったと言えます。

一般的な刑罰との違い

江戸時代には、追放や流罪など、居住地を奪うことで成立する刑罰が存在していました。転居は、刑罰として機能しうる社会的条件をもともと備えていたのです。

しかし浦上事件における処罰は、これらの一般的な刑罰と比べても、以下のような点で性質を異にしています。

  • 個人ではなく、家族や信仰共同体といった集団単位で行われた
  • 裁判も行われなかった
  • 再建や更生を目的とした移動ではなく、共同体そのものを解体することが目的とされた

こうした違いを踏まえると、浦上事件における「転居」は、単なる場所の移動ではなく、生活基盤と共同体を同時に奪う、極めて重い処罰であったことが分かります。

「転居させられた」という言葉では表しきれない現実が、そこにはありました。

歴史の理解と現代感覚

私たちは歴史上の出来事から様々な事を学びます。しかし、現代的な感覚だけでその歴史と向き合うと、本質を見落としてしまうこともあるでしょう。

江戸時代の転居が教えてくれる社会の違い

江戸時代にも転居はありました。しかしそれは私たち現代人が想像する引っ越しとは大きく違ったものでした。

ネットも情報誌もない環境では住む場所も働く場所も縁故が頼りでした。また、車も列車もないため、物の移動も簡単ではありませんでした。手荷物だけで移動して、住む場所も働く場所も現地で改めて築き直す転居がどれほど大変だったことでしょう。

異なる社会の同じ言葉

歴史の中の出来事は、現代の言葉で語られます。

転居させられた――。

この言葉を現代の感覚で捉えてしまうと、その重さを見誤ることになりかねません。
その言葉の背景にある文化や社会への理解が深まると、歴史の本質をより正確に捉えることができるのではないでしょうか。


江戸時代と言うと遠い昔のような気がします。しかし本当にそうでしょうか。
以下の記事では、江戸時代の末期に生まれ、昭和まで生きた偉人達を紹介しています。

劇的に文化・社会が変化した時代であることを踏まえると、偉人たちの人生や業績もまた違って見えてくるのではないでしょうか。