社会でテロ事件や過激な宗教活動が報じられるたびに、同じ疑問が浮かびます。
「なぜ、あの考え方を事前に止められなかったのか」
「危険な思想は、もっと早い段階で是正すべきではないのか」
感情的には、そう考えてしまうのも無理はありません。
しかし、現代の日本社会では、どれほど危険に見える思想であっても、それ自体が直ちに是正されることはほとんどありません。この状況は、一見すると「放置」や「容認」のようにも映ります。
本記事では、この違和感を出発点に、思想の自由とは何か、そしてなぜ現代社会が「危険思想を是正しない」という選択をしているのかを、制度と構造の観点から整理していきます。
思想の自由とは何か ― 日本国憲法第19条
この疑問を理解するためには、まず日本の法制度が「思想」をどのように扱っているかを確認する必要があります。
鍵になるのが、日本国憲法第19条です。
思想・良心の自由が守る領域
憲法19条が保障しているのは、個人の内心における思考や価値観です。
(憲法第19条)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
非常に短い条文ですが、例外や条件を一切設けていない、強い言い切りになっています。
人が何を考え、何を正しいと思い、どのような信念を持つかという領域は、国家が立ち入ることのできないものとして位置づけられています。
ここで重要なのは、思想の自由は「内容」を問わないということです。
その思想が社会的に好ましいかどうか、道徳的に正しいかどうか、あるいは危険かどうかといった評価は、原則として問題にされないのです。
危険な思想も例外ではない
そのため、反社会的であったり、過激であったりする思想であっても、
それを「考えているだけ」であれば、処罰や是正の対象にはなりません。
この点に、思想の自由の強さがあります。
同時に、多くの人が違和感を覚えるポイントも、まさにここにあります。
「危険だと分かっているのに、なぜ何もしないのか」という感覚は、この強い内心の自由と直感的な安全意識とのズレから生じているのです。
思想の自由で守られているもの
思想の自由が守っているのは、社会の安全や秩序ではありません。
あくまで「個人の内面」が対象です。
個人の内心は侵害されない
現代の法制度は、
国家が「正しい思想」を定義し、それに従わせることを避ける設計
になっています。
思想の内容によって線を引くこと自体が、危険な行為だと考えられているからです。
一度「危険な思想」という基準を設けてしまえば、その範囲は時代や権力の判断によって容易に広がります。結果として、異論や少数意見まで排除される可能性が生まれます。
そのため、思想の自由は、ほぼ絶対的な内面領域として保障されているのです。
危険思想は、どこから問題になるのか
思想が完全に自由である一方で、すべてが無制限というわけではありません。
問題になるのは、思想そのものではなく、それが社会にどう現れるかです。
流布した場合 ― 表現の自由の問題
思想を語る、書く、広めるといった行為は、思想の自由ではなく、表現の自由の領域に入ります。
表現の自由は民主的社会にとって不可欠な権利ですが、こちらは無制限ではありません。
表現が他者の権利を侵害したり、具体的な危険を生じさせたりする場合には、一定の制約が認められています。
思想の「内容」ではなく「効果」が問われる
ここで重要なのは、規制の対象になるのは思想の内容そのものではない、という点です。
「危険な考え方だから禁止する」という発想は取られません。
問われるのは、その表現が現実にどのような影響や結果を生むのかです。
この点に、思想の自由(憲法19条)と表現の自由(憲法21条)の明確な切り分けがあります。
思想そのものを取り締まった時代(治安維持法)
かつての日本には、思想そのものを「危険」と判断し、取り締まる法律が存在しました。
治安維持法は、国家が定めた秩序に反する思想を持つこと自体を処罰の対象としました。
その結果、政治思想だけでなく、学問や表現の自由も大きく制限され、多くの人が弾圧を受けました。この経験は、「思想の内容で是正すること」の危険性を強く印象づけるものとなりました。
現在の憲法構造には、この歴史的反省が色濃く反映されています。
なぜ危険思想を是正しないのか
ここで、最初の疑問に立ち返ります。
事故などの問題を起こした企業などには、再発防止を目的とした行政指導や是正措置がとられることがあります。
その一方で、テロなどの社会的な問題を起こした宗教や思想に対してはどうでしょう。
多くの場合、問題を実際に起こした人は処罰され、それは宗教・思想の「一部の過激派」として語られます。宗教や思想自体には問題ないとされ、場合によっては再発防止のための特別な警戒すらも差別として非難されることさえあります。
しかし、その過激派が生まれた宗教や思想を警戒すべきではないかと感じる人もいるでしょう。
日本には、火のないところに煙は立たないという考え方もあります。
過激派が生まれる土壌が宗教・思想にあるのであれば、その根本を是正しなければ、また同じことが起こるという発想です。
しかし、それでも原則として、行政などによる指導や是正措置は行われません。
なぜ現代社会は、危険に見える思想であっても是正しないのでしょうか。
法が定められる「正しさ」の範囲
法が定められるのは、その時代に社会が合意できる「現在の正しさ」だけです。
将来の価値観や、まだ現れていない考え方までを、あらかじめ固定することはできません。
正しさを確定させすぎることは、後に誤りだったと判明した場合に、大きな不正義を生む可能性があります。
そのため、現代の法制度は、あえて判断を留保する余地を残しています。
現代の法的な正しさで宗教や思想を是正してしまうということは、将来の改善の余地を制度の側から閉ざしてしまうことに繋がります。
そのため現代の法制度は、たとえ思想の内容が現代の倫理から大きく逸脱して見えたとしても、「どちらが誤っているか」を最終的に確定しない立場を取っています。
新しい思想が社会を変えてきた例
歴史を振り返れば、かつては正しいとされていた制度や考え方が、後になって見直された例は少なくありません。
優生保護法のように、当時の「正しさ」が、後世から否定された事例も存在します。
もし当時、「正しい思想」を絶対視し、異論を是正していたとしたら、社会の改善は起こらなかったかもしれません。
すべてを定めない勇気 ― 自由主義国家の選択
思想の自由をめぐるこれまでの説明は、自由主義国家が採用している基本的な考え方に基づいています。
それは、
すべてを法で定めるのではなく、個人の自由を尊重することで社会の更新可能性を残す
という選択です。
自由主義国家という制度設計
現代の日本社会は、個人の内面に国家が介入しないことを原則とする仕組みの上に成り立っています。
それは、危険を内包することを承知の上で、自由を優先するという選択です。
この枠組みは万能ではありません。
しかし、現時点で考え得る最善の制度として採用されています。
「是正しない」という意図的な不完全さ
危険思想への対応に苦慮している現実は、制度の欠陥というより、意図的な不完全さの表れです。
自由を守れば、社会的リスクも生じます。
逆に、リスクを完全に排除しようとすれば、自由は失われます。
現代社会は、その間でバランスを取り続けているのです。
私たちの正しさ
現代の日本社会では、危険な思想の是正は原則として行うことができません。
しかし、少しでも危険な行動を起こしたら、最速でそれを阻止する体制が整えられています。
危険な思想を予め是正すれば、問題を未然に対処できる可能性もあるかもしれません。
しかし、その「危険かどうかの判断」は、本当に普遍の真理として正しい事なのでしょうか。
現代社会や自由主義国家は完成形ではありません。
問題を未然に防ぎつつ、将来の改善性を担保するためには、どうすればいいのか――。
それは、現代を生きる私たち一人ひとりが、考え続けるべき問いなのかもしれません。
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