💡この記事は、「日本のキリスト教禁教史特集」の一部です。
明治維新によって新しい国家が生まれたとき、日本は急速に近代化への道を歩み始めました。
しかし、その最初の布告には、江戸時代と同じ「キリスト教の禁止」が記されていました。
国家の秩序と統一を重んじた明治新政府は、宗教をも政治の一部として管理しようとしたのです。
やがてこの方針は、国際社会の批判を招き、日本に大きな転換を迫ることになります。
明治新政府の禁教政策と宗教再編
明治政府は近代国家の建設を進める一方で、宗教の扱いにおいては旧来の方針を引き継ぎました。
ここでは、新体制のもとで再び示された禁教政策と、宗教再編の流れを見ていきます。
「五榜の掲示」に残ったキリスト教禁令
明治政府は、旧幕府の政策を踏襲する形で、キリスト教を禁止しました。
「五榜の掲示」と呼ばれる布告には、「邪宗門の信心を厳禁する」と明記されています。
これは新しい国家の理念を示すものであると同時に、国内の秩序を守るための警告でもありました。キリスト教は依然として“異端”であり、社会不安の原因と見なされていたのです。
大教宣布と教部省 ― 宗教を国家が統制する仕組み
1872年には教部省が設置され、国家による宗教の管理が制度化されました。
「大教宣布の詔」によって、神道を中心に「国民道徳」を育てる方針が示され、宗教は信仰ではなく“国を教化する道具”と位置づけられます。当時の政府にとって、宗教は政治と同じく統治のための手段でした。
明治新政府によるキリスト教の禁止については、以下の記事で詳しく解説しています。
💡関連記事:明治新政府によるキリスト教の禁止 ― 五榜の掲示と宗教再編
禁教解除の背景 ― 外圧と『文明国』という理想
日本の禁教政策は、やがて国際的な批判を受けることになります。
国内の秩序を守るための方針が、国外では「野蛮な弾圧」として報じられたのです。
浦上事件の衝撃と欧米の報道
幕末の1867年に起こった浦上キリシタンの弾圧(浦上四番崩れ)は、新政府の成立後も終わりませんでした。明治政府は、旧幕府が捕らえた信徒の多くをそのまま全国各地へ配流し、信仰の放棄を迫りました。対象となったおよそ3,000人の信徒のうち、約2,000人の配流は明治政府によって執行されたとされています。
この方針は、江戸時代の禁教政策を実質的に継承するものであり、「近代国家」を掲げた新政府が宗教弾圧を続けていることは、やがて欧米諸国の強い非難を招きます。
1872年には、配流中の信徒の処遇が宣教師や外交官を通じて海外に伝わり、
フランスを中心とした新聞各紙が「文明国にあるまじき迫害」と報道しました。
欧米での世論の高まりは、日本政府への正式な抗議へと発展します。
幕末の浦上事件そのものについては、以下の記事に詳しくまとめています。
💡関連記事:幕末のキリスト教弾圧 ― 教会に現れた隠れキリシタンの行く末(浦上事件)
四か国公使による正式な抗議
この報道を受け、1872年にはフランス・アメリカ・イギリス・オランダの四か国公使が連名で日本政府に抗議文を提出します。
これが外務省(当時の外務卿:副島種臣)を通じて政府内部で議題化され、翌年の禁制撤廃に直接つながったとされています。
これらの国は安政の五か国条約(不平等条約)の相手国であり、いずれも日本と深い外交関係を持つ列強でした。
信教の自由を尊重しない国は“文明国”とは言えない――その主張は、日本の外交にとって無視できない圧力となりました。
抗議文の背景 ― 列強の思惑とアジアの情勢
明治初期、日本の宗教政策が国際問題化した背景には、宗教そのものへの関心だけでなく、列強各国がアジアで拡大していた勢力争いがありました。
彼らの抗議は「信仰の自由を守る」理念だけでなく、それぞれの国益や地域戦略とも結びついていたのです。
| 国名 | 当時の宗教的背景 | アジアでの主要関心・拠点 | 日本への姿勢・立場 | 禁教問題への関心度 |
|---|---|---|---|---|
| イギリス | プロテスタント。 宗教寛容が進む | 香港・シンガポールを拠点に 貿易覇権を拡大中 | 「文明国として信教の自由を」求める立場。 商業・外交面で影響力大。 | 高い (道義的批判) |
| フランス | カトリック。 宣教師派遣の国策推進 | インドシナ半島で植民地拡大 宣教師保護を名目に軍事介入 | 宗教的連帯から強く反発。 日本への抗議を主導。 | 非常に高い (宗教・政治両面) |
| アメリカ | プロテスタント中心。 信教の自由が建国理念 | 太平洋進出を拡大中 (捕鯨・貿易・ハワイなど) | 「自由の理念」を重視し、 道義的観点から批判。 軍事介入意図は薄い。 | 高い (理念的関心) |
| オランダ | プロテスタント。 政教分離が進む | 植民地(インドネシア)を 通じた通商活動 | 日本との伝統的友好国として助言的立場。 抗議には同調するが穏健。 | 中程度 (友好維持重視) |
| ロシア | 正教。 帝政国家 | シベリア・極東進出。 清・朝鮮との関係に注力 | 日本の宗教問題には関心薄。 南下政策が優先。 | 低い (ほぼ不関与) |
こうして見ると、明治政府が直面していたのは「宗教的非難」だけではなく、
アジアにおける列強の利害が交錯する外交圧力でした。
イギリスとフランスは、それぞれ異なる立場から“文明国の証”として信教の自由を求め、アメリカは理念的な自由主義の立場から追随。
一方、オランダは伝統的な友好国として助言的に関与し、ロシアは宗教よりも地政学的関心を優先して距離を置いていました。
日本にとって、これらすべての国は「安政の五か国条約」の相手であり、無視すれば条約改正や国際的地位に影響する重要な関係国でした。
したがって、浦上事件への批判は、単なる宗教論争ではなく、
近代日本が国際秩序の一員としてどの立場を取るかを問われた試練でもあったのです。
不平等条約の改正交渉 ― 禁教解除が障害となる明治外交
四か国からの抗議を受けた日本政府は、宗教問題が外交交渉に直接影響していることを痛感します。
不平等条約の改正を目的とした岩倉使節団が欧米諸国を訪問した際、条約改正の交渉では「信教の自由」が重要な条件として繰り返し指摘されました。
特にアメリカでは、「宗教の自由を認めない国とは対等な関係を築けない」との見解が示され、
日本の禁教政策が外交上の大きな障害であることが明確になりました。
使節団は帰国後、留守政府が教部省を設けて宗教統制を強化していた現状を知り、驚きと危機感を抱きます。彼らは「このままでは条約改正どころか、国際的信用を失う」と考え、禁教政策の見直しを強く進言しました。
関連記事:明治に結んだ追加の不平等条約
日本の不平等条約といえば「日米修好通商条約」が有名ですが、
実際にはアメリカを含む五か国と同内容の条約を結んでいます(安政の五か国条約)。
明治新政府はこれらの改正を目指しながらも、国際社会の一員となるために、
オーストリアやスイスなど、さらなる国々とも新たな不平等条約を締結していきました。
その背景と外交方針の変化については、以下の記事で詳しく解説しています。
禁教令撤廃と「信教の自由」の成立
国外からの批判と外交上の圧力を受け、明治政府はついに方針の転換を迫られます。
ここから、日本は長く続いた禁教政策を終わらせ、「信教の自由」へと踏み出していきました。
禁教政策の見直し ― キリシタン禁制の高札撤去(1873年)
国際社会からの圧力を受け、明治政府はついに禁教政策の見直しを決断します。
明治6年(1873年)、全国の「キリシタン禁制高札」が撤去されました。
この撤廃は、内政上の理念というより、外交関係を維持するための現実的な判断でした。
禁教令が撤廃された後も、国内ではキリスト教への警戒がすぐに解けたわけではありません。
条件付きの自由 ― 大日本帝国憲法第28条(1889年)
1889年に制定された明治憲法(大日本帝国憲法)は、第28条で信教の自由を定めました。
「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」――
(現代語訳)
日本国民は、国の平和と社会の秩序を乱さない限りにおいて、信仰の自由を持つ。
この一文は、信仰の自由が国家秩序より下位に置かれていることを示しています。
「自由」という概念は、この時代に西洋から取り入れられたもので、その語自体も、当時の日本で生まれた和製漢語です。明治憲法における「条件付きの自由」は、単なる制限ではなく、“社会全体の秩序と調和を守る”という前提で自由を捉えた結果といえるでしょう。
「自由は秩序の上に成り立つ」という考え方は、東アジアの社会に根付いた共同体的な価値観でもあります。現代の日本人にとっても、この明治憲法の条文には、どこか納得できる部分があるかもしれません。
条件のない日本国憲法との違い ― 公共の福祉という概念
明治憲法では、信教の自由は「国家の安寧秩序を妨げない限り」という条件付きの権利でした。
一方、1946年制定の日本国憲法では、この制約が撤廃され、信教の自由がすべての個人に保障されました。
ただし、それは無制限の自由ではなく、他者の権利を損なわないという「公共の福祉」によって調整されます。
| 観点 | 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 |
|---|---|---|
| 自由の主体 | 国家が許可する臣民の自由 | 個人に生まれながら備わる自由 |
| 制約の根拠 | 国家の安寧秩序 | 公共の福祉(※宗教間の衝突などを防ぐため) |
| 自由の性質 | 条件付き(秩序優先) | 原則的に無条件(自由優先) |
国家の秩序を守るための制限から、個人の尊厳と権利を調和させるための原則へ。
日本の宗教政策は、この理念の転換によって大きく方向を変えました。
国家神道と統制の継続
禁教令が廃止されても、宗教統制そのものが消えたわけではありません。
神道は「宗教」ではなく「国家儀礼」として位置づけられ、教育勅語や国家神道政策によって、信仰は再び政治の中に組み込まれました。
信教の自由と国家統合という二つの理念が、明治期を通じて並び立つことになります。
現代の日本では政教分離が法的に定められています。
その法的な根拠や実際の裁判例について、以下の記事で詳しく解説しています。
禁教解除の社会的な影響
1873年にキリシタン禁制の高札が撤去されても、日本社会がすぐに変わったわけではありませんでした。禁教解除はあくまで外交上の必要から行われたものであり、政府が信教の自由を積極的に推進したわけではなかったのです。
偏見の中で受け入れも進む「異国の宗教」
明治政府は国家神道を中心とした道徳教育を進め、宗教を統治の枠内に置き続けました。
「キリスト教を禁止しないが、勧めもしない」という姿勢が実態に近く、
地方では依然として信徒への偏見や監視が残りました。
都市部では、新島襄(にいじま じょう)や内村鑑三(うちむら かんぞう)のようにキリスト教を人格形成や社会倫理として受け入れる人々も現れます。ただし、信者数は明治末期でも全人口の1%に満たず、多くの日本人にとってキリスト教は依然として「異国の宗教」であり続けました。
宣教師たちによる教育事業の始まり
一方で、海外からは再び多くの宣教師が来日し、教育・医療・福祉の分野で活動を始めます。
同志社、フェリス女学院、青山学院など、今日まで続く学校の多くはこの時期に設立されました。
彼らの布教は必ずしも大きな信者拡大をもたらしませんでしたが、西洋的な学問や倫理観を伝える役割を果たしました。
| 学校名 | 設立時期 | 主な創設者 | 設立形態 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| 同志社 | 1875年 | 新島襄(日本人)+米国宣教師 | 日本人主体 | 日本人によるキリスト教高等教育の先駆け |
| フェリス女学院 | 1870年 | メアリー・E・フェリスら(米国人) | 外国人主体 | 女子教育・宣教師学校の草分け |
| 青山学院 | 1874年 | ジュリアス・ソーパーら(米国人) | 外国人主導 →日本人参画 | メソジスト系(プロテスタントの一派) 社会事業にも影響 |
禁教解除は、制度としての自由をもたらした一方で、人々の意識の中に根強く残る“宗教への警戒”をすぐに変えることはできませんでした。
それでも、宣教師たちがもたらした教育・医療・福祉の理念は、近代日本の文化と社会の基盤を静かに形づくっていくことになります。
「信教の自由」と「秩序の維持」
日本は安土桃山時代から明治時代まで、紆余曲折を経ながらも、最終的にはキリスト教を全面的に禁止してきました。
為政者が変わっても、その目的は一貫して国防や治安の維持であり、宗教教義そのものを否定したわけではありません。
日本のキリスト教禁教史は、「秩序を乱す宗教」を食い止めた歴史でもあります。
永遠の課題に取り組む社会
信教の自由が保障された現代においては、
自由を持つ側には「他者や社会への配慮」という責任があり、
秩序を守る側には「個人の内心に踏み込みすぎない節度」が求められます。
「信教の自由」と「秩序の維持」は対立する概念ではなく、相互に補い合うべき原理です。
自由が無秩序にならないように、秩序が自由を圧迫しないように――
その均衡をどこに置くか。
私たちは、現代においてもなお、その永遠の課題に取り組み続けているのです。
本記事は、以下の「日本のキリスト教禁教史」特集の一部です。
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