林子平の海防論 ― 幕府はなぜ出版を禁じたのか

林子平の海防論 歴史

江戸時代後期、外国勢力の接近に備える「海防論」が現れます。
その代表的な人物が林子平でした。

しかし彼の著書は幕府によって出版を禁じられてしまいます。

国防の重要性を説いた本が、なぜ幕府によって規制されたのでしょうか。

当時の幕府の判断を紐解くことで、現代と江戸時代の政治制度や思想の違いも見えてきます。

林子平の海防論とは何だったのか

まず、林子平と海防論の基本を押さえておきましょう。

ただし今回の記事では思想の細かな内容ではなく、幕府の判断に関わる要点に絞って見ていきます。

林子平と『海国兵談』

林子平(はやし しへい:1738 – 1793)は江戸時代後期の知識人で、
外国勢力の接近に備える必要性を訴えました。

その主張をまとめた著作が『海国兵談』です。

この書物では、日本が海に囲まれていることを防壁ではなく侵入経路と捉え、海防の強化を主張しました。
有名な言葉として

「江戸日本橋より唐・阿蘭陀まで境なし」

という表現があります。
これは、中国(唐)やオランダ(阿蘭陀)といった外国も海を通じて日本に到達できるという意味で、海が防壁ではなく通路になりうることを示した言葉です。

海防論は林子平だけの思想ではない

海防の重要性を論じる議論自体は、林子平だけのものではありません。
18世紀後半、日本の周辺では外国勢力の動きが次第に意識されるようになり、知識人の間でも関心が高まりつつありました。

ただし林子平の特徴は、その議論を出版という形で社会に示したことでした。

海防という国家の問題を広く読まれる書物として提示した点が、当時としては特異な試みだったと言えます。

海防論が生まれた時代背景

林子平の主張は、突然現れたものではありません。
その背後には、18世紀後半の国際情勢の変化がありました。

北方で進むロシアの南下

18世紀後半、日本の周辺ではロシア帝国が北太平洋へ進出し、北方の島々に接近するようになっていました。こうした動きは蝦夷地を通じて日本にも伝わり、知識人の間でも外国勢力への関心が高まりつつありました。

こうした状況の中で海防の必要性を論じたのが林子平でした。

その後、1792年にはロシア使節ラクスマンが根室に来航し、日本との通商を求めます。この出来事は、日本にとって外国勢力との接触が現実の問題になったことを示す象徴的な事件でした。

💡関連記事:ペリー来航前の外圧 ― 露・英との接触と衝突

林子平の出版物と禁止・外圧の流れ

林子平は、海国兵談の前にも『三国通覧図説』を出版しています。これは日本・琉球・朝鮮・蝦夷地など、日本周辺地域の地理を説明した書物です。
この書物も後に『海国兵談』とともに回収されます。

時系列で整理すると、以下のようになります。

西暦出来事
1785『三国通覧図説』出版
1791『海国兵談』出版
1792林子平の著作出版禁止蟄居処分
1792ラクスマン来航 (根室)
1793林子平死去
林子平の出版物と禁止・外圧の流れ

林子平の著作が回収され、本人が蟄居を命じられたのは1792年(寛政4年)のことです。
そして同じ1792年には、ロシア使節ラクスマンが根室に来航しました。

ただし両者の正確な前後関係は史料からははっきりしていません。いずれにしても、海防をめぐる議論が抑えられた時期に、実際の外圧が現実の問題として現れたことになります。

幕府も外圧を把握していた

重要なのは、幕府がこうした動きを全く知らなかったわけではないという点です。

例えば次のような情報源がありました。

  • 蝦夷地を統治していた松前藩からの報告
  • 長崎で得られるオランダ経由の世界情勢の情報
  • 外国へ漂流し帰国した人々の証言

こうした情報を通じて、幕府はロシアの南下などの動きをある程度把握していました。

つまり幕府は外国勢力の存在を知らなかったわけではなく、一定の情報を持ったうえで政治判断を行っていたのです。

幕府はなぜ出版を禁じたのか

それでは、なぜ幕府は林子平の著書を禁じたのでしょうか。
その背景には、江戸時代の政治の考え方がありました。

政策議論を公にしたこと

江戸時代の政治では、政策に関する議論は基本的に支配層の内部で行われるものでした。
大名や幕府の役人が検討し、統治の中で判断するという形です。

しかし林子平は、海防という国家の問題を出版という形で社会に広く示しました。
これは、政策に関わる議論を一般社会に公開したとも言えます。

幕府の立場から見ると、政治問題が広く議論される状況は望ましいものではありませんでした。

海防論には幕府批判も含まれていた

『海国兵談』では、日本の海防体制の弱さが指摘されています。これは単なる地理や軍事の解説ではなく、当時の幕府の海防政策への批判とも受け取られる内容でした。

ただし、政策や幕府への批判そのものが存在しなかったわけではありません。
建白書などの形で、幕府や藩に対して改善を申し入れることは当時も行われていました。
しかしそれらは、基本的には支配層の内部で行われるものであり、書物として社会に広く公開されるものではありませんでした。

組織内部の問題が公の場に示されることで政治問題になる構図は、現代のSNSによる内部告発などにも通じるものがあると言えるかもしれません。

現代とは異なる政治構造

ただ、現代とは政治の構造が大きく異なっています。
江戸時代の政治は、国民の議論によって決定されるものではなく、幕府や大名といった支配層が判断して執り行うものでした。

現代では政策批判は国民の判断材料となり、選挙によって政治に意思を示すことができます。

しかし当時は選挙政権交代もありません。

政治に関する議論は、本来は支配層の内部で行われるべきものと考えられていました。
そのため、政策批判が書物として社会に広がることは、秩序を乱す行為と受け取られる可能性がありました。

朱子学では、それぞれの立場に応じた役割を守ることが社会秩序を支えると考えられていました。立場から外れた行動は、社会の秩序を乱す行為とみなされました。(名分の概念)
💡関連記事:朱子学で読み解く江戸社会 ― 忠義と秩序の時代

こうした政治文化を前提に考えると、幕府が林子平の著作を問題視したことは、当時の体制から見れば必ずしも特別な対応ではなかったとも言えるでしょう。

社会不安を抑えるという発想

幕府が重視していたのは、外国勢力よりもむしろ国内の秩序でした。

外国の脅威が広く知られれば、人々の不安が広がる可能性があります。
長く平和が続いた江戸社会では、社会不安の拡大は政治にとって大きなリスクでした。

そのため幕府は、海防問題を公開の議論にすることを避けようとしたと考えられます。

寛政の改革と出版統制

林子平の著作の処分は、寛政改革の政治方針とも関係しています。
改革を主導したのは松平定信でした。

定信の政策では、社会秩序を維持するために思想や言論の統制が強化されました。

寛政異学の禁

林子平の著作が出版禁止となった数年前、幕府は儒学の教育方針を統一する政策を打ち出しています。それが寛政異学の禁です。

寛政異学の禁では、朱子学を幕府の正統学問とし、それ以外の儒学を「異学」として幕府の教育から排除しました。
当時の儒学界には、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学陽明学など、朱子学とは異なる学派も存在していましたが、これらは幕府教育の中心から外されることになります。

古義学・古文辞学(徂徠学)・陽明学といった学派は、朱子学批判を含んだ学問です。
しかし寛政異学の禁は、幕府や朱子学の批判を封じたというよりも、思想の統一を図った政策と考えられています。
💡関連記事:江戸時代の学問・思想特集 ― 時代と系統で読み解く知の全体像

朱子学から広がる江戸思想の流れ
朱子学から広がる江戸思想の流れ(特集記事より抜粋)
青:朱子学の探求 赤:朱子学の批判 緑:学問方法の影響

秩序維持のための出版統制

寛政期の幕府は、出版物に対する取締を強化していました。
対象となったのは、

  • 幕府批判
  • 政治論
  • 社会不安を煽る書
  • 風俗を乱す書

など、秩序を乱す可能性のある出版物全般でした。

海防論だけが特別に禁止されたわけではありません。
幕府の秩序維持政策の中で出版統制が行われ、林子平の著作はその対象に選ばれた一つでした。

禁じられた書物はその後どうなったのか

幕府によって出版が禁じられたものの、林子平の著作が完全に消えたわけではありません。

写本として広まる海防論

林子平の出版物は回収されましたが、その後林子平の海防論は広く知られることになります。江戸後期の海防論者たちの間では、林子平の名前が語られ、それは史料にも残されています。

江戸時代には、書物を写して読む文化がありました。出版が禁じられた書物でも、写本として読まれることがあります。林子平の著作も、こうした形で読まれ続けたと考えられています。ただし非公式な流通のため、正確な数などは分かっていません。

禁止された警告が現実になる皮肉

皮肉なことに、林子平の警告は後にかなり現実になります。

  • ロシア南下
  • 欧米来航
  • ペリー来航

などです。

林子平が警戒していたのは主にロシアの南下でした。
しかし彼の海防論は特定の国だけを問題にしたものではありません。日本は海に囲まれた国であり、外国船は海からどこにでも来ることができるという構造そのものを指摘していました。

その意味では、林子平は「早すぎた危機論者」だったと言えるのかもしれません。

江戸時代と現代

現代の感覚から見ると、国防を論じた書物が禁じられたことには違和感があります。
しかし江戸幕府の政治では、政策議論を社会に広げること自体が問題視されました。

林子平の海防論をめぐる出来事は、江戸時代の政治の考え方をよく示す一例と言えるでしょう。

政治に意思表明できる社会

江戸時代にも政治について様々な意見を持つ人々はいました。しかし、それを制度的に政治に反映させる仕組みは存在していませんでした。

そうした社会の中で、林子平は出版という形で海防の必要性を訴えました。
その試みが幕府に警戒されたことは、当時の政治構造をよく示しています。

現代では、選挙などを通じて政治に意思を示す仕組みがあります。
制度に対する評価は様々であっても、意見を表明する道があること自体が、歴史の中で築かれてきた重要な仕組みだと言えるでしょう。

意思表明を封じたらどういうことが起きるのか――。
林子平の歴史は、単なる海防論の話というよりも、政治・言論・社会の関係を考えさせてくれる出来事なのかもしれません。


幕末の外圧は日本に様々な影響を与えました。地図の作成は急がれ、キリスト教の禁止は揺らぎ、学問の中から「日本は神の国」という結論も示されます。