「マウントをとる」という言葉は、現代日本ですっかり定着してしまいました。
自身の優越を誇示したり、ときに他者を蔑視する言動を指すこの言葉は、否定的な意味合いで使われることが多く、あまり「良い行動とは思われていない」といえるでしょう。
人はなぜ「マウントをとろう」とするのでしょうか。
そしてそれは倫理的に「良くない事」なのでしょうか。
多くの倫理を提供している宗教思想では、どう位置付けられているのでしょう。
本記事では、マウントをとる(優越を求める)という人の心理を整理した上で、それが宗教倫理でどのように位置付けられているのかを確認します。
なぜマウントをとりたがるのか ― 優越・蔑視の心理
心理学的には、
「他者より優れていると感じたい」という傾向
は、人間にかなり広く見られると考えてよいでしょう。
ただし、
- 人間は「他人を見下したい」のではなく、
- 「自分には価値がある」「自分は十分にやれている」と感じたい。
- その確認方法の一つとして、他者との比較が使われる。
と捉える方が正確でしょう。
本節では、優越・蔑視が生まれる心理的な構造を整理します。
なぜ他者と比較するのか ― 心理学的な整理
心理学では、レオン・フェスティンガーが1954年に提唱した社会的比較理論(social comparison theory)が有名です。
人は自分自身を直接測れる絶対的な物差しを持っていません。
たとえば、
- 自分は頭がいいのか
- 仕事ができるのか
- 裕福なのか
- 親切なのか
- 社会的に成功しているのか
ということは、身長のように単純には測れません。
そのため
「周囲の人と比べて、自分はどのくらいなのか」
によって自己評価することがあるとされました。(社会的比較理論)
上方比較と下方比較 ― 劣等感と優越感
後の研究では、フェスティンガーの理論を発展させる形で、とりわけ次の区別がよく使われます。
上方比較(upward comparison)は、自分より優れている・恵まれている人との比較です。
「あの人は(仕事などが)自分よりできる」
これは「自分も頑張ろう」という向上心につながることもあれば、「自分は駄目だ」という劣等感につながることもあります。
下方比較(downward comparison)は、自分より劣っている・不利な状態にある人との比較です。
「少なくとも自分はあの人よりできている」
こちらは自尊感情を回復させたり安心させたりする一方、優越感や蔑視につながる可能性もあります。
優越を求める心理構造
かなり単純化すると、人には
他者との比較 → 自分の位置を確認 → 自分の価値を肯定 → 安心
といった心理的な働きがあります。
たとえば試験で70点だったとします。
平均点が90点なら「まずい」と感じるかもしれません。しかし平均点が40点なら、同じ70点でも「かなりできた」と感じます。
自分の能力そのものは変わっていないのに、相対的位置によって自己評価が変わるわけです。
つまり実際には、「優越感を求める」というより、
自己評価を安定させるために、自分が優位にいるという情報が利用される
といった構造があるといえるでしょう。
補足:人間は常に「他人より上」を求めるのか
人間には、自分を肯定的に評価したい、よりよい位置を目指したいといった傾向がある一方で、「他人と同じでありたい」「仲間として受け入れられたい」という欲求もあります。
たとえば職場で、「自分は仕事ができる」と思えることは嬉しいでしょう。しかし、「自分だけ突出していて誰とも話が合わない」となれば、それは必ずしも快適ではありません。
人間は地位(status)も欲しがりますが、同時に所属(belonging)も求めます。
この二つは時として緊張関係になります。
「優越」と「蔑視」の整理 ― 両者は同じものか
「マウントをとる」心理には、優越の誇示と他者の蔑視の両方が考えられます。
- 自己肯定 → 「自分はできる」
- 相対的優越 → 「自分はあの人よりできる」
- 蔑視・見下し → 「できないあの人は価値が低い」
これらは、心理的には連続することがあっても、同じものではありません。
そして興味深いことに、自己評価が脅かされているときなどには、
自分より不利な他者との比較によって自己評価を維持・回復しようとする
ことがあります。「私は優れている」と思うためには、「自分を上げる」だけでなく、「他人を下げる」という方法もあるからです。
これは、SNSなどで他者の失敗を嘲笑したり、知識のない人を馬鹿にしたりする行動を考えるときにも重要な視点でしょう。
宗教倫理からみる優越・蔑視
どうやら人の心理には、優位を確認することで自分の価値を肯定したいといった、根源的な欲求があるようです。
しかし、他者の蔑視が「倫理的に正しい」とは考えにくいものです。
多くの倫理・規範を提供している宗教思想においては、他者への優越・蔑視はどのように位置づけられているのでしょうか。
本記事では、「儒教」「キリスト教」「イスラム教」「仏教」の4つの宗教を考えます。
最初に、それぞれの宗教の基本的な姿勢を確認してみます。
※以下は各宗教・思想に含まれる多様な伝統を網羅するものではなく、本記事の「他者との優劣」という観点から代表的な考え方を整理したものです。
| 思想 | 「他者より上でありたい」ことへの基本姿勢 |
|---|---|
| 儒教 | 他者との比較より、徳のある人間になることを重視。驕り・慢心を戒める |
| キリスト教 | 傲慢(pride)を重大な罪として警戒。神の前では人間は等しく被造物 |
| イスラム教 | 優越の根拠を血統・民族・富などに置くことを否定。神への敬虔さが基準 |
| 仏教 | 「自分が上・同じ・下」という比較する心そのものを執着として分析する |
基本的な姿勢を見る限りでは、蔑視を正しい事と整理している宗教思想はなさそうに見えます。以下、それぞれについて少し詳しく見ていきましょう。
儒教 ― 他者比較から自己修養へ
儒教には当然、君子/小人、賢者/愚者など、かなり強い人間評価の軸があります。そのため、現代的な意味で「人間はみんな同じだから比較してはいけない」という思想ではありません。
しかし、他者に勝っていることを喜び、他者を見下すことは望ましい態度とはされません。
『論語』には有名な、
「君子は矜にして争わず」
という言葉があります。
「君子は自尊心・威厳を持つが、他人と争って優劣を競わない」
といった意味です。
「三人行えば、必ず我が師あり」 ― 比較ではなく自己修養へ
また、
「三人行えば、必ず我が師あり」
という発想も象徴的です。
他人を、「自分より下か?」と見るのではなく、
「この人から自分が学べるものはないか?」
と見るこの考え方は、社会的比較を自己修養へ変換する仕組みとも捉えられます。
もちろん儒教社会が実際に競争や序列から自由だったわけではありません。科挙などは猛烈な競争社会を生みました。
しかし理念上は、他者との優劣 → 自己価値ではなく、自分の徳・行為 → 君子へ近づくという方向を目指します。
「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」は、孔子の名言として知られています。
本記事の問題に当てはめれば、「自分が他者から蔑視されたくないのであれば、自分も他者を蔑視しない」という方向にも応用できるでしょう。
💡関連記事:孔子の名言から見る儒学の骨格 ― 学び・人間関係・社会観
キリスト教 ― 強く危険視される優越感(傲慢)
キリスト教では、この問題はさらに強く扱われます。
代表的なのがpride(傲慢)です。
後世の「七つの大罪」では傲慢が重要な位置を占めますし、キリスト教思想では、
自分を他者より優れた存在だと思う
↓
自分の価値を自分自身の功績として誇る
↓
神との正しい関係まで見失う
という方向が問題になります。
キリスト教で問題とされる「傲慢」は、単なる他者への優越感より広い概念ですが、他者との比較による自己高揚もその問題と重なることがあります。
ファリサイ派の人と徴税人 ― 批判される優越
非常に分かりやすいのが、ルカ福音書の「ファリサイ派の人と徴税人」の譬え(たとえ)です。
譬え(parable):ある物語を語ることによって、道徳的・宗教的な真理を考えさせる話
ファリサイ派の人物は、自分が正しく生きていることを神に感謝しながら、
「自分はあの徴税人のような人間ではない」
という趣旨のことを言います。
ところがイエスは、むしろ
自分の罪を認めてへりくだる徴税人の方を肯定
します。
ここではまさに、「私はあの人より立派だ」という
比較によって自己肯定する態度が批判
されています。
これは現代心理学でいう下方比較(downward comparison)にかなり近い構図といえるでしょう。
イスラム教 ― 示される評価の原則
イスラム教にも非常に明確な議論があります。
クルアーン49章13節が代表的です。
人間が諸民族・諸部族に分けられていることについて述べた後、
神の前で最も尊い者は、最も敬虔な者
という原則を示します。
つまり、
民族・家柄・富・地位などを根拠に「自分たちの方が上だ」とすることを否定する
方向です。
ただし注意したいのは、イスラム教も「一切の評価基準をなくす」という思想ではありません。
評価軸を「富、血統、民族、社会的地位」から「神への敬虔さ(taqwā)」へ移している、と考えた方が正確でしょう。
イブリースの物語 ― 反逆の契機としても描かれる優越
さらに興味深いのがイブリース(悪魔)の物語です。
神がアダムに跪くよう命じた際、イブリースは拒否して、
私は彼より優れている。私を火から、彼を土から創った。
という趣旨の主張をします。
つまりイスラム的物語世界では、
「私はあいつより上だ」という自己評価が、神への反逆の重要な契機
として描かれているわけです。
仏教 ― 他者比較への執着から離れる
日本仏教では、劣等感や優越への執着が扱われています。
仏教は、他者比較を含むさまざまな執着が「苦」を生み出す仕組みを問題とし、その根本原因から離れることを目指します。
比較する事自体を否定するのではなく、
「あの人より私は劣っている」
↓
「だから私は価値のない人間だ」
↓
苦しい、妬ましい、あの人が失敗すればいい
のような、自己への執着や苦へつながっていくことを問題視します。
問いを深めていき、最終的には「そもそも、なぜ『私の価値』を絶えず測り続けなければならないのか」まで問い直すところに、仏教らしさがあります。
「慢」の概念と劣等感の整理
重要になるのが、慢(まん)という概念です。
仏教の「慢」は、現代日本語の「傲慢」より広く、
自己を高く位置づけようとする心を中心に、
他者との優劣を意識して自己を位置づける働き
も細かく分析されています。伝統的な仏教では「七慢」「九慢」など非常に細かく分類されました。
慢の概念は、「私はあいつより上だ」だけではありません。
- 我勝慢:「私はあの人より優れている」
- 我等慢:「私はあの人と同程度だ」
- 我劣慢:「私はあの人より劣っている」
という形まで論じられます。
※九慢は実際には、相手との実際の優劣と本人の認識との組み合わせによってさらに細かく整理されます。
ここでは「勝・等・劣」という比較意識がすべて分析対象となることを示すため、単純化して紹介しています。
「優越感 ↔ 劣等感」は正反対の心理であると同時に、「自己を他者との比較によって位置づける」という同じ心の働きでもあります。そのため、劣等意識も「慢」の問題として捉えられうるのです。
人間の欲求と社会での振る舞い
人間には、社会生活を営む中で様々な欲求が生じるもので、「マウントをとる」といった優越・蔑視の心理もその一つと整理できました。
しかし根源的な欲求に基づいていたとしても、その行動が社会的に望ましいとは限りません。
何が社会的・倫理的に正しい事なのかは判断が難しいものです。そういった場合には、たとえ神や仏を信じていないとしても、宗教・思想の考え方が参考になることもあるかもしれません。
以下の特集記事では、私たちが当たり前だと思っている価値観を、歴史や他文化との比較を通して見つめ直します。


